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臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」は人の死ではありません。「脳死」からの臓器摘出に反対します。臓器移植以外の医療の研究・確立を求めます。

第3回市民講座(2013年7月5日)の報告

2013-10-14 07:54:10 | 集会・学習会の報告

第3回市民講座(2013.7.5) 講演録

“脳死”患者はなぜ死者にされるのか

~人間の尊厳と生権力をめぐって~

講師:小松美彦さん(武蔵野大学教授 科学史/生命倫理学)

 2013年7月5日、第3回市民講座を行いました。講師はおなじみの小松美彦さん。昨年『生権力の歴史-脳死・尊厳死・人間の尊厳をめぐって』(青土社)を上梓されました。当日はこの本に書かれた中心的な内容について分かり易く講演して頂きました。参加者は45名。小さな会議室は満杯になり、活発な質疑が行われました。以下講演と質疑の要約です(テープ起こしは天野と川見が担当しました)。

                  

はじめに・・・一見自明なことに対する問い
 戦後の復興政策として科学技術振興による経済発展を進めてきた日本は、1970年代前半から、ライフサイエンス、今でいうバイオテクノロジーによって経済をさらに発展させようとしました。その流れで80年代から脳死・臓器移植を進める路線も強くなったのですが、当時大学院生だった私は、「脳死」とは極めて政治的に作られた概念であって、脳死とされる人が死んでいるはずがないと思っていました。こうした考えのもとで、90年代以降、脳死批判の論文や本を書いてきましたが、現在では日本でも脳死を死と考える人が多いわけです。
 しかし、省みるなら、臓器移植のために不可欠臓器を差し出す人は、常に脳死者です。安楽死・尊厳死の対象とされてきたのも、植物状態の人、末期癌患者、長期療養生活を送った高齢者といった人々です。いったいなぜ、健常者の臓器提供や安楽死・尊厳死はそもそも言われないのか? 批判者まで含めて自明のこととしてきた実はその点こそが、謎に満ちているのではないか? そういう発想から、『生権力の歴史??脳死・尊厳死・人間の尊厳をめぐって』という本を出しました。本日は、その本の中心部分をお話し、最後にその先を少々申し上げます。
 具体的な話に入る前に、「この子は生きている」という2008年にテレビ愛知で放映された番組の冒頭部分をご覧いただきたいと思います。中村有里ちゃんという長期脳死者のお子さんを主人公としたドキュメンタリーです。

〔上映〕

 有里ちゃんの母である中村暁美さんは、番組の中で、「有里は生きる姿を変えただけなんです」と語っていました。今日の話の最後の方で、この極めて重要な言葉を「人間の尊厳とは何か」という問題に結びつけて論じたいと思っていますので、ご記憶にとどめていらしてください。

 

Ⅰ 医療経済・効率主義・生資本主義
 まず、なぜ脳死患者が死者とされるのか。その理由は二つあると思います。一つは経済的な問題。もう一つは「生権力」という生かす権力に関わる問題です。この経済と生権力とが相互に補完しあいながら進行したのが、近年の世界なのではないかと思っています。
 そこで、経済的な問題からお話します。脳死患者の治療費の大半は国から出ています。経済状況が逼迫する中で、国家としては、ただ生きているだけ、どうせ長くはない命、という人々の医療費を少しでもカットしたいわけです。そういう意味で、脳死者が死者にされる理由は、医療費削減が一番大きいと見ています。改定臓器移植法の施行前になって、厚生労働省が「脳死を一律に人の死と決めたわけではない」ということを言い出したために曖昧な状態になっていますが、事実上は、「脳死は人の死」という見方が社会的に蔓延したように思われます。すると、次は尊厳死法案にあげられている末期状態の人達が、その次には植物状態の人々や長期療養を続けた高齢者が、事実上の死者にされていく。そうやって次々と医療費を削る太い流れがあると見ています。
 さらには、そういう人々の身体を研究や産業に利用してお金を回転させることが、もう一つの大きな柱になっています。すでに1970年代半ばからアメリカで議論され、実質的には一部行われていることですが、医学部学生の解剖用教材、新薬投与の実験台、血液や抗体やホルモンの製造工場、代理母の代わりの出産機械など、「生きている死体」とされる脳死者は、いくらでも利用することができるのです。
 人間の身体の利用は脳死者だけではなく、しかも広く戦略化されています。2002年の小泉純一郎首相の時に「バイオテクノロジー戦略会議」が創られ、2010年には毎年230兆円ものお金が人間や動植物の身体の産業利用によって世界的に動くと試算し、日本も25兆円にするという目標が立てられました。野本亀久雄氏(元・日本移植学会理事長、現・臓器移植ネットワーク理事長)が、その事態を次のように賞讃しています。

 「『死後に自分の臓器を社会に提供します』ということを、もう一歩進めたら、それは有用な医薬品をつくるとか、医療用材料をつくるのにも『自分の組織や細胞を使っていい』という話に展開していくことになります。[…]脳死後の臓器提供を承諾された人は『自分の身体から離れたものはもはや自分のものではなく社会に帰属する』ことを認めてくれている。つまり合意されているわけで、いまはなばなしく離陸しようとしているバイオ産業も臓器移植が実現しないかぎりは無理だったのです。[…]バイオ産業については、通産省、農水省、科学技術庁、文部省、それに厚生省の五つの省庁の大臣が『二〇一〇年のバイオ産業を年間二十五兆円規模の基幹産業に育成する』という同意書を交わしています」(野本亀久雄『臓器移植??生命重視型の社会の実現のために』、175-176頁)。

 臓器移植は一般には「愛の行為」とされています。けれども、全体の主眼は人間の身体の産業化であって、臓器移植はその突破口にほかならない。くしくも、野本理事長ご自身がそう述べているわけです。
 歴史を振り返ると、私たちには人間の身体を利用してきた過去があります。その最大のものがナチス・ドイツで、570万人ものユダヤ人などを殺し、それを有効活用したのです。その映像をご覧頂きたいと思います。1955年にアラン・レネ監督のクルーが、ユダヤ人の絶滅収容所アウシュビッツで撮影した「夜と霧」の一部分です。

〔上映〕

 ナチスはユダヤ人達をただ殺しただけではなく、その髪の毛から絨毯や毛布を作って売り、死体を焼いてできた灰を肥料とし、死体の絞りカスを石鹸にした。皮膚を剥がして芸術作品に仕立てた。これを見ておぞましいと思わない人はいないと思います。
 ところが、ナチスをおぞましいと思う私たちが、現在の脳死者や様々な人間の身体の活用については「誰かの命が救われる」と美談にする。感覚がねじれているのです。ナチスは徹底的な経済主義であそこまでいった。今の私たちも、経済主義を貫徹しようとしている。現在、このような人間の身体の産業・経済活用のおぞましさを隠蔽し、合理化するものがあります。それが「生権力」という新しい権力の形態なのです。

 

Ⅱ 「生権力(bio-pouvoir)」とその核心
 生権力とは、ミシェル・フーコーという思想家が1976年に『性の歴史』という本の第1巻で語った概念です。フーコーは、従来は権力といえば人を殺す「死権力」だったのが、近代になって人々を生かす「生権力」に重きを変えたと言いました。この新たな権力は、人間が家畜を飼いならすように、まず人間を生かして、体制の思うような形に育成・管理していく権力のことです。その中には二形態あります。一つは人間個々人に対するもので、病院や刑務所や学校による訓育です。もう一つは集団に向けられたもので、出生率や死亡率や公衆衛生を通じての管理です。個人レベルと集団レベルの二重管理で都合のよい人間をつくり、管理されていることが分からない状態で全体をつかまえておく。これがフーコーのいう生権力です。
 こうしたフーコーの生権力論を、イタリアのジョルジョ・アガンベンという思想家が批判的に乗り越えようとしました。フーコーは生権力を近代以降に特殊な新しい権力と見なしたが、アガンベンは、死なせる権力と生かす権力とは、そもそも体制的な権力の裏表として古代からずっと存在した、と捉えました。
 我々は普通、人を殺すと罰せられます。しかし、アガンベンによれば、殺しても罪にならない「ホモ・サケル」と総称される人々を産出することこそが権力の中心だというのです。例えば、奴隷、宗教的な異端者、魔女と呼ばれた精神障害者、などを考えてみればよいでしょう。その人たちを殺しても罪にはなりませんでした。そして、先ほどご覧になったように、ナチスにとってのユダヤ人がまさにホモ・サケルなのです。このように権力は一方ではずっと死権力をもっていた。
 ただし、他方では、権力は他の人々は市民として保護してきました。しかし、次の点が重要です。古代ヨーロッパでは、父親に逆らった子供は父親に殺されることが認められていました。その関係を拡大したのが古代の市民社会で、人々は殺されることも認めてはじめて市民社会の仲間入りができる。このように古代から死権力と生権力は一体化していた、とアガンベンは考えた。そうすると、権力が生権力と死権力を同時にもっている以上、その権力から生きる権利を獲得することは、死権力の中に囲いこまれてしまうことになる。アガンベンからすると、それは現代の民主主義社会も全く同じで、その意味でアガンベンの照準は現代に合わさっているのです。
 脳死問題と絡めて「ホモ・サケル」について、もう少し述べておきましょう。他ならぬアガンベン自身が、現代のホモ・サケルとして脳死者をあげました。アガンベンからすると、ナチスは、生きていることが分かっていて知的障害者や精神障害者を安楽死させたのに対して、現在は、生きている脳死者をまず法律によって死んだことにしている。それはナチスを越えている、とアガンベンは見ているのです。
 アガンベンはこうも考えました。権力は、「脳死者と健常者」との線引きをした。しかし、その境界線はそれで固定されるのではなく、体制によっていくらでも自由に変えられるものである、と。私の先程の話と繋げると、日本はまず改定臓器移植法で脳死者を実質上の死者にすることにほぼ成功した。次は、尊厳死法で末期状態の人を死者にする。それが3年後の見直しになったときには、たとえば植物状態や長期療養生活を送った高齢者などへと、どんどん拡大することができる。アガンベンは的確にもこういうことを言っているわけです。
 しかしながら、私からすると、フーコーもアガンベンも生権力の核心中の核心を捉えられていない。「生きるに値する人間」と「生きるに値しない人間」とを分けることが生権力の核心であるならば、ではなぜ、特殊ユダヤ人が、脳死者が、植物状態の人々が生きるに値しない人々になるのか。なぜユダヤ人とドイツ人の間で、脳死者と健常者との間で線引きがなされるのか。フーコーもアガンベンもこの肝腎な点を検討していない。それが最大の問題だと思っています。結論から言うと、そうした区分の「装置」になるものがあって、それは誰しも疑ってこなかった「人間の尊厳」という考え方だと思っています。そこで、人間の尊厳」について考えていきます。

 

Ⅲ 生権力の核心中の核心=「人間の尊厳(dignitās=dignity)」概念
 「人間の尊厳」は西洋に伝統的な考え方です。まず古代ローマ時代には、「人間の尊厳」は高貴な身分の人だけにあるとされ、「人間の尊厳」はいわば高貴な身分にあることの言い換えでした。中世に入って、約1000年間も続くキリスト教の絶対的な時代になると、人間だけは他の動植物と違って、神様自身とそっくりに創られたため、尊厳があると考えられるようになりました。しかし、ルネサンスの時代になると、また大きく変わります。その最大中心人物が、ピコ・デッラ・ミランドラという15世紀後半に活躍したイタリアの思想家です。500年も前のピコの考え方が、現代の私たちにまで貫通していると私は思うのです。
 ピコによれば、もちろん神が万物を創造したわけですが、神は自分の偉業を讃えてくれる者を欲した。そこで神が最後に創ったのが人間でした。けれども、天使、天体、動物、植物など、神が先に創ったものたちで、存在の階段は埋め尽くされ、人間の入れる余地がなかった。また、すべての性格もすでに割りふられてしまっていた。そんなわけで、神が人間に与えたものが理性に基づく「自由意志」でした。人間は自由意志と不断の努力によって、存在の階段の最高位の天使にもなれるし、堕落して動植物になり下がることもできる。そうした千変万化しうるカメレオンが人間の中に住み着いていることが人間の卓越性で、その卓越した人間が自由意志と努力によって最高の位置に昇りついたときに、「人間の尊厳」が生まれるというのです。
 以上のうえで、私からすると、ピコの議論には、重要な三つの大前提があります。第一は、様々な存在者には序列があること。第二は、人間を動植物と比較して優れたものと見なしており、その根拠を人間だけが精神(理性)をもっていることに求めたこと。そして第三は、人間を構成している精神と身体に関して、身体は下卑たもので精神が上のものであると捉えていることです。実は、「人間の尊厳」をめぐるこうした前提にこそ、大きな問題があるのです。端的に言えば、人間から精神(理性)が失われると、おのずと尊厳もなくなり、その人は動物と一緒で尊厳のない存在になってしまうということです。
 ピコのこのような思想を安楽死の正当性にまで結びつけたのが、二〇世紀前半のドイツのビンディング(法学者)とホッヘ(精神医学者)です。彼らは1920年に『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』という共著を著し????その約20年後にヒトラーはこれを教則本にして大量安楽死を実行したといわれていますが????、「どういう人なら安楽死させてよいか」、「なぜ安楽死させてよいのか」を論じました。具体的には、安楽死の対象者は知的障害者と精神障害者なのですが、彼ら/彼女らには精神(理性)がないとまず見なす。とりわけ、自分が自分であることを認識する「自己意識」や、「生きようとする意志」がない。ビンディングとホッヘからすると、自己意識と生きようとする意志があることこそが「人間の尊厳」なのですが、そうである以上、それらを失った知的障害者や精神障害者は動植物と同列になり、「人間の尊厳」がないことになる。だから、安楽死させてもよいとしたのです。その際、もう一つ重要なことがあります。彼らが国家全体を一つの生きもの、つまり「国家有機体」と把握したことです。最も守るべきものは国家有機体であり、そのためには、それを蝕んでいる尊厳なき障害者を排除することが必要である、と考えたのです。
 この考え方を実行に移したのがナチスです。ナチスは大きく見て二種類の人々を殺害しました。精神障害者と知的障害者、そしてユダヤ人です。その際、また持ち出されたのが「有機体」という把握です。ビンディングとホッヘは最高の有機体を「国家有機体」としましたが、ヒトラーの場合は人種・民族でした。歴史上最高の人種をアーリア人種だとして、その末裔たるドイツ民族を最高の民族だとしました。そして、いわば「人種民族有機体」を尊厳ある至極の存在と捉えて、この全体的な有機体を守ってさらに高めるために、足枷となる尊厳なき者を切除したのです。それが理性や知性なき精神障害者・知的障害者とユダヤ人なのです。しかし、ユダヤ人のなかにはもちろん健常者もいるわけで、そのためヒトラーはユダヤ人全体を、バイ菌、ウジ、ダニ等々の“下等”生物にたとえました。通常、この比喩は単なる差別と見なされていますが、しかし私からすると、精神がない生きもの、すなわち尊厳のない生きものの象徴として、そのようにたとえたのです。生権力的に見ると、人種民族といった全体を管理・訓育して、極上の状態へと仕立て上げることが至上目的であり、悪くなった部分を取り除くのは当然とされるのです。
 この考え方は、キリスト教神学の最高の研究者トマス・アクィナスにさかのぼります。13世紀の人です。トマスは手足の切断についてこう述べました。神が創った身体を完全なままにしておくのは人間の義務だが、1本の手足が壊死を起こせば、いずれ全体を侵してしまう。だから、全体を守るためには壊死した部分を切り取ることは許される。この考え方を国家や人種に拡大したのが、ビンディング、ホッヘ、そしてヒトラーなのです。ヒトラーにとって、人種民族有機体の内側に巣食うものが精神障害者や知的障害者で、外側から寄生するのがユダヤ人であり、ヒトラーはそれを壊死した部分として切除したのです。従来、障害者の大量安楽死とユダヤ人の大量殺戮は別のものと見なされてきましたが、「全体を守るため」という点では同根だと私は捉えています。
 戦後世界では、戦中に「人間の尊厳」が蹂躙されたという反省のもと、新憲法や国際連合憲章がつくられ、世界人権宣言も公表されました。しかし、そのほとんど全てが理性と尊厳とを掲げているのです。昨今の日本では、例えば日本移植学会理事の相川厚氏が、著書『日本の臓器移植????現役移植医のジハード』で、「人間というのは人生の最期まで尊厳があるべきです」(329頁)と語っている。そして、“人間の尊厳を失いかけた”脳死者からの臓器摘出を牽引してきた氏にとって、「人間の尊厳」を損なっている状態とは、意識すなわち精神がない状態です。脳死者が意識・精神のない状態で生きながらえることは尊厳がない、だから臓器提供者にすべきだ。こういう主張になっているのです。
 以上のように、ピコに始まった「人間の尊厳」の把握の仕方は、ナチスをはさんで、数百年間も続いて今に至っています。しかも、ナチスは障害者やユダヤ人が生きていることを承知していたからこそ、その殺害を秘密裏に行いましたが、現在は生きている脳死者を法律によって公然と死者とする傾向にある。法律によって「ホモ・サケル」にしているのです。その意味では、直感とは裏腹に、アガンベンも言うように、現在はナチスを越えた時代になっているのではないか。たしかに、ナチスと現代では異なる点もあります。ナチスでは一部の人々が強制的に死の淵へと廃棄されたのに対して、現在では多くの場合、自己決定権に基づいているという点です。しかし、自己決定権の実体は、自分で自分を死の淵に廃棄するにほかならならないででしょう。そして何よりも考えるべきことは、ナチスでも現在でも、死の中に廃棄する者としない者とを、つまり「生きるに値しない者」と「生きるに値する者」とを選別している基準が、まさに「人間の尊厳」の有無だということです。

 

Ⅳ 対置する「人間の尊厳」
 では、「人間の尊厳」をどのように考え直したらよいのでしょうか。私たちには「人間の尊厳」なるものを体感するときがあります。自分にとってかけがえのない者が変わり果てた姿になってしまったのを目の当たりにしたときです。そして、その人の名を呼ばされてしまう瞬間に、亡くなった人と残された者とのあいだに「人間の尊厳」というものが成立しているのではないかと思うのです。尊厳とは、一人一人の人間の中にもともと備わっているものではなく、人々の関係の中に成立するものではないか。そう私には思えるのです。
 ここで冒頭のあの言葉を思い出して下さい。「娘は、生きる姿を変えただけなんです」という中村暁美さんの言葉です。それは、愛娘がどんな状態になっても、それでもただそこにいることを自然に受けとめて、発露した言葉ではないか。そこに、ひたすらただ生きている有里がいる。それを眼差すお母さんが「生きる姿を変えただけ」と感じたまさにその瞬間に、二人のあいだで尊厳が立ち上がってくる。こんなふうに私は思うわけです。暁美さんは、有里ちゃんが亡くなった後に『長期脳死????娘、有里と生きた一年九ヶ月』を出版しました。その中に非常に不思議な一文があります。私にとっては最も重要だと思えるものです。

 「霊安室には、病棟の先生方、看護師さん、保育士さんが交代でお別れに来てくれました。お休みの看護師さんもわざわざ駆けつけてくれました。みんなが有里に手を合わせて、『ありがとう!』と言ってくれます。お世話になったのは有里だから、『ありがとう』はこちらの言葉なのに、本当に多くの方が、たくさんの『ありがとう』を言ってくれました」。

 この「ありがとう」という言葉は、人々の心の底から湧き出たものでしょう。有里ちゃんのお兄さんも、「有里、ぼくの妹になってくれてありがとう」と書いています。考えるべきは、この「ありがとう」が何かということです。どんな状態になっても、最後の最後までありったけの命を発散させたことに対する感動、それによって自分が支えられてきたことに対する感謝、そうした思いが「ありがとう」という一見単純な言葉となってスッと出てきた。そのときに、有里ちゃんと「ありがとう」と言った人々のあいだに、「人間の尊厳」なるものが立ち現れていると思うのです。
 歴代の思想家や哲学者は、ただ生きているだけのものに理性が加わったことを「人間の尊厳」と捉えてきました。しかしながら、「ただ生きているだけ」、「ただそこにいるだけ」、このことが一番重要ではないか、と私は思うのです。とすると、はたして問題は、「生きているだけ」という時の「いる」とは何かということです。
 今から申し上げることは、ハイデガーとハイデガーを解釈したある文学者が書いたことを元に、私なりに考え直してみたことです。私たちは、私が「いる」とか、○○さんが「いる」と言います。けれども、本が「ある」とは言っても、本が「いる」とは言わない。そのときに私たちは、「いる」と呼ぶものと「ある」と呼ぶものの違いを何となく感じているわけです。それは、「心」があるかどうかの違いになっているように感じられるけれども、実はそうではない。桜の木が「いる」とは言わずに、桜の木が「ある」と言う。しかし、桜の花が咲いて「いる」とは言う。とすると、何かの存在者が姿を現していて、その姿を受け止めて自分に溶け込んでいるときに、それを「いる」と、多分私たちは表現するのです。
 ところが、「いる」ということは、ある前提を抱え込んでいると思うのです。「いる」には、今ここに確かにいるけれども、「いつかはいなくなる」ということが入り込んでいる。この点について中村暁美さんと話したことはありませんが、有里が「いる」と言ったとき、「いなくなる」という覚悟があったはずなんです。 
 ハイデガーは、「人間はやがて自分が死ぬ存在だということを覚悟して引き受けることができる。ここに『人間の尊厳』がある」と考えました。けれども、ハイデガーの議論は「私」に関してでしかなく、人々の関係性が置き去りにされている。そこで「他者」という視点を入れて考え直しててみると、今「いる」と言うときに、その他者が「いなくなる」ことが入り込んでいる。そのような意味で、そこにただ「いる」人と、そう見えてしまっている私との「あいだ」に現れてくるものが、「人間の尊厳」だと思うわけです。つまりは、歴代の思想家達が否定してきた「ただ生きているだけ」こそが、「人間の尊厳」を考える上で一番重要なことだと思っています。
 今私が申し上げたことは、本当はほとんどの人が日常的に感じていることのはずです。私たちはその感じ方を大切に生きていけばいいし、それを様々な形で奪ってしまう制度や法律や自己決定権という考え方に対して、どう批判的にくみしていくか、これが現時点で考えるべきことだと思うのです。

 


質疑
質問)知的障害と精神障害という概念は、知的障害からボーダーラインへ、または精神薄弱から発達障害という名称へと拡大して精神障害という1つのカテゴリーに組み込まれてきている。知性や理性が欠落していることを知的障害と精神障害という二つの言葉で表すことに問題はないのか。
小松:私が知的障害者や精神障害者という言葉を使ったことの問い直しは必要だと思います。ただし、それに該当する言葉をホッヘやナチスが使っています。本日はその意味で使いました。精神障害として一括されたものが分けられていくという今のお話を、生権力が境界線を恣意的に動かすことができる一環と思いながら伺いました。

質問)知的障害者が理性の欠如の象徴とされることと、ユダヤ人が虐殺された話は繋がっているのか。
小松:今まで両者は別個の話と言われてきましたが、実はそうではないだろうというのが私の見方です。ヒトラーはユダヤ人を知性・理性のない下等動物にたとえ、さらにユダヤ人の知性は真の知性ではないと強調しました。その点で、知的障害者・精神障害者とユダヤ人それぞれを排除した論理は一緒でしょう。しかも、あくまで全体を守ることを大目的として一部分を排除するために線引きする、という点でも同様だと思います。

質問)①尊厳を人間に限定すること自体が間違いではないか。生命そのものの尊厳から出発して「人間の尊厳」と対置させて考え直していく視点が必要なのではないか。②社会から排除される部分に真っ先に向かったのがキリスト教の出発点なのではないか。中世以降はお話の通りだが、もう少し広く考えると修正が必要ではないか。③尊厳が関係において立ちあがることは分かる。だが、死が起こったことによって、かえって尊厳が立ちあがってくるのではないか。私には生きて死んでいくその大きな流れの中に尊厳が感じられる。
小松:①この問題については、私もずっと考えています。私は年齢とともに蚊やゴキブリを殺すこともできなくなってきています。意外なことに、同じことを書いていたのが中曽根康弘氏なんです。氏がG7で蚊を殺さずに逃がすと話したら、サッチャーは逃がした蚊は隣の家に刺しに行くと言った。その辺が西洋人と日本人は違うと書いています。人間が他の動植物を食うことと全ての動植物の尊厳とをどう考えたらいいか、そこで私も詰まっています。②ナザレのイエスがなしたことは、よく考える必要があると思います。それと実際に出来上がったキリスト教とは違っているし、ルネッサンス期以降のキリスト教は特に違っている。今日は、あくまでもルネサンス期以降のピコの理論を中心に批判しました。③私も、死を最大の契機として尊厳が立ち現れると思います。

質問)脳死の状態は生きていると思う。回復する人もいるのに「死」にしてしまうのは臓器を求める人がいるから。価値あるいのちの為に価値なきいのちを殺してしまえというのは殺人だと思う。
小松:おっしゃる通り、なぜ脳死を死とする考えが出てきたのかというと、臓器移植が登場したからです。考えるべきことは、技術の開発によって「助かりたい」「自分の肉親を助けたい」という人が出てくることです。そういう気持ちを起こさせてしまう技術や体制全体が、私は許せないのです。

質問)①キリスト教の場合、聖書を問題にしなければならないと思う。十戒の倫理規定の最初に出てくるのは、殺すなということである。このことをどう思うか。②日本で尊厳という言葉を使い始めたのは福沢諭吉だと思うが、その流れをどう考えるか。
小松:①十戒からは離れますけれども、私は「殺すな」を原点にすべきだと思います。②福沢諭吉がそうだというのは知りませんでした。「やっぱり」、と思いながら伺いました。

質問)脳死のお母さんとお子さん達の関係の中に尊厳があるとなると、関係を持つことができない人間の尊厳はどう見いだせるのだろうか。
小松:中途半端な答えだと思いますけれども、それを制度的に何とかしなくてはいけないと思っています。そういう私の考え方に対して、たとえば哲学者の小泉義之氏から「福祉制度と医療への幻想を沸き上がらせるものにしかなっていない」という批判を受けました。ただ、私はそれでも、国家がどこにお金を注ぐかが重要だと、暫定的には思っています。

質問)①「ユダヤ菌」とは蛆や虱などの病原菌と同じだといっているのか?②ヒトラーは真の賢さとは何だと言っていたのか。
小松:①ヒトラーは、伝染病などに病原体があるのと同様に、社会の病気にも病原体があると考え、それを「ユダヤ菌」と呼びました。蛆や虱はユダヤ人に対する蔑視の言葉で、私からすると、ユダヤ人には知性ひいては「人間の尊厳」がないことのたとえです。②ヒトラーにとっての真の知性とは、文化・芸術です。その最高峰に建築術を、そして最底辺に演劇をおきました。ユダヤ人は建築術に劣っていて、しかも彼らが得意とする演劇には知性のかけらもないと言っています。

質問)①ある障害児が髄膜炎になり、医師から「どうしますか?」、つまり「殺しますか?」と聞かれた時、ある母親は「生かして下さい」と言い、別の母親は「殺して下さい」と言った。その違いは何か。②社会制度としての手当があると、社会から応援してもらっていると感じた。手当が減らされると、実は迷惑だったといわれているように思ってしまう。
小松:①殺して下さいと言ったお母さんを存じ上げないので分かりませんが、一般的に考えられるのは、その人がどう育ってきたかが関係するということです。②社会的な助成制度はここ20年に渡って減らされてきており、充実させる方向に行くべきです。ただし、制度とは関係なく関係の中でやっていくのが、本来は重要であると思います。

質問)①ある障害者の親が自分の子どもを懸命に介護し、老いた舅については早く死んでほしいと素朴に言う。この違いについてどう考えるのか。②今日は優生思想をいう言葉が一度も使われなかったが、理由があるのか。
小松:①あくまでも直感的なものですが、息子に対する必死な思いがねじれて舅に対する言葉になっているように思いました。②優生思想という言葉を出さなかったのは、たまたまだと思います。今日は優生思想と言われるものが何かということを話してきたつもりです。広い意味での優生政策があって、その中の一部が安楽死政策であるというのが私の見方です。優生政策とは、全体を守るために一部を切り捨てるということです。

質問)著書には記述されてはいなかったが、出生前診断についても染色体異常によって理性や精神の弱体化という線が引かれ、染色体異常の胚が廃棄されると理解できるのではないか。
小松:図式としてはそのとおりだと思います。


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第2回市民講座(2013年1月26日)の報告

2013-02-24 15:58:16 | 集会・学習会の報告

第2回市民講座の報告
私たちに死ぬ権利は必要なのか?

 2013年1月26日、第2回市民講座を行いました。講師はALS患者会の川口有美子さん。
 「私たちに死ぬ権利は必要なのか?」とのテーマで、ALS患者から考える「尊厳死法制化」の動きを批判されました。参加者は45名。小さな会場は川口有美子さんのお話を聞きたいと集まられた方の熱気で一杯になりました。以下、当日のテープ起こしを元に報告いたします。

 

【主催者挨拶】
 改定された臓器移植法が施行されて2年半がたちますが、この間脳死からの臓器摘出が120例行われています。そのうちの約8割に当たる97例が本人の同意なく家族の承諾での臓器摘出でした。この中には15歳未満の自殺と言われる少年からの摘出や6歳未満児への日本では初めてとなる法的脳死判定・臓器摘出も含まれています。この法律の付則には施行から3年で見直すとなっていて、本年の夏以降にさらにドナーを拡大する案が提示されるのではないかと、不安に思っているところです。そんな中、昨年には尊厳死法案が提案されました。本日は第41回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『逝かない身体』著者の川口有美子さんに講師をお願いしました。この本を読んで、ぜひ川口さんのお話を聞きたいと思ったからです。また、現在進められようとしている尊厳死法案の問題点や臓器移植との関連についても討議できればと思います。


川口有美子さんの講演

はじめに
 皆さんこんにちは。第41回大宅壮一ノンフィクション賞を頂きましたが、私の体験が珍しく、正直に書いたことが評価されたのではと思います。
 母がALSに罹患して、呼吸器をつけると長く生きられるが、呼吸器をつけないとその場で亡くなるわけです。大体2年くらいで呼吸器麻痺が来て、呼吸器をつけるか否かの選択を迫られます。呼吸器を選ぶ人は少ないのですが、日本では約3割の人が呼吸器をつけています。イギリスは1%以下、アメリカはお金持ちがつけている例がありますが、欧米では基本的には呼吸器をつけないという合意があります。呼吸器をつけても病気は進行し最終的には眼球運動も止まり、見た感じは植物状態に近いTLS(totally locked in)に陥り、外とのコミュニケーションを絶たれてしまいます。
 この本には、家族の中で暮らしている限り、以前の母と何ら変わりはない、呼吸器を外すことに反対したと書きました。ランの花のように大切にすればいいのではないかと、病人の介護から学んだことを正直に書きました。
 母は1995年に発病し、96年に呼吸器をつけ、2007年に亡くなりました。当時、社会では終末期の人の生きる価値や生きる意味が問われ、私の気持ちは揺れました。私個人の考え方は、社会の動きとリンクしていきました。ALSの患者会に入り活動をし、2004年頃から尊厳死法制化の動きが出て、巻き込まれるように、当事者としての考えを求められていきました。私は、母が病気になったので看病しました、呼吸ができなくなったので呼吸器をつけました、家族だけで介護すると息が詰まるので制度を使いました、制度を使ってみると使い勝手が悪かったので会社を作りました、医療的ケアも社長となって自分が責任を取る形でクリアしました、周りの患者さんが介護に来て欲しいと言ってきたので、うちのヘルパーを派遣しました、そういう感じで巻き込まれて、それが十年続き、次々に問題も出てきて、今は生活保護の問題にまで首を突っ込んでいます。先日、厚労省に20万人の署名を届けました。宇都宮健児さんや雨宮かりんさんと一緒に提出してきました。これもひどい話で、不正受給している人も少しはいるが、その人たちがクローズアップされて、全員切り下げ。おかしいですよ。生保の申請に行くと対等な人間と扱われず、お財布の中身まで勝手に見ようとする職員もいる。生活保護が1割カットされると労働条件も切り下げられます。何とかしたい。生活保護を受けている人は、延命措置はしないと書かないと、病院や施設にも入れないという事態にまで進んでいます。

自己決定の欺瞞
 これは2009年に「死生学と生存学の対話」で話したパワーポイントなのですが、今も全く同じ問題があります。私達のテーマには「自己決定とか自己責任に対する欺瞞」があると思います。
≪私の決断―「ヤコブの梯子」≫
 背景の写真は「ヤコブの梯子」と言われるものです。曇天の日に雲がわれると一筋の光が地上を照らすという美しい光景で、神の啓示と捉えられている。ロンドンにいた時、母の病気を聞き、呼吸器をつけるかそのまま亡くなってもらうか、と迫られました。母が呼吸器をつけると決断したら私は帰国しなければならないが母も迷い決めかねていました。子供の幼稚園にお迎えに行く時でした。雨が上がり日が差してくると、車と光が一緒に走り、車のボンネットに光が反射して、声が聞こえたのです。「大丈夫、全てうまくいくから帰りなさい」と。その時私は決断しました。自然現象を啓示ととらえる瞬間が人にはあると思うのです。そこから自己のストーリーが始まったと。日本に帰ってから介護で大変な目に会うのですが、必ずこの場面に立ち帰るのです。海外では死なせた方が幸福だと呼吸器を外して死なせることもあるのですが、私は母の生が悲惨とは思いませんでした。しかし、それが一般の人に伝わらない。どうしたら分かってもらえるかを考えなくてはならない。

≪昇天を描いた天井画≫
 天井画を見て、私は癒されたことがありました。見ていて、昇天するのも悪くないなぁ、母は死んだ方が―、死ぬことも怖くないと思いました。そうは思っても、実際にはぎりぎりまで治療したし、こういう死を選ばなかった。死はあこがれとは違います。安らかな死に対するあこがれを否定はしないが、治療や科学技術を使って生きることも肯定しなければいけないと思います。

これまでの流れ 
 母が95年に発症して介護生活に入り、2000年には意思伝達不可能な状態、TLSになりました。TLSとは都立神経病院の林秀明院長が命名したものです。海外ではALSには呼吸器をつけないので実態はありません。私の博士論文のテーマはTLSをめぐる国際関係史です。私は2000年頃、海外のように安楽死法制化が必要と主張していました。その時の記述はそのままHPを残しています。注をつけて何年か後に私は考えが変わったと書いていますが。そのあと、橋本操さんと出会い、患者会を手伝うようになりました。2004年8月には相模原事件が起きました。この息子もTLS寸前でした。尊厳死法制化の動きが出てきて、ターゲットになったのがALSです。2005年にさくら会で「尊厳死って何?」というイベントを行いました。2006年3月に射水市民病院で呼吸器取り外しが発覚、厚労省は2007年に「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を作成します。2008年にはメディアと一緒に後期高齢者の「終末期相談料」を廃止に追い込みました。2009年にはALS患者の中から呼吸器を外したいという患者も出てきて、倫理委員会の承諾を得られればいい、みじめな体で生きて死にたいのに死ねないのはかわいそうという声がでて、そして今回、医者の免責で呼吸を中止できる法律案を尊厳死議連がまとめ、死の法制化を求める流れが大きくなってきました。

終末期医療のあり方に関する懇談会で
≪柳田邦男さんの変化≫
 柳田邦男さんは、「クローズアップ現代」で「いうならば、海底一万メートルの深海に、ただひたすら暗闇の中で生きていかざるをえないという苦しみは健常者にはわからない、延命治療を棚上げにしていることが問われている」と話したのです。私はびっくりしました。そして本を書き上げ、編集者の方がすぐに柳田邦男さんにこの本を届けてくれました。彼は次のNHKスペシャルでは呼吸器を止めてほしいという照川さんに「照川さんは死にたいというが、僕は生きていてほしいんだ」と話しました。
≪懇談会委員からは人工呼吸器開始の意見は出ない≫
 コミュニケーションができるできないは読みとる側。患者の時々の気持ちを読み取ることが重要です。ヘルパーや家族が読みとろうとしなければ、読みとる側があきらめた時が終わりなのです。難病連の伊藤たておさんは「呼吸器をつけてくれと懇願しているのに、つけてくれない、治療不開始や中止の話の前に開始の話をしてほしい」と言います。

人々は死よりも病人の生を恐れる!?
 実は呼吸器をつけてくれないという相談が毎年何十件も来ます。殺人に近い話があるのです。今問題になっているのは、栃木の女性患者さん。子どもが小さく死にたくない、しかし呼吸器をつけるなら夫は仕事をやめて介護をせよと医療職から言われていると。行政は24時間の介護はできない、一人にたくさんの税金は使えないといい、栃木には医療的ケアをやっている事業所がない、だから患者を東京や千葉に連れていくと言うと、難病相談の連携がないから、今動かすのは止めてくれという、こんなのばっかりです。死について語ることがタブーとされてきましたが、今は重篤な病人や脳死と言われる人の長期生存について語り合うことがタブーになっています。そういう人の長生きを語ると「え?」と言われます。死にたい人には共感が集まり、生きたい人は無視される、そんな状況があります。

意思伝達不可能性は人を死なせる理由になる?
 さて、意思伝達不可能性、自立できずコミュニケーションが取れないことは本人のせいでしょうか、操さんはブログで「人間はしゃべりすぎる、ALSはいいぞしゃべらないから」と発信しています。不作為による死は自然死とか平穏死といわれますが、ALSは進行性なのでほっとけば死んでしまいます。不作為という作為的な死があふれ返っているのです。北海道のピアノ教師は呼吸器を希望したのに、夫と医者がモルヒネを開始して死亡させてしまった。岐阜県では、気管切開してほしいと本人は訴えたのにベッドが空いてないと放置して死んでしまったとか、愛知県では、本人家族とも呼吸器を希望していたが脅かされてつけられなかった例、他の都道府県でも施設で吸引をせず痰づまりにして死んだとか、24時間介護保障は可能のところが在宅サービスを中止したとか、見守りというサービスが使えず家族が仕事で不在の間に吸引せず死んでしまうなど、ケアをしないから、死んでしまうことが結構多いのです。
 母の体験や橋本さんとかバクバクの会の人が説明をすると、呼吸器をつけないと言っていた人がほんの30分で人工呼吸器つけたいというのに、ドクターはいったいどんな説明をしているのか、「自然」ということで処理されているのです。治療の不開始を安らかな死に変更し、法制化されようとしています。

死のプログラム化が進む
 イギリスではALS患者に人工呼吸器につなげないで納得して死んでもらうための緩和ケアプログラムが作られています。日本もそうしようとしています。アメリカでは呼吸器を外す期日を決めておくそうです。例えば息子が高校卒業するまでとかと決めないとつけてもらえない。日本は何で外す時期を決めないのかと聞かれます。患者にすれば恐ろしい話で、次は孫の顔が見たいと思ってもその時はもう言えないのですから。オランダは3人に1人は積極的安楽死を選択してうまくいっているそうです。法律ができると死がプログラム化されるのでうまくいくわけです。ALS患者は呼吸器はつけず、つけても外す日を決めておく、日本だけTLSになっても生かしていておかしいと言われています。
 呼吸器の患者から見ると、自己決定とは怖い話ばかりです。これが自然死・尊厳死につながる話です。唾液が出てみっともないからモルヒネを使い、増量してだんだん中毒にさせて、呼吸苦を緩和すると。それがALSの緩和ケアの主流なのです。こういう死に方がいいとのバックグラウンド、資源、リソース、家族、支援者・・有形無形にあるわけです。40カ国のALS患者で構成するインターナショナル・アライアンスでは安楽死に反対するというステートメントを出すことができ、これは良かったと思います。

<前半の質疑から>
■自然死という言葉がお話の中で出てきましたが、もともと自然死という言葉自体はずいぶん昔からあるという印象なんですね。それが現在の尊厳死の文脈に絡めて語られるようになったのは、最近のことでしょうか。あと、自然死という言葉を尊厳死と絡めて言い始めたのは医療者側でしょうか。
川口:それは私も聞きたいですね。今自然死という言葉が出てくるのは、人工呼吸器とか、特に最近は経管栄養ですね。口から食べられるあいだは自然だけれども、食べられなくなって経管栄養にしているのが不自然だと、いわゆる「胃ろうVS自然死」のような話になっています。その前はどうだったのか、誰が使い始めたのかは、聞いてみたいですね。
■その人が自然だと思えば自然だし、平穏だと思えば平穏なはずですよね。
川口:そうそう。私からすると、私の母は自然だったし、平穏でした。苦しい人に呼吸する機械をつけるのが自然で、苦しい人を助けない方が不自然なんですけど、世間的にはそうじゃないわけですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 休憩 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

生命維持の停止、臓器提供の実態

 事務局から守田が説明します。最初に、射水市民病院の事件を契機として一時的に人工呼吸器の停止は減ってるんだということを説明します。日本移植学会雑誌『移植』21巻2号p152~p158掲載の「わが国における死体腎提供の現況と問題点」によれば、1980年から85年3月まで、死体腎移植314例において、人工呼吸器をつけたまま摘出したのが75例で23.9%です。これは人工呼吸器つけたまま、心臓拍動したまま、つまり今の脳死摘出と同じことをやっています。それ以外に、人工呼吸器を外して摘出したのが21例、外して心停止を待って摘出したのが122例です。当時の日本移植学会は、人工呼吸器をつけたままと、人工呼吸器をはずしてからの摘出、これらを含めて脳死臓器摘出と言っていました。つまり、7割以上が脳死臓器摘出だったということです。
 1985年に「厚生省の脳死に関する報告書」では、6カ月間に脳死判定された718例のうち、人工呼吸器停止で死亡したのが148例で19.8%です。
 日本臓器移植ネットワークの2004年のニュース・レターでは、9年間で心停止から献腎移植1279例のうち、人工呼吸停止後に摘出した腎臓移植が280例あったと記載しています。移植例ですからドナー数はその半分となります。
 腎移植症例集2010(p214~p217)によると、長崎県下では2006年前半までは人工呼吸器を停止させていましたが、2006年後半からは停止するのを止めたと明確に発表しております。人工呼吸の停止は今、一時的に激減しているということだと思います。

 生命維持の停止といいますと、人工呼吸の停止が注目されるんですが、それ以外にも色んな方法があります。人工呼吸は継続しているけれども、同時に投与している酸素濃度を半分されて心停止した人もいます。
 1968年に、弘前大が14才の男児に人工心肺をつけて全身冷却し、心臓停止後に腎臓を摘出したと、『移植』の4巻3号p218に書いてあります。
 1993年8月20日、柳田邦夫さんの息子、洋二郎さんが心停止した後に腎臓を摘出されました。東京医科大学の当時の移植チームの発表論文からすると、これは動脈の中にダブルバルーン・カテーテルを挿入して、それを膨らませることによって急性動脈閉塞で心停止させたと推測されます。柳田邦男著、犠牲(サクリファイス)によると、移植コーディネーターは「血圧が50を切っても、いつまでも心停止しないときは腎機能に異常をきたす可能性があるので、その時は心停止前に冷却した腎保存液の注入を開始したい。それによって心停止が数分から10分程度はやまる可能性がある」と説明してます。
 それ以外にも、血圧が低下してきたときに血管拡張薬を投与して心停止を早めるというのもありうる。昇圧剤を停止したり、出血性疾患の方に血液を固まらないようにする薬物を投与するというのもあります。
 新潟の立川総合病院では、脳出血の54才の男性に第4病日10時にカテーテルを挿入し、12時に昇圧剤を停止し、血圧が40代になってから、血液を固まらないようにするヘパリンを注入して14時26分に死亡を確認したということです(今日の移植25巻2号p155~p160)。
 注意してもらいたいのは、こういった行為が、本人の生前意志がほとんどなく、家族の承諾でやってるわけです。今の尊厳死法案というのは、本人の生前意思を同意としているわけです。ですから、本人の生前意思を前提とする尊厳死法の議論をするのであれば、心停止後の臓器提供はとりあえず凍結しなければならないことになるでしょう。
 家族の承諾がちゃんととれていれば、こういった臓器提供も可能なんだという理屈がありますが、では、家族の同意は正当にとられているんでしょうか。たとえば、血液を固まらなくさせる薬を投与する場合などは、「心臓が停止し、血液の流れが止まってしまうと、腎臓の中で血液が固まってしまい、移植できなくなる場合があります。そのため、脳死状態と診断されたあと、心臓が停止する直前に、ヘパリンと薬剤を注入して血液が固まるのを防ぎます」とだけ説明しています。本当はこのあと、「この薬は、脳出血の方とか外傷の方に投与してはいけない薬です。これを投与したら心臓止まるかもしれない」。ということを説明すべきなんですけれど、してない。このことについて、阿部知子議員が質問主意書を出したところ、2012年9月14日、当時の野田総理大臣が「より適切な表現とするよう検討したい」と答弁しました。ただし、表現を変えたとしても、臓器提供目的で生前から患者に侵襲を加えることについて、家族の承諾を求める文章であることは変わらないわけですね。だから、臓器獲得という目的ならば、ドナー及び患者の家族の人権は無視される傾向があったことと、そういった流れのなかで尊厳死法案ができたらどうなるかということを想像するべきと思います。

 欧米では、死を予期して生命維持を停止しても、数%は死んでいません。生き残ってます。例えば、カナダを中心とする15の集中治療室で、74時間以上の人工呼吸を受けた成人患者851例のうち166例は人工呼吸器を停止した。そして6名、3.6%が生きて退院したということです(The New England Journal of Medicine,349(12),1123-1132,2003)。そして、生存退院した方は、長期療養施設等に移送されたあと、やっぱり死亡している。さらに、1名の患者は自宅に連れて帰られたあと48時間以内に死んでいるということです。つまり、生きるか死ぬかの話以外に、苦しんで死んでるという状況があるんです。
 サンフランシスコの病院で、生命維持が控えられた、または中止された非脳死患者44名では、42名で人工呼吸器が停止されました。鎮静剤または鎮痛剤が44名中33名投与された。生命維持の差し控えまたは中止から死亡まで、中央値3.5時間、早い人は5分で、長い人は5.5日かかった。患者家族や代理人は、薬物を投与すべきか決断するように問われたことはないにも関わらず「必要があれば患者に、鎮静剤と鎮痛剤を投与してcomfortaleにする」と告げられるのが通例であった。生命維持を中止された患者のうち1名は、医師、看護師により呼吸困難の苦悶があったと報告されています。また、3名は、人工呼吸器をはずされることなく筋弛緩剤を投与されて死亡しています。こうした薬物の投与について、医師の88%は、患者の苦痛の軽減だと、36%は死を早めるためと回答したそうです(JAMA,267(7),949‐953,1992)。

 では、心停止ドナーではどうかというと、オーストラリア・モナッシュ大学アルフレッド病院の報告(Transplantation,86(12),1702-1706,2008)では、2006年から8年まで、心停止ドナー候補者13名のうち、10例は20分以内に心停止したが、3例は90分以内に心停止にいたらなかったそうです。
 右上のグラフが、人工呼吸を停止されてからの収縮期血圧の動きです(グレーはドナーとされなかった3例)。心停止までに、1例は90mmHgから200mmHgに急上昇しています。
 右中のグラフは酸素飽和度の推移です。3例が途中で上昇しています。ということは、人工呼吸器を外されたけれども、苦しくて息をして、息をしたから酸素飽和度が上がった、苦しんで死んだと思われます。なかでも、ドナーとされた1例は、一旦90%くらいで外されたあとに10%ぐらいまで上がっている。その後は低下する一方で、苦しくって呼吸したけれども力尽きて死んだ様子を示すと思われます。
 右下のグラフ、心拍数の推移は、毎分60数回だった人が人工呼吸を停止されて一旦50回ぐらいまで下がり、そのあと2分間ぐらいのうちに毎分130から140ぐらいに急上昇しています。ですから、「人工呼吸器を外す・外さない」の問題だけでなくて、人工呼吸を停止すると苦しんで死ぬ、という問題があるということです。

 中には、社会復帰した方も報告されています。米国ウェストヴァージニア州のヴェルマ・トーマスさん、59才の女性ですけれど、心停止ドナー候補者だったんですが、人工呼吸器外されてから10分後に意識が回復したそうです。医師によると、心停止が3回あり、脳波も17時間に渡り測定不能で神経学的機能停止状態だったそうです(2008年5月24日のABCニュース)。
 一方で、訴訟を検討している人もいます。2011年10月に交通事故にあったデンマークのカリーナさんは、脳活動が確認されず、医師が家族に相談して家族が臓器摘出に同意した。ところが、生命維持装置を中止して24時間も経たないうちにカリーナさんは目を開けて足を動かした。彼女は20才になっているそうですけれども、歩いてしゃべれるだけじゃなくって、馬にも乗れると。家族は医師らが臓器欲しさのあまり治療を怠ったとして病院を訴える準備をしているということです(2012年10月18日のDaily Mail記事)。
 つまり、本当の瀕死患者以外に、定義不能の終末期で生命維持の停止をすれば、こういうことが起こるということです。さらに臓器提供が可能な状態の方、つまりある程度活力のある方の生命維持を停止しようとする場合には、さらに悲惨なことが起こるだろうと思われます。そのことを京都大学の呼吸器外科の陳豊史さんが書いてます。
 「心臓死ドナーはいわゆる脳死状態ではないため、人工呼吸停止を行っても心停止に至らない場合がある。それは、多くの場合は、いくばくかの自発呼吸が保たれていることがあるためである。(中略)筆者らのいたトロント大学の経験では、約半数の心臓死ドナー候補が、人工呼吸停止後に心停止に至らなかった」と報告しています(移植44巻5号p415~p420)。陳氏は、胸部外科学会で、肺の状態よく保存するためにガス麻酔を心停止肺ドナー候補にかける動物実験も発表しました(The Japanese Journal of THORACIC AND CARDIOVASCULAR SURGERY53巻Suppl.II、p629、2005年)。
 瀕死の状態でなくて定義不能の終末期患者の生命維持を停止する、あるいは臓器提供可能な状態と認める人の生命維持を停止する場合には、患者さんが死なない場合が起こりうる。中には意識回復すると訴訟も起こりうる。そういうことを回避するために、薬物を使った積極的安楽死が行われるようになるんではないかと考えます。尊厳死と言いながら、次第に積極的安楽死に近づいていく。しかも本人の意志なく家族の承諾で。そういう方向になっていくんではないかと危惧しています。


<後半の質疑から>

 ■川口さんは、医療費を削減しようとしている人達を、敵とみなして対決していくのか。それとも彼らとの話し合いの中で妥協点を見つけていけるのか。この点についてどういうふうにお考えでしょうか。

川口:そこは難しいですね。敵じゃないと思いますね。たとえば、尊厳死協会副理事長の長尾氏によれば、尊厳死協会員の中にも私達と同じような考えの方が沢山いる。まずどこが違うのかを洗い出していく作業をやったらと思います。
 尊厳死協会は法制化を求めていますが、法制化に関していえば、私は100%反対です。患者さんの意志というのは法律ではない形で伝えていくべきだと思っていますし、法制化することによって色々な問題ことが生じてくるだろうと思います。けれども、〔尊厳死協会の人々と〕敵対するとは思っていない。

 ■今は、臓器移植とか尊厳死が、世の中の当たり前の流れだということになっています。この流れを逆転するべきと思います。川口さんのお話に出てきました日本、台湾、韓国などを含む東アジア圏では、欧米の合理主義とは違う、人を大切にするという考えがある。これが本来正しいことだという意味で、逆転したほうがいいと思うんです。 また、資料の中に、〔尊厳死〕法案の第二案がございますけれどもありますが、これは全くのごまかしですね。たとえば、第五条の「定義」では、「延命措置」をこう書いてあります。「終末期にある患者の傷病の治癒又は疼痛の緩和ではなく、単に当該患者の生存期間の延長を目的とする医療上の措置」と。医療で一番大切なのは命ですが、〔この文章によれば〕「単に」命を延ばすだけなんです。で、緩和だったらいいと。こんないいかげんな医療はないです。終末期の定義につきましても、「回復の可能性がなく、かつ、死期が間近であると判定された状態」とあります。これは、終末期が近いから特別な医療はいらないじゃないかということです。本当に私からみたらいかさまだと思います。

大塚:今お話に出た8頁の法律案について、資料の6、7頁で、私が書いた今回の法案の条数に合わせた文章がありますので、これもご覧になって下さい。先ほどのお話の第五条には、「単に当該患者の生存期間の延長を目的とする医療上の」などと書いてあります。これに関して現在の尊厳死協会の理事長である岩尾總一郎さんが、あるフォーラムで次のように話していました。「治療は治療のためと延命のためとに分けられないという議論もある。しかし、治療がどのような目的でなされるかによって決まる。治癒のため、緩和のため、単なる延命のためというように、実際に行われている治療目的を見れば、その判断は十分に可能だと私達は反論している」。この三つ、治癒のため、緩和のため、単なる延命のためというふうに、単純に分けられるでしょうか。教えていただきたいものです。

 ■言葉の使い方なのかもしれませんが、終末期医療という概念そのものを認めるのはダメというか、終末期という言葉を僕ら自身が、どう批判的に使い続けるかという問題があるのでは。川口さんのお話を聞いて、終末期医療という前提で、医療が延命医療ではなく延命措置とされる状況にどう返していくかを、伺いたいと思います。

川口:私は介護派遣事業所やっていて、15人の患者さんが利用者です。みなさん在宅で過ごしています。そして、呼吸器、経管栄養でやって寝たきりで、見た目は終末期なんですが、朝からテレビ観て、お昼は、自分は経管栄養だけど奥さんと一緒にご飯食べて、子どもが帰ってきたら子どもの話を聞いて、夜はテレビ観てゲラゲラ笑ってるんです。全然終末っぽくないですよ。だけど病院であれば明らかに終末期になっちゃう。終末期なんかないって私は実感として思います。それは普通の生活の中でそれだけの医療的行為ができる立場なので言えるんのですが、病院にいると、病院側の都合でやっぱり終末期が必要なんだろうなと思いました。もっと自宅で看取れるようにしたら多分終末期なしで、普通の暮らしの中である日突然死ぬということができるとは思いますが、それは完全に社会的構造の話だと思います。
 あとで振り返って「あれが終末期だった」と分かると思いますが、定義したらいけないと思うんです。イギリスのALSの緩和ケアって8カ月のプログラムです。それより長くなることはないのですかと聞くと、大体8カ月で死にますって言われて、それってもう完全にお薬とかでコントロールして、プログラム化されているのかなと思ってね。さっき、橋本操さんの話をしましたけれど、彼女のキャッチフレーズは、「20年目の終末期」なんです。20年間人工呼吸器と経管栄養で生きているので、「20年間終末期やってます」って言うと、先生たちに「違う違う」と言われ、尊厳死協会からも「あなたは終末期じゃありません」って言われたんだけど、この法案の定義を読むと、彼女はピッタリ終末期の定義に当てはまる。このキャッチコピーをね、大事にしてこうかなと思います。(笑)

大塚:うちの会の子どもも、生後3カ月ぐらいで人工呼吸器をつけて、現在28歳で、アパートを借りて自立生活を送っている人がいます。この方も呼吸器をつけなければ生きていられない状況です。お医者さんは、多分最初は看取りの医療として在宅をさせたんです。ところが、28年生きちゃってるんですね。ですから、誰にも分からないんです。私の子どもも、死ぬ直前の2カ月前からちょっと体調がおかしくなって、医療として手の打ちどころがないという状況がありました。でも、それから2カ月生きました。ですから、やはり終末期というのは、死んでから、ああ、あの時がもう限界だったんだと判断できるにしても、生きているうちに、あとどのくらいということは全く判断できないと思います。ですから、こういう法案での終末期の定義なんか冗談じゃないよと思っているんです。

(まとめ:川見公子/天野陽子)




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第1回市民講座(2012年6月16日)の報告

2012-07-14 09:52:30 | 集会・学習会の報告

第1回市民講座(2012年6月16日)の報告

一つの流れにつながっていく移植医療、

“死の自己決定”と“無益な治療”論

~臓器移植“先進国”と言われる国で起こっていること~

■2012年6月16日、フリーライターで『アシュリー事件~メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』の著者である児玉真美さんをお招きして市民講座を行いました。参加者は54名、児玉さんから語られる臓器移植“先進国”あるいは“標準国”といわれる英語圏の国々で行われているおぞましい実態に、戦慄を覚えました。講演と質問や意見の要約を報告します。

 

■児玉真美さんの講演
はじめに
 2006年に『介護保険情報』誌で海外情報を紹介する連載を始めた時に、最初にぶつかったのが、ニューヨークの葬儀屋がバイオ企業と結託して葬儀場の裏で遺体から組織を抜き出し横流ししていたスキャンダルでした。病気のスクリーニングをしていないため汚染された医療製品が出回って、多くの医療訴訟が起きていた。この世界規模のスキャンダルが日本ではなぜ報道されないのか不思議でした。パキスタンの大地震では臓器泥棒が4人逮捕され、クーラーボックスに15の人体臓器が入っていたし、アジアの国々では貧しい人々が生活の為に臓器を売っていた。基本的な医療も受けられず亡くなる人が相次ぐ国々で医療ツーリズムが国策とされ、外国の金持ちに贅沢な医療が提供されている。世界の現実に愕然としました。
 半年後に出会ったのがアシュリー事件です。シアトルこども病院で親の要請で当時6歳の重症重複障害児から子宮と乳房が摘出され、ホルモン大量投与で成長抑制をした事例が、07年1月に大きな論争になりました。私にはアシュリーと同じ障害像の娘がいます。この事件を追う内、英語圏の医療倫理で何が議論されているか、医療で障害児・者がどういう扱いを受けているかにも目が向いていきました。
 その後09年に臓器移植法の改正議論が起きた時、日本は遅れているという論調を聞くにつけ “世界標準で起きていること”はなぜ報じられないのだろうと、疑問でした。その頃から、それまで別個の流れに見えていた「安楽死」「無益な治療」「臓器移植」の3つの議論が急速に接近し始めて、ここ2年ばかり露骨に重なりあってきた気がします。今日お話しきれない点は、『現代思想』の6月号掲載の「“ポスト・ヒポクラテス医療”が向かう先」や『アシュリー事件』の第11章、または私のブログを見て下さい。

 

1.安楽死・自殺幇助・死の自己決定権
 2007年当時、自殺幇助や本人意思による積極的安楽死を合法化していたのは、オランダ、ベルギー、米国オレゴン州の三つでした。08年~09年に合法化議論が沸騰し、米ワシントン州、ルクセンブルクへ広がりました。英国では10年2月に近親者による自殺幇助に関するガイドラインが出ました。他の国で認められているのは、一定の条件を満たした患者が所定の手続きを経た場合の医師による自殺ほう助や安楽死ですが、英国は対象も方法も決めずに、近親者が思いやりから行うなら罪に問わないと言うに等しい状況です。その後も各国で合法化に向けた法案提出や訴訟が頻発しています。

スイスの自殺ツーリズム
 自殺ツーリズムが繁盛しているスイスでは、外国人を受け入れる自殺ほう助機関 “ディグニタス”がターミナルでない人も受け入れるなど問題となっています。08年には、試合中の事故で全身マヒになって絶望した英国人の元ラクビー選手(23)を両親がスイスに連れて行って死なせました。09年には健康な夫と末期がんの妻の英国人夫婦がそろってディグニタスで自殺しています。

“先進国”のすべり坂
 いわゆる“先進国”では尊厳死法のセーフガードが機能していない実態が報告されています。また世界で最初に安楽死法を制定したオランダでは、3月から「宅配安楽死」チームが6台、保健省の認可を得て稼働、今後は「70歳以上の健康な高齢者にも自己決定で安楽死を認める法改正を」との声もあります。ベルギーでは「安楽死後臓器提供」を06年~07年に4例実施。安楽死と同時に臓器提供を自己決定するなら構わないというものです。安楽死者中20%を占める神経筋肉障害の患者の臓器は「高品質」だから「臓器プール」に、とまで言っている。それをさらに進めたものが「臓器提供安楽死」。自己決定があれば、生きている状態のまま臓器摘出をと10年の論文でサヴレスキュとウィルキンソンが提案したものです。
 当初は「ターミナルで耐え難い苦痛がある人」についての限定的な議論だったものが変質し、対象が拡大して「障害のある生は生きるに値しない」「家族や社会の負担になるよりは」と、そこにいつのまにか社会の偏見や要請が忍び込んでいるのではないかと思います。

 

2.“無益な治療”の一方的な差し控えと停止
 “無益な治療”論でも、最初は無益な治療で患者を苦しめるのは止めようという議論だったものが、いつのまにか治療の差し控えの決定権を医療側に与える正当化論に変質してきたように思います。

テキサスの“無益な治療”法
 最もラディカルなのはテキサスの“無益な治療”法。生命維持を含め“無益”と判断した治療は患者や家族の意向に関わらず一方的に停止してよいとする。ただし転院先を探す猶予として通告から10日待たなければならない。

相次ぐ家族による“無益な治療”訴訟
 ゴンザレス事件(TX)、ゴラブチャック事件(加)、ラスーリ事件(加)など北米で訴訟が相次いでいますが、表面化するのは氷山の一角でしょう。ここでも問題はいつのまにか患者の認知レベルやQOLレベルにシフトしており、コスト論も露骨になってきています。

英国では一方的なDNR(蘇生不要)指定で訴訟が起きている
 英国では、高齢者や重症障害者が入院すると本人にも家族にも無断でカルテに「蘇生不要」と書かれるケースが訴訟になっています。また機械的な高齢者の鎮静・脱水の慣行化や、医療職の知的障害者への偏見が死に繋がった例などの指摘もあり、ここでも“無益”とされているのは治療より患者では?

一方向にしか認められない死の自己決定権はそもそも自己決定なのか
 でも一方から無益な治療論による「いのちの切り捨て」が迫り来るなら、自殺ほう助や安楽死の議論で言われる「死の自己決定権」とは死ぬという一方向にしか認められない自己決定権ではないのか。生きたいと自己決定しても「QOLが低すぎて治療やコストに値しない」と拒絶されるなら、一方向でしかない。そんなものが自己決定と言えるのでしょうか。

“無益な治療”論と臓器移植医療との接近
 無益な治療論が医療現場で既成事実化すると何が起こり得るかの参考に、2つの事件を。ナヴァロ事件(CA州06年)とケイリー事件(加09年)。いずれも患者に重症障害があったために救命より臓器ドナーにすることを優先したのではと疑われる事件です。どちらの患者も人工呼吸器を外しても死ななかったのですが、ナヴァロ事件ではさらに臓器保存のための薬物が大量に投与されました。看護職の通報で逮捕された医師は「DCD(心臓死後臓器提供)という新しいプロトコル」を主張し無罪になりました。

 

3.臓器移植医療
誰もが知っているのに“ない”ことにされている事実
 一つは「臓器は売買されている」ということです。詳細はブログにありますが、世界中で腎臓が1時間に1個の割合で売買され、臓器売買のブラックマーケットは最近アジアからヨーロッパへと拡大しているとも言われます。
 もう一つは「診断は誤る」ということ。“植物状態”や“脳死”からの回復事例があれこれ報道されています。臓器摘出の前に脳死でないことが判明し、回復後に脳死宣告を聞いていたという衝撃的告白があったザック・ダンラップさん(米07年)のケースや、臓器摘出の手術台に移す際にドナーが咳こんだ “可逆的脳死”事例もあります。最近の事例ではスティーブン・ソープさん(英08年)。事故2日後に複数の医師が重鎮静のまま“脳死”を診断したが、家族に依頼された脳外科医が意識を確認し、その後ほぼ完全回復しています。もっとお粗末なのがエミリー・ゴッシオさん(米11年)のケース。もともと耳が聞こえないエミリーさんは事故で目も見えなくなった。呼びかけに反応しないし瞳孔も反応しないからリハビリ対象外と診断された。でも婚約者が“I love you”と掌に書いたら“Ilove you,too”と答えて意識があると分かった。メディアはこういう事例を「奇跡の回復」と報じますが、単にアセスメントが杜撰だっただけではないでしょうか。    
 脳スキャンで「植物状態の人とコミュニケーションを図る」研究をしているオーウェン教授(ケンブリッジ)は、「植物状態」の5例に2例は誤診ではないかとも言っています。

一方で 進む“臓器不足”解消策
 オプト・アウト制度(「提供しません」という手のあげ方)が提案され、様々なインセンティブを高めようという提案も行われています。例えばイスラエルではドナーカード保持者の移植優先権(09年)が、アメリカでは「腎臓のペアー交換」(10年)が行われている。「提供に結び付けばドナーの葬式代を国で持つ」(英)とかドナー家族とレシピエントを対面させた祝福セレモニー(NY11年)なども。つい最近フェイスブックは臓器提供意志の記述欄を創設(12年)しました。正式なドナー登録サイトへのリンクが貼られていて、最初の1週間でFBを通じて6000人が登録したということです。

いのちの線引きを動かそうという議論も
 デッド・ドナー・ルール(亡くなった人からの臓器提供)の撤廃提言は前からありました。「脳死概念は医学的に誤り」で今でも生きている人から摘出しているのだから、もっと前の段階から臓器を取れるようにルールを変更しようというのです。しかし、わざわざ撤廃しなくても死の定義を操作すれば線引きは動かせると思わせられるのが、UNOS(全米臓器配分機関)からのDCDを”循環死後提供”と言い変えよう、との提案です。脳死を引き起こすのは血流停止、だから死の宣告は必ずしも心停止を待たなくてもいい、心停止から2~5分待っての摘出ルールはやめて、担当医の判断に任せようというのです。
 一方、英国医師会は「選択的人工呼吸(EV)」を提言しています。本来なら“無益な治療”論の適用ケースでも臓器確保の為の人工呼吸器を認めようというのですが、臓器提供安楽死を提案しているウィルキンソンは、さらにそれを義務づけようと言っています。「多数が臓器提供を望んでいることを前提に考えれば、EVが民主的な解決」「EVで自己決定権を侵害される患者は、意に反した人工呼吸をされるが、十分な鎮静と鎮痛が行われるのだし、大した期間でもないのだから、それによって失うものはない」というのですが、私が抵抗を感じるのは下線の部分。これは“無益な治療”論で人工呼吸を外される患者サイドがそれに抗うために言ってきたことです。それを“無益な治療”論で否定してきた人たちが、今度は臓器のために人工呼吸器をつけさせろと言っている。そこに違和感を覚えます。これでは「死の自己決定権」概念だけでなく「無益性」概念も崩壊しているではないか、と思います。
  “世界標準の国”で何が起きているのか、それらの国がどこに向かっていこうとしているのか、私たちにはまだまだ知らなければいけないことがあるのではないでしょうか。

 

<質疑応答・意見交換>
〔市民ネットワークから〕本講座直前に行われた6歳未満の小児からの脳死下臓器移植に対して声明文を出すことを提案し、参加者の意見を募りました。その内容も含め、以下にまとめました。                                                            

■脳死が本当に死なのかどうかという疑問もコミットできる場が開かれていなければならないのでは。まずいのは、一般の人が脳死を遠いところでしか想像できず、「医者が脳死と言ったから死だ」と短絡的に判断し、「どうせ腐っていく臓器ならだれかにお役に立てた方がいい」という考えが成り立っていることだと思います。そこの繋がりはものすごく脆弱で、本当は考えなければいけないはずなのに、そこまでのカルチャーが出来ていないことが問題だと思います。

■お話を聞きながら、時代が逆行していると感じました。私は、尊厳死という名の下に、かつてのナチス・ドイツがやった安楽死と同じことがくり返されるのではないかと感じます。1920年に「生きるに値しない命の抹殺の解除」という小さな本が出て、それが安楽死へ向かうきっかけにもなっています。ドイツで(安楽死が)行われた最初の死者は精神障害者であり、障害をもった子供たちでした。それが広がって、ユダヤ人虐殺の方向へ向かっていった。臓器移植、脳死、尊厳死を考えると、今はそうした時代と何ら変わっていない。むしろ巧みな形で進行しているのではと思います。

<児玉> 確かに時代が回帰しているし、それも科学とテクノロジーの発達を通じて螺旋状に戻ってきているように感じます。そこにグローバル経済のあり方が関わって、消費者の欲望がほぼ満たされてしまったこの世界で、マーケットを創出して経済を動かしていくカラクリが出来ているのではと。今の科学とテクノロジーが追い求める「フローフシ」が、かつてのゼネコンの「カイハツ」に当たるのではないかと私は思っているのですが、科学とテクノロジーで「フローフシ」の夢が描かれることがマーケットを創出し、弱者を食い物にして金持ちだけが潤っていくカラクリと何層にも絡み合い、そこで生き残るために国家が自国民を見殺しにするしかないような、とても酷薄な経済の状況が出来てしまっている。その中で、いのちの切り捨てが医療現場に迫られている。そういう世界像みたいなものを描いています。〔・・・〕また、先ほどの方が言われた「医者が脳死と言ったから死だ」という受け止めについてですが、私は重症障害のある子どもの親となって25年医療とつきあってきますと、風邪と腹痛くらいでしか医療と付き合ったことのない人と話をすると、絶望的なギャップに悶絶してしまう。医療に対して経験値の低い人が、無垢に信じている。そこをどうやって越えたらいいのか。その悶絶をいかに越えていくかだと、改めて感じました。

■看護職をしています。私自身、脳死は認めたくないし、個人的には移植もしたくないと考えています。臓器移植が行われる時には、生きたままの温かい身体の人が、手術室に行って帰ってきたら死体になっているということのリアリティが、私にはよく分かります。なのに、よく知らない人が頭だけで臓器移植や脳死について議論している日本の現状をすごく不安に思い、そういったことがどうなっているのか知りたくて来ました。私はこの声明文に全部賛同することができません。なぜなら、ここにいらっしゃる人達は、心から臓器移植を待っている人と出会ったことがあるでしょうか。また、臓器を提供して、わが親、わが子、わが友の命を繋いだということに価値を見出し今日の命を生きていこうとする人達と出会ったことがあるでしょうか。私は、今回のことが「美談」として報道されることには反対しています。しかし、命を繋ぐことに価値を認め、それを本気で推進しようとしている人達がいることにも目を向ける必要があると思うんです。また、コーディネーターをしている人達は、決して移植医療を推進するために働いてはいません。移植医療で「No」という状況を作るためにこそ頑張っている人もいるということを知っていただきたい。それでも、児玉さんがご指摘のように、この世界経済のしくみの中で、無理無理に〔移植医療が〕推進されていく現状があることは全く異論はありません。けれど、それを大事だと思っている人の価値観を知ろうとすることなく(反対運動を)やるのは間違っていると思います。〔・・・〕例えばこの6歳の男の子のお父さんとお母さんに、低酸素脳症でも貴い命を生きている人がいることを話したナースやドクターはいたのかと聞くべきであって、(この文案に書かれているように)美談とすり替えて「冒�必です」まで言ったら、このお父さんとお母さん死んじゃうだろうって思っちゃって。一生懸命決断した人もリスペクトしてほしいと言いたかったのです。
   (文案については会場から提案があり、質問をされた方も「それで結構です」と了解された)

<児玉> それぞれが見ているリアリティの違いということで言えば、私は例えば生命倫理で言われているパーソン論を思うのですが、典型はピーター・シンガーという方ですけれども〔註〕。私はこの人、「実際の重症障害のある人を見たことねぇだろ」って思うわけです。障害がある生は生きるに値しないとか、重症障害を負ってまで生きていたくないみたいなことを言う人がどんどん増えていく一方には、やはり、重症障害を負いつつ生きている人たちの姿が、そこに全く存在しないということがあると思うのです。それから、そんなふうに見ているリアリティが違う時に、地位のある人間が言うことの方が受け止められていく構図がある。地位のない方が見て知っている現実をいかに伝えればいいのか。見ているリアリティの違いを超えるにはどうしたらいいのか。ずっと考えているんですけど、このことは、色んな立場の人が多分今感じているんじゃないでしょうか。

■自分の娘が低酸素脳症からほぼ脳死に近い状態になりまして、自宅で過ごしていて今5歳です。私は脳死を死だと思っていませんし、脳死下の臓器提供にも反対です。今の世の中の流れが加速していけば、娘にも、「あなたの娘はそんな状態なんだから提供しないの」との圧力が来るかもしれないという危惧もあります。ただ、さっきの看護師さんのお話が、私には心の中にすっと入ってきました。これは多少矛盾するのかもしれないですが、脳死のことを勉強して反対すればするほど、その片側で、臓器が必要だと言われている子どもたちがどうしても頭に浮かんでしまうんですね。でも、気持ちは分かっても脳死下の臓器移植は反対です。反対ですがそこに思いを馳せるという感じは忘れたくないと思います。

■臓器移植が是か非かは個人的な見解に過ぎないと思います。脳死での臓器移植に基本的には反対ですが、自分の子どもがレシピエントの立場なら、やっぱり臓器をもらいたいと考えるかもしれません。もし私が脳死状態になって、息子や娘が臓器移植で助かる病気なら、私の臓器を使ってという心が出てくるのではないかと思います。臓器移植の意志表示はしませんが複雑な気持ちです。

<川見>〔脳死・臓器移植について〕それぞれに考え方があるでしょう。改定法が可決される場面で、臓器移植を推進する人たちは、この法律は臓器を提供する権利・提供しない権利、移植を受ける権利・受けない権利の4つの権利がありその全てを保証するものだから、〔この法律を〕通してほしいと主張をしました。しかし、最初の臓器移植法制定の時は「提供したい人の自己決定権を認めろ」でした。今回は本人の意思がなくてもいい、家族の承諾だけで提供できると変わったわけです。4つの権利と言いながら、臓器不足を解消するための奇弁でしかない。臓器摘出の対象者を拡大していくために法律を変え、流れが作られていることを見すえながら、私たちは考えて行動していかなくてはならないと思っています。〔声明文案について〕今回我が子の臓器を提供されたご両親を批判しているのではなく、「誰かの体の中で生きる」と、いのちを捧げる行為を美談として讃えようという捉え方を「いのちの冒涜」と表現したことを御理解下さい。

 その他、沢山のご意見を交えた重要な議論となりました。ありがとうございました。

〔註〕
▼パーソン論とシンガー
 「パーソン(人格)とは何か、パーソンに含まれているのは何か」という問題をめぐって行われている一連の議論。哲学者トゥーリーによれば、自らの経験と心的状態が持続的に存在するものとして自己認識できる者のみが「パーソン」であるという論理から、胎児や新生児には生存する権利がないとされる。(『生命倫理辞典』2010より) シンガーは、この考え方を踏襲し、「余命いくばくもないほどの高齢や回復不可能な脳障害の人々」の「生命の不可侵性」を疑わざるをえないと主張している。(シンガー『人命の脱神聖化』晃洋書房、2007より)
▼この市民講座で採択した「声明」は2012年6月18日小宮山洋子厚生労働大臣に送りました。
 「声明」については当会ブログにアップしています。http://blog.goo.ne.jp/abdnet/e/71fa6f16f6fe06bb49dcb2d009c3c99f
▼児玉真美さんのブログ『アシュリー事件から生命倫理を考える』http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara

(要約・まとめ 天野陽子・川見公子)

 


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脳死・臓器移植の実相

2012-05-27 23:05:32 | 集会・学習会の報告

 2012年4月21日に上演された多田富雄作の能「無明の井」、そのパンフレットに掲載された小松美彦氏の文章を、主催者および著者の了承を得て一部変更して掲載します。

脳死・臓器移植の実相

小松 美彦(東京海洋大学大学院教授、生命倫理会議代表)

 「無明の井」が主題とする脳死・臓器移植とは、はたして、いかなるものであろうか。
 そもそも、心臓の拍動が停止した“死者”を用いた臓器移植は、二〇世紀初頭から試みられていた。しかし、半世紀にわたって、成功例は現れなかった。移植臓器が他人の臓器である以上、激しい免疫拒絶反応にさらされ、機能しなくなるからである。そこで、そのような反応が生じないと目された一卵性双生児間での生体腎臓移植が行われ(腎臓は一対ある)、成功例が登場する。一九五〇年代半ばの米国でのことである。ただし、健康な者の身体を他者のために切除する行為は、キリスト教の伝統倫理にもとると考えられた。また、従来の心停止後移植も、臓器の鮮度が悪いこともあり、成績は芳しくないままであった。
 かくして、キリスト教倫理の別の側面、すなわち隣人愛が、「命の贈り物」という惹句を通じて強調されるようになり、移植医は免疫拒絶反応を抑制する技術革新を待望しつつ、新鮮な臓器の獲得に活路を求めてゆく。そこで白羽の矢が立てられたのが、「不可逆的昏睡」などと呼はれていた状態の患者であった。脳血管障害や窒息や交通事故などで脳を損傷したこの人々は、自力で呼吸ができないため、かつてはほどなく心停止をきたしていた。だが、一九五〇年代に人工呼吸器が誕生したことと、脳の命令系統が損なわれていても、心臓には自動拍動性が備わっていることによって、ある程度の期間は生きられるようになった。それは重度の昏睡状態とはいえ、あくまでも生者と見なされていたのである。
 したがって、生きている不可逆的昏睡患者から、拍動中の心臓などを摘出すれば、確実に死に至り、それを挙行した移植医は殺人罪に問われかねない。実際、日本を含めて世界では、少なからぬ移植医が刑事告発されたのである。
 そこで、一九六八年あたりから、不可逆的昏睡はまず、全身の死にイメージ的に短絡しやすい「脳死」という名称に改められた。そして、脳死を判定する“科学的”基準が策定された。しかし、脳死判定基準が脳の状態を判定する基準にすぎず、全身の死の到来を測るものではないことが省みられると、さらに、脳死を人の個体死とする“科学的”論理が捻出された。これらはすべて米国を起点として世界に伝播し、日本もその論理を踏襲する。たとえ、心臓が規則正しく鼓動しており、血が通っているため健常者と同様に身体が温かく、汗も涙も流し、排便があり、自然分娩による出産も可能であろうと、医学的に脳死者を死者と規定すれば、臓器摘出は正当化できると企図されたのである。この戦略の根底には、人間一人ひとりの徹底救命よりも効率を優先する発想と、生身の人間を臓器の集合体と見なす機械論的生命観が横たわっているように思われる。
 ただし、新鮮な臓器の獲得に成功した臓器移植には、もうひとつの難題があった。免疫拒絶反応の制御である。だが、この点に関しても、一九八〇年前後に画期的な免疫抑制剤が開発・導入され、心臓移植をはじめとした脳死・臓器移植は、米国を筆頭に激増する。日本では、一九六八年に札幌医科大学の和田寿郎教授によって行われた心臓移植以来、脳死・臓器移植はタプー視されていたが、かような世界的趨勢にあって、やはり一九八〇年代初頭から解禁が図られることになる。こうして十余年間に及ぶ賛否両論の熾烈な論争の末、脳死・臓器移植を実施可能にする「臓器移植法」が一九九七年に制定されたのである。
 先進資本主義国としては最後に制定された日本の臓器移植法は、論争を反映して、諸外国のものに比して臓器提供条件が厳しいものとなった。つまり、①臓器を提供する場合にかぎって脳死を人の死とし、②脳死を死とすることも臓器提供も、本人はもとより家族の承諾を絶対条件としたのである。しかし、その結果、二〇〇九年までの足かけ一三年間で、臓器を提供した脳死者は八一人、移植総数も三四五件に留まっていた。かくて、臓器不足を解消すべく、臓器提供条件を媛和する法改定が議論されるようになった。最大有力視されていた法案は、①臓器提供の有無や本人・家族の意思とは無関係に、脳死を一律に人の死と定め、②臓器提供に関しても、本人が拒絶の意思を示していないかぎり家族の承諾だけで認められる、というものであった。
 私は、脳死・臓器移植そのものに徹頭徹尾批判的であったが、法改正という名の法改悪を許さないという一致点で、生命倫理の教育研究に携わる全国の主に人文・社会科学系の大学教員に呼ぴかけ、七〇名の賛同者とともに「生命倫理会議」なる団体を結成した。そして、生命倫理会議は、三回にわたる声明文発表と記者会見を行い、国会議員全員に声明文を配布した。しかしながら、二〇〇九年七月、もっとも危険視していた右の有力法案が、わずか一六時間たらずの審議で可決成立した。ちなみに、国会審議時には、法案提出者代表みずからが脳死を一律に人の死と定めた法案であることを繰り返し言明したにもかかわらず、施行直前に、厚生労働省がそのような規程ではない旨を関係機関とマスメディアに通達した。それゆえ、現在の日本では、脳死者は法的には、生者とも死者ともいえぬ宙づり状態にある。だが、そうではあっても、本人の意思が不明のまま家族の承諾だけで臓器提供した脳死者の数は、改定法施行後の一年半余で、旧法下一三年間の提供者数に迫ることとなった。なかには、メディアでは概ね秘匿されているものの、鉄道自殺を図った中学生も含まれている。
 生命倫理会議は二〇一〇年、「いのちの選択―今、考えたい脳死・臓器移植」(岩波ブックレット)なる一般書を上梓した。ほかならぬ多田富雄先生からも寄稿を賜った。静謐な文体で「生きる」ということを問いかけた、その遺稿「脳死移植について」には、脳死・臓器移植は「一度始まってしまえぽ、際限なく拡大解釈が可能なことは臓器移植法の流れを見れば明らかです」という指摘がある。法改定をめぐる実情は前述のごとくであるが、移植最先進国の米国では、それを完全に凌駕しているといえる。
 すなわち、脳死を死とする旧来の“科学的”論理の破綻を認める一方で、あらかじめ破綻していると見なせる新論理を再捻出した。また、臓器不足(=脳死者不足)を改善するために、脳死にすら至らぬ乳幼児の人工呼吸器を親の同意で取り外し、一時間以内に心停止すれば、再拍動の可能性を最短七五秒だけ待って死亡宣告し、その心臓を摘出し移植する方法が急増している。付言するなら、米国では一歳未満の臓器提供者の四割もが、虐待による“死者”にほかならない。そして、はては、心停止後の臓器提供者も実は生きていたことを追認したうえで、臓器摘出それ自体による死の容認を量と質いずれの点でも最良の臓器獲得策、とする見解まで唱えられているのである。
 顧みるなら、脳死者は、意識がなく、微動だにせず、一〇日以内には確実に心停止に至る、と断じられてきた。しかし、二〇〇八年三月二三日、ついに米国のNBC Newsが、脳死状態時に意識があったという青年の証言を放映した。親族の判断で臓器摘出を中止された後に社会復帰したこの生き証人は、自分への死亡宣告も、臓器摘出の準備が進められていることも分かっていたが、その恐怖を伝えられず、「心中張り裂けんばかりでした」と訴えたのである(http://www.msnbc.msn.com/id/23768436/)。また、脳死者には高確率で脊髄反射が起こるばかりか、ラザロ徴候という手足のなめらかな運動が現れることがある。しかも、脳死者はかような生理状態を推持している以上、そのまま臓器を摘出すると、脈拍と血圧が急上昇し暴れ出すため、必ず麻酔や筋肉弛緩剤で鎮静化されている。さらには、人工呼吸器と経管栄養の助力で長期にわたって生きる脳死者は少なからず存在し、最長は二一年間に及ぶ。四歳のときに脳死診断されたこの米国人男子は、その後に身体が成長し、第二次性徴まで迎え、大人になったのである。同様の長期脳死の愛嬢を介護していた日本のある母親は、「娘は生きる姿を変えただけ」ど出演番組で述懐している。まさしく「ただ生きている」ことこそが、「人間の尊厳」にほかなるまい。

 なふ、我は 生き人か、死に人か。

 「無明の井」の中心をなすとおぼしきこの語りかけの深奥には、脳死・臓器移植をめぐる以上のような実相が控えているのである。


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新作能「無明の井」の感想

2012-05-14 23:20:32 | 集会・学習会の報告

「無明の井」に寄せて―「我は生き人か、死に人か」

 4月21日に故・多田富雄氏の三回忌追悼能講演として、新作能「無明の井」が上演されました。免役学者だった多田氏は、免疫学の先駆的研究を経て、『免役の意味論』などの著書で免疫と自己との関係を哲学的に捉え直す新たな視点を提示されました。氏は、脳梗塞で倒れてからも詩人、能作者、文筆家として活躍されましたが、脳死と臓器移植をテーマにした「無明の井」は、氏が創作した最初の新作能です。そのあらすじと、鑑賞後のちょっとした感想をお伝えします。

<あらすじ>
 ある旅の僧が、仮寝をした涸れ井戸の側で、土地の者からある昔話を聞いた。嵐で瀕死の状態となった漁師の男の心の臓が、命の尽きかけた娘に移植され、彼女は永らえ、男はそのまま死んだ。だが、娘は人の心の臓を取って生き永らえたことを罪と感じ、懺悔の一生を送ったという。この話を聞いた僧が二人のために祈っていると、心の臓を取られた男と移植を受けた女の亡魂が現れる。自らの屍を求めて彷徨っている男は、心の臓が取られるさまを再現し、「われは生き人か、死に人か」と自問する。一度は永らえた女も、ともに業苦に沈むさまを見せる。二つの魂は、僧に供養を願って闇に消え失せる。

 脳死と臓器移植を取り巻くおぞましさ、無慈悲さ、悲しみで溢れた舞台でした。男の魂は、心臓を取られるその瞬間を「魂は黄泉路(よみじ)をさまよひて、命(めい)はわづかに残りしを、医師ら語らひ、氷の刃、鉄(くろがね)の鋏を鳴らし、胸を割き、臓を採る。恐ろしやその声を 耳には聞けども、身は縛られて」と語り、続いて「なふ、我は 生き人か、死に人か」と唸り、脳死と見なされ臓器を摘出された恐怖と死後も続く苦悩を突きつけます。
 また、少女の魂も「仮の命」を継ぐ者として永劫の苦しみに沈んでいき、生き永らえた喜びとは無縁の世界にいます。言葉少なく、重く抑えた動きで全てを表現するからでしょうか、なおさら物語の恐ろしさ、重々しさが感じられるように思いました。心臓を取られた漁師も心臓を受けとった少女も、共に魂の行き場を失った存在です。二つの魂が放つ言葉のやりとりに、脳死・臓器移植が本来的に誰も救うことのできない医療なのだと、改めて考えさせられました。

(冒頭の多田氏の紹介部分は、「無明の井」パンフレット表紙裏のプロフィール内容を参考にしました。天野陽子)


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