臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」は人の死ではありません。「脳死」からの臓器摘出に反対します。臓器移植以外の医療の研究・確立を求めます。

新作能「無明の井」の感想

2012-05-14 23:20:32 | 集会・学習会の報告

「無明の井」に寄せて―「我は生き人か、死に人か」

 4月21日に故・多田富雄氏の三回忌追悼能講演として、新作能「無明の井」が上演されました。免役学者だった多田氏は、免疫学の先駆的研究を経て、『免役の意味論』などの著書で免疫と自己との関係を哲学的に捉え直す新たな視点を提示されました。氏は、脳梗塞で倒れてからも詩人、能作者、文筆家として活躍されましたが、脳死と臓器移植をテーマにした「無明の井」は、氏が創作した最初の新作能です。そのあらすじと、鑑賞後のちょっとした感想をお伝えします。

<あらすじ>
 ある旅の僧が、仮寝をした涸れ井戸の側で、土地の者からある昔話を聞いた。嵐で瀕死の状態となった漁師の男の心の臓が、命の尽きかけた娘に移植され、彼女は永らえ、男はそのまま死んだ。だが、娘は人の心の臓を取って生き永らえたことを罪と感じ、懺悔の一生を送ったという。この話を聞いた僧が二人のために祈っていると、心の臓を取られた男と移植を受けた女の亡魂が現れる。自らの屍を求めて彷徨っている男は、心の臓が取られるさまを再現し、「われは生き人か、死に人か」と自問する。一度は永らえた女も、ともに業苦に沈むさまを見せる。二つの魂は、僧に供養を願って闇に消え失せる。

 脳死と臓器移植を取り巻くおぞましさ、無慈悲さ、悲しみで溢れた舞台でした。男の魂は、心臓を取られるその瞬間を「魂は黄泉路(よみじ)をさまよひて、命(めい)はわづかに残りしを、医師ら語らひ、氷の刃、鉄(くろがね)の鋏を鳴らし、胸を割き、臓を採る。恐ろしやその声を 耳には聞けども、身は縛られて」と語り、続いて「なふ、我は 生き人か、死に人か」と唸り、脳死と見なされ臓器を摘出された恐怖と死後も続く苦悩を突きつけます。
 また、少女の魂も「仮の命」を継ぐ者として永劫の苦しみに沈んでいき、生き永らえた喜びとは無縁の世界にいます。言葉少なく、重く抑えた動きで全てを表現するからでしょうか、なおさら物語の恐ろしさ、重々しさが感じられるように思いました。心臓を取られた漁師も心臓を受けとった少女も、共に魂の行き場を失った存在です。二つの魂が放つ言葉のやりとりに、脳死・臓器移植が本来的に誰も救うことのできない医療なのだと、改めて考えさせられました。

(冒頭の多田氏の紹介部分は、「無明の井」パンフレット表紙裏のプロフィール内容を参考にしました。天野陽子)

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