私はもうすぐ47歳となる。 つまり47年近く生きてきた
今、思えば私が生きてこれたのは、全てが両親のお陰だった。 もし、父、母、どちらが欠けていたとしても、私は厳しい局面の人生半ばで耐えられなかっただろうと想像する
自分の人生だから、自分で道を選び、自分で苦しみ歩んできた。 もちろん、楽しいこともあったが、今、振り返ると辛いことの方が多かったように思う。
悔しいけれども、どんなに辛い人生を歩んだとて、それは自分が自ら選んだわけであり、誰を恨むことなど一切ない。 だが、自分が極限に辛かった時代では、人を憎むしか、その時にはなかった。 憎みたいわけではなかったはずだが、自分が辛すぎて憎んでしまっていた(心が逃げていたと思います)。 私は、辛い試練の相手が悪いからだと自分で決めつけ泣いていた。
もう、そんな人生は終わりにしたいと病んでいたのです
私は追い込まれていました。 それから何年が経ったことでしょうか
民謡と出会って自分を癒すことのできる趣味を持てましてね
そりゃ色々な素晴らしい民謡人さんたちとの出会いがありました
今になってわかったことなのですが、私が辛かった曇りの時代
そんな辛い時代に少しずつですが感謝できるように変わってきたのです 
人が推薦したわけでなく自分で選んだ道だったので誰も恨んではいけないし、その経験が今の民謡に生きているという実感が沸いてきているのです
私が思うに、私の目指す民謡道には
辛い試練
は、野菜でいうところ、肥料のようなものであり、強い茎や葉っぱを育てるには、わざと水を一時的に与えない、いわばストレスを与え、それに対応させるための抵抗力
を育てるのが得策だそうでしてね 
今、思えば、もう二度と繰り返したくはない辛い経験でありましても、時が経ってしまいますと、その経験をなんとか民謡に生かして
いけたなら
なんて考えているのでございます。 私にとって良い民謡が表現できる人ってのは
人並みならぬ苦労を背負い、さまざまな困難をかいくぐった方でないと、人の心に染み込む表現力は育たないのではないだろうかと考えているのです 
私は民謡を聴く時、技術よりも、その心の中の叫びや語りというところに耳や気持ちを傾けます
だから上級者とか初級者とか全く関係はございません。 いや、むしろ、私にとって良い唄というものは、決勝に進まない方の中に多くあるように感じております。 私は近年、5年連続で決勝に進めるようになっておりますが、自分としては、技術が下手でありましても、決勝に進んだことのなかった時代の唄が今より好きです。
何か、一生懸命さが、その力が、心を揺さぶる何かがあるのです。 決勝に毎年上がっておりますと、今度は、落ちる不安がつきまといます
つまり、自分の落下を恐れている状態です
上を目指している間が華であることを知りました
今、ご自分がどの位置におられましても・・ どれだけ優勝を重ねておられる方でありましても、私が想像するに、心の在り方で決まっている
のだと思う。
心の在り方の美しい人に初級も上級も関係ありません。 私にとってみれば、民謡で最も大切なのは、心の在り方、その状態なのでございます
さらに良い民謡を表現するには、その肥やしとなります、人生の試練
の経験が必要です。 辛い経験は、その後、普通の生活の中から感謝の心を導いてくださるのです 
極端なことを述べますと、水を飲めることや、美味しい空気を吸えること、布団の中で眠ることなどなど、書き記せば山のように感謝できることは、日常の中に潜んでいるのです。 だけれども時代が進化し、なんでも機械が活躍し、それゆえに人間は、どんどん楽を覚えます。 ですが、実は、そこがとても大切であり、楽と引き換えに、考える力や応用力、それに加えて、どんどん不器用になってしまうことも考えねばならないと私は考えているのです。
私の大好きな隠岐の島 あの島には映画館もコンビニもございません。 本土に比べて不便だと思います。 だけれども、その代わりに、そこに住む人々の人情だったり優しさだったり、自然の美しさだったり、それらに本土の人は太刀打ち出来ないことでしょう。 今の時代、便利が進み、機械化が進み、なんでも楽を目指すようになればなるほどに、人は楽をし過ぎてしまって
モノを考える力はどんどん落ちてゆくばかりなのです 
民謡という趣味は、その突き進む先進の時代にありながら、昔の古き良き日本の伝統を守ろうとする誠に素晴らしいものであり、これは日本の宝といって過言ではないことでしょう。 私は、民謡と接する度に昔の先人に思いをはせることが出来るのです。 姿勢を正し、心を落ち着かせ、脳を使い、指を動かす。 歌詞を唄えば、昔の風景や風情が脳裏に浮かび、懐かしいような風景が浮かんで想像できる
なんて素晴らしい趣味でしょうか 
民謡は、あなたを決して裏切りません。 やればやるほどにあなたを愛してくださるのです
私の愛用している三味線も同じです
私が弾くのを、今か今かと待っていてくれます。 尺八も息を吹きかけてくれるのを毎日、待ってくれており、太鼓も叩いて欲しいのです
だけども、みんなをいっぺんには愛せません。 私は、その日、その日、愛する和楽器を素直な心に問い、愛したい和楽器に愛を注ぐのです 
あなたは、今日、誰に愛を注ぎますか
私は三味線に注ぎます
いつもブログをご拝読いただきまして
誠におおきに
苦労は試練
それを乗り越える度、あなたの民謡に真髄の種が宿ります
人生、生きてゆく限り試練は避けられません
私とともに良い民謡人生を送りましょうぞ
良い一日をお送りくださいませ 


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悔しいけれども、どんなに辛い人生を歩んだとて、それは自分が自ら選んだわけであり、誰を恨むことなど一切ない。 だが、自分が極限に辛かった時代では、人を憎むしか、その時にはなかった。 憎みたいわけではなかったはずだが、自分が辛すぎて憎んでしまっていた(心が逃げていたと思います)。 私は、辛い試練の相手が悪いからだと自分で決めつけ泣いていた。
もう、そんな人生は終わりにしたいと病んでいたのです






人が推薦したわけでなく自分で選んだ道だったので誰も恨んではいけないし、その経験が今の民謡に生きているという実感が沸いてきているのです





今、思えば、もう二度と繰り返したくはない辛い経験でありましても、時が経ってしまいますと、その経験をなんとか民謡に生かして




私は民謡を聴く時、技術よりも、その心の中の叫びや語りというところに耳や気持ちを傾けます


何か、一生懸命さが、その力が、心を揺さぶる何かがあるのです。 決勝に毎年上がっておりますと、今度は、落ちる不安がつきまといます




心の在り方の美しい人に初級も上級も関係ありません。 私にとってみれば、民謡で最も大切なのは、心の在り方、その状態なのでございます



極端なことを述べますと、水を飲めることや、美味しい空気を吸えること、布団の中で眠ることなどなど、書き記せば山のように感謝できることは、日常の中に潜んでいるのです。 だけれども時代が進化し、なんでも機械が活躍し、それゆえに人間は、どんどん楽を覚えます。 ですが、実は、そこがとても大切であり、楽と引き換えに、考える力や応用力、それに加えて、どんどん不器用になってしまうことも考えねばならないと私は考えているのです。
私の大好きな隠岐の島 あの島には映画館もコンビニもございません。 本土に比べて不便だと思います。 だけれども、その代わりに、そこに住む人々の人情だったり優しさだったり、自然の美しさだったり、それらに本土の人は太刀打ち出来ないことでしょう。 今の時代、便利が進み、機械化が進み、なんでも楽を目指すようになればなるほどに、人は楽をし過ぎてしまって


民謡という趣味は、その突き進む先進の時代にありながら、昔の古き良き日本の伝統を守ろうとする誠に素晴らしいものであり、これは日本の宝といって過言ではないことでしょう。 私は、民謡と接する度に昔の先人に思いをはせることが出来るのです。 姿勢を正し、心を落ち着かせ、脳を使い、指を動かす。 歌詞を唄えば、昔の風景や風情が脳裏に浮かび、懐かしいような風景が浮かんで想像できる


民謡は、あなたを決して裏切りません。 やればやるほどにあなたを愛してくださるのです




あなたは、今日、誰に愛を注ぎますか












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