ネコのヒトビト

ネコにまつわるヒトビトについてのお話等

より自分を信じる世界へ

2022-08-09 16:58:38 | 思ったこと
あらゆる文章や
いろんなエビデンスをみてきた

当然、どれが本当だか裏付けられる筈もない
しかし、私たちは誰かを説き伏せることはできなくても
自分自身を信じることはできる
誰かに自己主張する必要はない
誰かに勝つ必要もない

ただ、自分自身の霊力を
自分自身の直感を
自分自身の感覚を
心密かに 信じることは できる

たたみかけるように
様々な情報はやってくる
しかし、自分の中心にどっかりと座り
どこに本当があるのか、じっくりと自分と対峙し
自分の感覚を聞くことができる
むしろ今のような時代だからこそ、
自分の中心が、どんなことを感じて、思っているのか
強い意志を確認することができる

人は、自分をコントロールできると思っている
黒を白と言えるようになると思っている。
我慢して黒を灰色ですと考えられるようになれると思っている

実際にはそれは不可能であり、
嘘は嘘であり、本当は本当のこととして
現実の感覚を曲げることはできない。

もちろん「勘違い」はあるだろう
しかし、魂の奥底では気づいている筈であり、
たとえ嘘に染まり、そこへ邁進してしまっているとしても
それさえも使命なのかもしれないのだ。



物事には理がある。
かならず働く法則がある

たとえば、水は低きに流れる
火は水で消える
塩は水に溶ける
日は登るし、夜になれば月がでる。

かならず、それは変えられない

法則、理、それが根底にある。

だから、自分を信じることであり
信念を持ち続けること

それが、だれかに否定されようと。

テレビが現実を作り出す

2022-08-09 16:43:11 | 思ったこと
故郷のテレビと
外に出ていて思っていた故郷の良さが
まったく違っていた。

故郷にいた頃感じていた「遅れた地域にいる」恥ずかしさを思い出した。
この地域は「こういう場所だ」「こういう意識の人たちが住んでいる」というイメージを、テレビが作り出しているのだと気づいた。
実際は、自然が豊かで、住んでいる人も様々である。
主流というメディアが全ての代表する意見とは限らない。

たとえば大阪は、あの豹柄のオバチャンのイメージだ。
しかし、実際に出会った大阪人は、もっと大人しく謙虚で声の小さな人たち
かならずしも、最大公約数が「大阪らしさを演じる人々」であるわけではない。
意外と移住者(大阪へ移住してきた他県の人)が声高に
「関西弁をそれらしく喋る」気がした。

テレビで今、現実が作られている。
たとえば、宗教団体の被害にあった人物のストーリー
その凶弾によって殺された事実についてよりも強調されている
本当にその事件が「その凶弾によって」行われたのかということについての
検証もされぬまま、
一つの方向へなにかを操作しているように感じる

どこかの戦争についても、
情報があらゆる角度から精査されるのではなく
ある一つのストーリーを強調し、そこへなだれをうつように向かう
どの放送局も、一糸乱れず


ただ、それに気づいてる人が、どれだけ少ないかとも
思うけれども
実はそれほど少なくはないのだと思う。

様々な人たちが、まったく今の状況と関係ないような日常をおくる

それが、公共の放送にのらないだけで。

だから、テレビの放送、インターネットの画面、あらゆる情報は

すべて ではない。