竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

日本のアンソロジストたちー私家版・大伴家持伝(3) 佐保の坂上郎女

2014-12-04 13:36:59 | 日記
  日本のアンソロジストたちー大伴家持伝(3) 佐保の坂上郎女

 旅人が亡くなった後、佐保大納言家に連なる大伴一族の中で、宮廷貴族社交の中心になっていたのは、その異母妹・坂上郎女であった。
 坂上郎女は、前代の佐保大納言・大伴安麿の女として生まれた。かがやくような才女的気質を持っていた。まだ幼い頃、坂上郎女は、急逝した但馬皇女と熱烈な愛をかわした穂積皇子(『耕読』34朝、川を渡った女 参照)に、寵愛された。
 その後、時の権力者・藤原不比等の息子・藤原麻呂の愛をうけ、次のような相聞歌を詠んでいる。
○佐保川の 小石踏み渡り ぬばたまの 黒馬来る夜は 年にもあらぬか(巻四)
(佐保川の小石の飛び石を踏み渡ってひっそりとあなたを乗せた黒馬の来る夜は、今年中はもうないのでしょうか。) やがて、この玉の輿の恋もうたかたのように消えた。
 そして、坂上郎女は、異母兄・宿奈麿と結婚し、坂上大嬢と二嬢の二人の娘の親となった。坂上大嬢はのちに家持の妻となり、二嬢は大伴駿河麿の妻になっている。
○玉守に 玉は授けて かつがつも 枕と我れは いざふたり寝む(巻五)
(大切な玉は番人に下げ渡したことだし、やれやれともかく私の方は、枕と二人で寝ることにしよう。)これは、意にかなった男に娘を許した母親の、安堵感と一抹の寂しさとを、冗談めかして詠った歌である。
 坂上郎女は、家持の叔母にあたり、かつは娘・大嬢の夫の姑にあたる。娘婿に対する思いやりはこまやかで複雑である。家持が佐保の屋敷に訪ねてきて、自分の別邸に帰るときには、次のような歌を詠んで、義母としてのこまやかな思いやりを伝えている。
○我が背子が 着る衣薄し 佐保風は いたくな吹きそ 家に至るまで(巻六)
(この人の着ている着物は薄い。佐保風はひどく吹かないでおくれ。この人が家に着くまでは。) しかし、例えば次のような歌はいかがであろうか。
○あらたまの 月立つまでに 来まさねば 夢にし見つつ 思ひぞ我がせし(巻八)
(月が改まるまでもおいでにならないので、いつも夢に見ては、あなたのことをとても恋しく私は思っていたのですよ。)
 この歌には、家持を一人の男性して、見つめるまなざしが女の媚びを加えてにじんでいるようにも思われる。当時は、一夫多妻で、しかも血族婚が承認されていた時代であったから、ことさらとがめることはないのかもしれない。
 彼女の作品は、「万葉集」に、84首も収録されている。時には天皇にまで献歌している。
○あしひきの 山にしをれば 風流なみ 我がするわざを とがめたまふな(巻四)
(なにしろ山住みの身の無粋者でございますから、都のみやびにうといままに私がいたしますこの振舞いを、失礼だとお咎めくだしますな。)
 この歌は、天皇に物を献上した時の作であろうが、天皇に近づいて大伴家の忠誠を示したものであろう。坂上郎女は、旅人亡き後の、大伴家の守り神であった。