竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

古今集の復活

2010-04-07 09:18:28 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・古今集耕読
 古今集の復活        (1)

 春立ちける日よめる    紀 貫之
袖ひちて むすびし水の 凍れるを
春たつ今日の 風やとくらむ(春上・二)
 袖の濡れるのもいとわず手で掬った、あの水は、冬の間は凍ってしまっていた。しかしそれも、立春の今日の風が解かしてくれているだろう。
 (原歌と口語訳は、すべて奥村恒哉校注「新潮日本古典集成古今和歌集」による)

 延喜五年(905)醍醐天皇の勅命により編纂された、日本最初の勅撰集「古今和歌集」の開巻第二首目の歌である。作者の紀貫之は、古今集選者の代表格で、「仮名序」(仮名書きの序文)の執筆者でもある。晩年には女性に仮託して、仮名書きの「土佐日記」も書いているが、当時はまだ三十代の若さであった。
 中国では「立春になると東風が吹き始め、氷をとかす」と言われており、その知識を踏まえて作った歌である。上三句で、去年の夏から冬に至るまでの水の状態をイメージして、年間を通しての季節の推移に思いを巡らせているところが主眼である。
 「万葉集」では、例えば「石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」(志貴皇子)の歌のように、景物を直に写すことで春の到来の感動を表現した。古今集では、このように過去の記憶の中に閉じ込めていたイメージをいくつか重ねあわせて、立春の今日の喜びを一気に解き放っているのである。
 
明治の文化的革命児・正岡子規は、「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集にこれあり候」と徹底的に批判し、否定した。これに対して詩人の大岡信は「一つの経験が別の経験と重なりあい融けあって、ある情緒のかたまりを作る。こういうものの感じ方が古今集には非常に多い。」とし、「古来、多くの日本人は季節の巡りによって無意識に支配されており、古今集の形づくったモデルに従ってものを考えてきた。」と古今集の見直しを提唱している。はたしてどうか。
 正岡子規の煽動に乗って、ほとんどの近代歌人が見捨ててきた「古今集」の歌を、この際今一度復活させて、私なりに「耕読」してみたいと思う。