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五輪書

2006年05月08日 | Weblog

宮本武蔵の五輪書

地の巻(現代語訳)

 この兵法の道を二天一流と名付ける。数十年来鍛錬してきた事を、初めて
書物に顕そうと思った。 時を記す、寛永二十年十月上旬の頃。
所、九州肥後の地。 岩戸山(市内を金峰山を挟んで反対の海側)に上り、天を
拝し、観音(岩戸観音)を礼し、仏前に向う。

我、生国は播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信歳、以って六十、若年の昔より
兵法の道に心を掛け、十三にして初めて勝負を為す。
其の時、新当流有間喜兵衛と云ふ兵法者に打勝つ、十六歳にして但馬国、秋山と
云ふ兵法者に打勝つ。二十一歳にして都に上り、天下の兵法者に会ひ、数度の
勝負を決す、されど勝利を得ざると云ふこと無し。

其後、国々、所々に至り、諸流の兵法者に行逢ひ、六十余度まで勝負をなすと
云えども、一度も負け無し。 それは、歳十三より二十八、九までの事なり。
我三十を越えて、過去を思い見返るに、兵法を極めていて勝利したのでは
ないと思う。 生来の器用さが有って、自然の理が離れざる故ではないか

又は敵の法の兵法不足なる所なのか、其後なお深き道理を得ようと朝鍛夕錬して
見れば、自を兵法の道に合ふように完成したのは、我が五十歳の頃なり。
それより後は尋ね入るべき道なく、光陰を経た。兵法の理(これは万事に通ずる
ようだ)に従って、諸芸諸能の道を学んだが、万事に於て、我に師匠無し。
(兵法の理に従えば師匠が無くても、そこそこやれる)

今、此書を作ると云へども、仏法、儒道の古語をも借らず、軍記軍法の古きこと
をも用ひず、此の二天一流の見たての『実の心』を顕す気持ちは、天道と
観世音を鏡とする気持ちで、透き通り、確としている。
十月十日の夜、寅の一天に筆をとって書初るもの也。

兵法というのは武家の法である。
将たる者は特別大事にこの兵法を思い、この兵法を体得しておくべきである。
今の世の中に、確実に兵法を体得していて、人に伝え得るという武士は
私以外にいない。 まず、仏法は人を助ける道を顕し、儒者は文の道を顕し
医者は諸病を治す道、歌道者は和歌の道、数寄者、弓法者、諸芸、諸能
それぞれ思い思いに稽古し、真実に大成している人はいるが、兵法の道では
大成している人はまれだ。 まず武士は文武両道を謹むのが道である。

従ってこの道に不器用では済まぬ。 武士はそれぞれの能力に応じて兵法を
謹むべきものだ。 おおかたの、”武士の心得”を“只死ぬる”のに儀に
矮小化しているが、死ぬのは武士だけに限った事ではない。
出家、女、百姓に至るまで、義理を思い、恥じを思い、死するべき時を思い
で差別は無い。 

武士が兵法を実践するとは、何事においても、人に優れているということを
根本とすべきで、1対1の切り合いに勝ち、あるいは数人との戦いに勝ち、主君の
ために勝ち、名を挙げ身を立てようと思うのが道理である。
常時すぐ役立つよう稽古し、万事に役に立つように教えることこれこそ兵法の
実の道である(負けて死んだのでは、意味が無い)

漢土和朝までも此道を行ふ者を、『兵法の達者』と云ひ、云い伝へがある。
本来,武士として、此法を学ばずと云ふ事あってはならない。
最近、兵法者と称して世を渡る者あり。
是は剣術では大方そうである。
常陸国鹿島や香取の社人どもが”明神の伝へ”と称して流派を立て、国々を廻り
人に宣伝しているのは最近の流行である。 古より十能六芸と流行芸があり
その中に利用便法とか、奥義とか、芸全般に通ずる利方があるとか宣伝している。

剣術全般にかぎらず、剣の技術にまでそのようなものがあるとは、剣術とは
そのように簡単に身に付くものか? 無論兵法とは、そんなに簡単に身に付く
ものではない。 世の中を見ると、芸を売り物にする武芸者がいる
諸道具についても利用便法付きで売り出している。

花はあるが、実がない。 とりわけ兵法の実をについての講釈が無いのだ。
方法論を華やかな言葉で飾りたて、利用便法にして
『わが道場では短い太刀の素晴らしい使い方を』、あるいは
『わが道場では長い太刀の素晴らしい使いかたを』と大声で宣伝している。
うっかり習って、その利方を身につけでもしたら
『生兵法は大怪我の元』という結果になってしまう。

おおよそ、人の渡世に士農工商の四つの道がある。
ひとつには農の道、農民は色々の農具で四季に合わせた作物を作る。
二つには商の道。 酒を作ったりして、醸造に適した道具を見つけ、その利を
生かしている。 それぞれがそれぞれの道具の利を生かして稼いでいる。
三つ目に強調したいのは武士の道である。

武士に置き換えて言うと、兵具が農具、道具にあたる。
兵具をそろえ、兵具の利用便法を身につけ、大工が物差しで図面の確認をする
ように、寸暇を惜しんで、兵具の利用便法を会得する。
これこそ士農工商それぞれの道である。

これから、兵法の道を大工の道に喩え、書きあらわす。
大工はおおいに工むと書く。 兵法の道も多いに巧むが肝要であるので、大工に
喩える。 兵法を学ぼうと思うものは、この書の趣旨をよく思案して、弟子は
糸だと思って(針の)師につながり、続く気持ちで絶えず稽古に励げめ。

大将は大工の棟梁と同じ。 天下の尺度をわきまえ、国家の尺度を糾し、家の尺
度を知るのが棟梁の道である。 大工の棟梁は堂塔伽藍の尺度を覚え
宮殿楼閣の図面を知り、人々を使って家を建てる。
それは大工の棟梁も武家の頭領も同じである。

家を建てるには木を配り、まっすぐで節がなく、見かけの良い材木は表の柱とし
少し節があり、それでも真っ直ぐな木は、裏の柱とし、多少弱くても
節がなく美しいのは、敷居、鴨居、戸障子などとし、節があって
歪んでいるものは、その木の使い方を考察し、木をよく吟味し使用すれば
その家は長持ちする。

材木の中でもフシが多く歪んでいて、弱いのは足場にでも使い、後には薪にでも
使うのがよい。 棟梁が(人手)大工を使うにあたっては、腕前の上中下を知り
あるいは床回り、あるいは戸障子、あるいは敷居,鴨居、天井というように
それぞれに応じて使い分け、腕の悪いものには根太をはらせ、もっと悪いもの
には楔を削らせるなど、人(大工)を見分けて使えば仕事の能率が上がって
手際よく行くものである、仕事のはかがゆき能率がよく、妥協が無く、余裕が
あって、人の仕事に使う神経の上中下を感じ、(時をみて)励まし
無理(押し付けない)を知る。

こうした事を心得ているるということを、棟梁としての心得があると
いうのである。 兵法の道理もまたこの様なものである。

一 兵法の道大工に喩へたる事

兵卒は大工である。 自ら道具を研ぎ、いろいろな金具のタガをこしらえ
大工箱に入れて持ち、棟梁のいいつけを聞いて、柱、梁を手斧で削り、床、棚を
鉋で削り、透しものを彫り、規矩を糺し(寸法をただす)、手のかかる隅々まで
立派に仕上げるのが大工である。
図面の上でデザインし、自らの手にかけてその仕事を終える。
それから、大工の下心得はよく切れる道具を持ち、暇をみてこれを研ぐことが
肝要である。 その道具を使って棚、机、又は行灯、爼板、鍋の蓋までも
器用に工作するのが大工である。

吟味しなければならん。大工の(基本的な)心得は仕事が後になって歪まない
こと、止めを合わせること、カンナで上手く削ること、磨り減って使い物に
ならないような物を作らない事。
これが肝要である。兵法の道をを学ぼうと思うならば書き記したことども
一つ一つ念をいれて、よく吟味しなければならない。

兵法を五つの道に分けて、巻ごとにその概要を書き、地、水、火、風、空に分け
五巻として表すものである。

地の巻においては、兵法の道のあらまし、我が流の見方を説いている。
剣術だけをやっていては,本当の兵法の道を得ることはできない、大きいところ
から小さいところを知り、浅い所から深いところに至る、まっすぐな道を
思い描くことになぞらえて、最初の巻を地の巻と名付ける。

第二は水の巻である。 水を手本とし、心理を水に映す気持ちである。
水というものは四角い容器にも、丸い容器にも従って形を変えたり、1滴とも
なり、大海ともなる。 水には青々とした深い淵がある、その清らかで
理解しやすい部分から我が一流の事をこの巻に書き顕す。

剣術の道理を理解すれば、1人の敵に自由に勝ち、世のすべてに勝つことも
できる。 1人に勝つということでは、1人の敵であろうと、千万の敵で
あろうと同じことである。
将たる者の兵法では、小さいことから大きいことを洞察する。
一尺の金属から大仏を建立するのと同じである。
このようなことは、細かく表現できるものではない。

一を以って万を知ることが、兵法の道理なのである。
我が一流のことをこの水の巻に表す。

第三は火の巻である。 この巻では戦いのことを書く。
火は、大きくなったり小さくなったりする。
それになぞらえて戦いのことを書くのである。

戦いの道は、個人と個人との戦いも、集団をもっての戦いも同じである。
こころを大きくして、細部に注意を向け、よく研究してみなければならない。

ただし大きなところは見えやすく、小さいところは見にくい。
というのは多人数でやることは直ちには戦術を転換できない。
1人のことは、個人の心ひとつですぐ変わるから、小さいところがわかりにくい。
こうしたこともよく研究することである。

この火の巻に書き表したことは、瞬間的に決まることであるから、日々に
習熟して、平常心で向かえるように、心が動揺しないことが兵法の究所である。
こうしたことから、戦い、勝負のことを火の巻として書き表す。

第四は風の巻である。 この巻では、我が一流のことでなく、世間の兵法に
ついて各流派のことを書く。 風というのは、昔風とか、今風とか、それぞれの
家風などのことである。 世間の兵法について、各流派の本質を書きあらわすの
である。 これが風である。

他流派の本質をよく知らなければ、我が兵法の道を体得出来ない。
道の鍛錬をして行くのにも、外道という事がある。
自分では上達する道を行っていると思っても、本当の道ではない、間違った道を
行くと、始めの少しの歪みが、後には大きな歪みとなるのである。

調べるべきことである。 他流派の兵法では、剣術を極めれば兵法が極まると
思っているようだ。 もっともだが誤りである。 我が兵法の剣術の理と技に
おいては別格と考えて貰いたい。 世間の兵法を知らしめるために、風の巻を
書き表すものである。

第五は空の巻である。 この巻を空の巻と名付けるのは、他流が奥とか口とか
口幅ったく言っている事の本質を一口で言い表すためである。
他流は道理をつかんだ積もりでいて、本当の道理から離れている。
兵法の道とは、(空の状態で)自然に自由があり、自然に素晴らしい力を得
時期が到来して、拍子を知り、自然に打ち、自然に当たる、これがみな空の道で
ある。 自然に実の道に入る事を空の巻に書き留める也。


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