魏志倭人伝の伝える所によれば、卑弥呼は、①独身、②年長大、③鬼道に仕える
巫女、④共立されて女王となる、⑤弟がいた、⑥死んだ後大きな塚に葬られた
⑦死後、男王を経て、宗女壱与が再び女王となる、というプロフィールを持つ。
卑弥呼は一体誰なのか?という問題は、本居宣長が九州の蛮族の女酋だ、とする
までは専ら神功皇后と考えられていた。 それは、日本書紀が卑弥呼は神功皇后
だと暗に匂わせていたからである。
卑弥呼イコール神功皇后ならば邪馬台国も大和の國にあった事になり、大和説の
最も古いものと言える。 大和説の立場からは、倭途途日百襲姫(ヤマトトトヒ
モモソヒメ)と考える説もある。
崇神天皇ゆかりの女性と言う事だが、箸墓と呼ばれる大和古墳群の中でも大きな
古墳に葬られているので、大いなる塚という表現と合致すると考えられ,今でも
信奉者は多い。
倭姫(ヤマトヒメ)は、古事記によれば第11代垂仁天皇の皇女で第12代天皇
景行天皇の妹と言う事になっている。
この倭姫を卑弥呼である、としたのは京都大学の内藤虎次郎(湖南)である。
明治末期に内藤はこの説を発表し邪馬台国近畿説を展開した。
ちなみに、倭途途日百襲姫説を初めて唱えたのは徳島県の脇山中学校
(原脇山高校)で国語・漢文・地理・歴史を教えていた笠井新也である。
笠井は後に徳島大学教授となる。
卑弥呼を日本史上に現れる特定の女性に比定した説はほぼこの3人
(神功皇后、倭途途日百襲姫、倭姫)だが、これらの人物は、現代の解釈では
いずれも時代年代的に卑弥呼の時代とは重ならないため根拠が薄いと考えられて
いる。 九州説論者を中心に、最近支持者が多いのが卑弥呼=天照大神説である。
卑弥呼=天照大神説は、九州説論者の中でも邪馬台国東遷説支持者達にとって
最も都合がよい説となる。
アマテラスが卑弥呼だとすれば、古事記、日本書紀の記述と魏志倭人伝の
記事とが見事に合致するからである。 即ち、天照大神は素戔嗚尊
(スサノオノミコト)の暴虐に怒り天の岩戸に隠れた。
天地は真っ暗となり、人々は畏れおののいた。
八百万の神々は一計を案じ、天の安河の川原に集い岩戸の前で騒いで天照大神を
岩戸から引っ張り出した。 国中は明るさが戻り、素戔嗚尊は追放となって
平定された。 倭人伝の記述はこれと酷似する。
卑弥呼は戦中に没したが、その後国中大乱となり、暫時男の王を立てたが
国中治まらず争いが続いた。 そこで卑弥呼の宗女壱与を女王として立て国中の
混乱は治まった。 この記事の他にも天照大神と卑弥呼の類似点は
多数見受けられると言う。 又年代的にも天照大神の活躍していた神代と卑弥呼
の時代とが合致する。
天照大神の数世代後の子孫、神武天皇が東遷して初代の天皇となり大和朝廷を
作ったとすると、その後の古事記、日本書紀の記述が矛盾無く繋がっていく。
しかしこの説は、戦後の神話歴史の復活だとして最近まで学会の主流とは
なっていなかった。
だが、最近の科学的歴史観は、神話というものは何らかの歴史的事実を伝えた
ものであって、全くの机上の産物ではないという意見である。
卑弥呼=天照大神だとすれば全てのつじつまが合う、と述べたのは東京大学の
白鳥庫吉であるが、その後、和辻哲朗、栗山周一等を経て、現代でもこの説を
強力に展開しているのは産能大学の安本美典教授であろう。
彼は統計学の手法を用い歴代天皇の平均在位期間を割り出し天照大神と卑弥呼の
時代がピタリと重なり合う、という結論を出した。更に、ASCII社のPCソフト
〔ステラナビゲーター〕を使い、卑弥呼の没した年の前後、西暦237年
238年に北九州地方で皆既日食が観測されたことを証明し、天文学者の
お墨付きも貰っている。
即ち、この皆既日食が卑弥呼の死と重なり、文字通り世の中が真っ暗になったというのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます