ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(「世をしのぶ仮の姿」考)

2015-05-05 00:59:14 | babymetal
BABYMETALの三姫が、ステージを下り、日常生活を送る姿は、「世をしのぶ仮の姿」と呼ばれる。
その呼称は、ネタだと思われている。もちろん、いうまでもなくネタにちがいない。
しかし、本当にそれですましてよいのだろうか?
ここには(ここにも)BABYMETALという空前絶後の存在の、唯一性の核のひとつがあるのではないだろうか?

BABYMETALの三姫(とりわけ、何といってもSU-METAL)の場合、ステージ上の姿こそが真の姿で、いわゆる日常生活を送っているのは本当に「世をしのぶ仮の姿」なのではないのか?

いや、この言い方はすでにズルい。
彼女がSU-METALであるのはステージの上なのだから、定義上、SU-METALにおける「世をしのぶ仮の姿」とは、ステージをおり日常生活を送る中元すず香だということになるに決まっているからだ。

今回ここで考察したいのは、もちろんそうした論理的な定義の手続きの話ではなく、彼女(たち)の<生きかた><存在のありよう>についてである。

といっても、単なるアイデンティティをめぐる一般論を語ろうとしているのでは、もちろんない。
例えば、僕たちの一日を省みて、「仕事中はいわば演技をしていて、自宅に帰ると素顔になる」とは単純には言えないのであり、仕事をしている自分こそ、自分の本質のある部分であり、そこを基準とすれば、家でグダグダ過ごしている「素顔」の自分こそ「世をしのぶ仮の姿」なのだ、というような、
「社会的関係性の中にこそ真の自分がある(そうした関係性のなかでの析出にしか本当の自分などはない)」、という一般的なアイデンティティ論ではない。

BABYMETALにおける「世をしのぶ仮の姿」とは何か?は、もっと複雑でダイナミックな問題である。平凡な市井の一市民である僕たちとは異なる次元の話であり、
それは、アイドルとは何か?BABYMETALにおける「カワイイ(Kawaii)」とは何か?とも深く関わる問題であり、つまりはBABYMETALの本質に深く関わる問題である。

ぱっと思いつく比較対象が、「イチロー」だ。自宅で愛犬イッキュウと戯れる鈴木一朗と、グラウンド上で卓越した走攻守のプレーを見せるイチローと、どちらが本当のイチローか?と問えば(ヘンな質問だが)、もちろん、グラウンド上のイチローだ。
グラウンドの上に立つユニフォーム姿のイチローこそ真のイチローであり、自宅でのTシャツ短パン姿の鈴木一朗こそが「世をしのぶ仮の姿」だと言うのは(100%ではないが)かなり実感をともなって肯うことのできる見方だろう。

あるいは(個人的にはこちらの方がBABYMETALの場合に近いような気がするが)、日本の伝統芸能の、例えば、歌舞伎役者や、落語家だ。
彼らが歌舞伎役者であり、落語家であるのは、本来、舞台上・高座上であるはずだが、彼らはそこを離れて自宅に戻っても、歌舞伎役者であり、落語家であるのではないか(彼らの私生活・精神状態はよく知らないので、勝手な印象だが)。

三者とも、いわゆる戸籍上の本名とは異なる名を負うているところが、やはり、ひとつの大事なポイントなのだろう。ゲド戦記ではないが、「名」というものは、僕たちが思っている以上に、僕たちの存在を致命的に支配しているのかもしれない。

そして、BABYMETALの場合、イチローとも歌舞伎役者とも落語家とも異なるのが、三姫が幼少時から芸能活動を行ってきたということであり、さらに複雑なのが、さくら学院との関係である。

アイドルの語源は「偶像」であるが、しかし、幼少時からアイドル活動(かどうかは定義が難しいが少なくとも芸能活動)を行ってきた彼女たちにとって、「偶像/素顔」の区別は、そう単純に割り切れるものではないはずだ。
10歳までの脳ならば、どの国・土地に行ってもそこの言葉を自然にマスターし、ネイティヴとして自由に使えるようになるそうだが、そういう意味で、芸能活動(表情・発言・歌・踊り)等をいわば「ネイティヴ」でこなせる(?、勝手な憶測ですが)彼女たちには、僕たちの「日常=素顔」/「ハレの場=いわば演技」という区別はあてはまらないのではないか?15歳からアイドルを目指してオーディションを受けて芸能界に入った人たちとは全く異なる自我構造、精神構造がそこにはあるのではないか。

とりわけ、SU-METAL。
彼女の幼少時からの、アイドル・エリートぶりは、たとえば可憐Girl'sの動画を見るだけでも明らかだが、ああした環境・生活の中で生きてきた彼女にとって、「ステージ上でのパフォーマンスはお仕事であり、そこを離れて自宅に帰れば素顔に戻れる日常がある」というわれわれの思う通常のアイデンティティの構造とは異なる<自我・自己>があるのではないか。

さらに、さくら学院である。
一応、アイドル・ユニットと呼ぶべきではあるのだろうが、そこで見せようとしている魅力とは、生身の小学生・中学生が一生懸命に歌い・踊る姿、であるように見受けられる。頻繁にテレビに出るわけでもなく、作為的な演出で味付けするのではない、いわば素質のある少女たちの「地」の魅力を見てもらおうというというユニットであろう。
しかし、もちろん、「父兄」たちに見てもらうための私たちである、というアイドルとしての強い自覚は、日々培われ、強固なものになっていくはずだ。

アイドルとしての素顔。
素顔を見せるアイドル。

お仕事=アイドルと割り切って「演技」をする、のとは全く異なるありようだ。

そうしたありようを、理想的なまでに体験・具現していたのが、水野由結・菊地最愛だろう。転入生という扱いながら、実質、さくら学院の創立から先日の卒業まで、さまざまな実に「濃い」活動のなかで数えきれない喜怒哀楽を経験したに違いない。
だから、彼女たちにとっては、YUIMETAL・MOAMETALというBABYMETALでのありようは、理想的なありよう(さくら学院)からすれば、やや過剰な特別な味付けがされた<自らのありよう>なのかもしれない(おじさんの勝手な憶測だが)。
自宅=素顔、ではなく、さくら学院=素顔、が、ふたりのベースにあった(憶測DEATH!)。

しかし、中元すず香は少し(いや、大きく)異なるような気がする。
というのも、彼女にとって、さくら学院での歌や踊りは「役不足」だったのではないか、と思われてならないからだ。
彼女のさくら学院でのパフォーマンスを観るたびに、「力を持て余している」という印象がつきまとう。神曲「My Graduation Toss」でさえ、彼女のポテンシャルを100%引き出すものではあるまい(そんな必要もなかった。彼女はさくら学院においてはそのレベルで最高の存在だったのだから)。
しかし、BABYMETALの曲は、「メギツネ」や「紅月」をはじめ、まだまだ彼女自身、100%歌いこなせてはいない、という印象を持っているはずだ。(これも勝手な憶測だが)、中元すず香にとって、BABYMETALの楽曲を歌い踊ることは、<自分のなかに埋まっている力を精いっぱい発揮する>、もっと言えば、<自分のなかに眠っていた本当の自分を引出す>、そうした場になっているのではないか。
つまり、SU-METALであることで、出会いたかった真の自分に(少しずつ)出会えている、それが、中元すず香のありようではないか、と思うのである(憶測DEATH!)。

だとすれば、「世をしのぶ仮の姿」とは、まさに「世をしのぶ仮の姿」であるのではないか。彼女のステージ上での、歌・表情・挙措・とりわけ眼光が、オーラを湛えているのは、そこにほんとうの彼女がいる、今そこにしかありえないありようとして、真の意味でいきいきと生きている、その、生動・息吹の輝きを、僕たちが感知しているからなのではないか。
 
ということを確認した上で、BABYMETALの「カワイイ(kawaii)」について、もう少し検討してみたい。
「演」奏という、これまで何となく使ってきた概念も、もう少し深く考えることができるようになったのではないか、と感じている。