ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(「笑顔」考)

2015-05-24 22:46:03 | babymetal
とりわけMOAMETALは「微笑の天使」と称されるが、彼女だけでなく、YUIMETALも、もちろん時にはSU-METALも、楽曲の「演」奏としての魅力的な「笑顔」を見せる。
「笑顔」は、他のヘヴィメタルバンドにはない、BABYMETALの「演」奏の独自性の重要なひとつだ。

その「笑顔」の、ヘヴィメタル(の「演」奏)としての意味とは何なのだろうか?

というのは、(毎度の繰り返しになるが)BABYMETALの「演」奏は、激しいヘヴィメタル音楽に載せて可愛い女の子たちが笑顔を振りまきながら歌い踊る、などというものとは全く質を異にするものであり、MOAMETALを筆頭とする彼女たちの「笑顔」も、その「演」奏としての重要な役割を果たしていると思われるからだ。
「笑顔」によってBABYMETALのヘヴィメタル楽曲世界は比類のないチャーミングな相貌を伴って、僕たち観客に届けられる。
「笑顔」も、BABYMETALの「演」奏の、極めて大切な一要素なのだ。

実際に、彼女たちは、気分任せに「笑顔」を浮かべているのではなく、「笑顔」をもいわば「演」奏しているのだ。

わかりやすい一例が、「BABYMETAL DEATH」だ。
この楽曲において三姫はほとんど「笑顔」を見せない。それがこの曲の神々しさを引き立てているのだが、そのなかで、ときおり浮かべる「笑顔」、とりわけMOAMETALの「MOAMETAL DEATH!」でのはっきりした「笑顔」が、この楽曲における「演」奏のうえでの絶妙のスパイスになっている。まさに小粒でぴりりと辛い「笑顔」だ。この楽曲の世界観においては、三姫がずっと真顔であり続ける方が自然だし、そうであっても問題ないのだろうが、ほんの少しの(とびっきりの)「笑顔」が交じることで楽曲の味わいの深さがぐんと増す。
(他の楽曲ではYUIMETALもMOAMETALと同じくらいの、時にはそれ以上の笑顔を見せているのだけれど、「笑顔」といえばMOAMETAL、という印象があるのは、この「BABYMETAL DEATH」での「演」奏が大きな要因のひとつだ、と思う)。

また、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」では、SU-METALは「笑顔」を見せない(希望に満ちた明るい表情を浮かべることは時おりあるが)。それは、歌詞からも曲調からも必然だ。しかし、そこに、YUIMETAL・MOAMETALの合いの手の愛くるしい(あえて言えば「狂気」さえ感じさせる)「笑顔」が交錯されることで、表情世界が立体的な複雑さとして立ち上がり、観ている僕たちに眩暈に似た感情をおぼえさせる、楽曲のプログレッシヴな構成をビジュアルとしても表現する「演」奏になっている。

「笑顔」には(ミラー・ニューロンの回で考察したように)、僕たちの肉体・無意識を直接揺り動かす効果がある(僕たちはミラーニューロンの働きによって、MOA・YUIの「笑」顔を僕たちのなかに「写」している)のだが、そうした次元とはまた別の意味が、彼女たちの「笑」顔にはあるように思える。BABYMETALというユニットの成り立ちの構造そのものに関わる秘密、だ。

それは、何か?

それを考えるヒントになるのが、白川静の漢字についての考察である。
「文字は呪能を持つ」(文庫版『漢字百話』の帯)と、太古中国の呪術的な世界に立ち戻り、文字の原義を鮮やかに浮かび上がらせる彼の解釈は、しばしば鳥肌が立つほどスリリングなものだ。

その白川静が、「笑」について次のような講釈をしているのだ。(『常用字解』)

「笑」
巫女(ふじょ。神に仕えて神のお告げを人に告げる女。みこ)が両手をあげ、身をくねらせて舞いおどる形神に訴えようとするとき、笑いながらおどり、神を楽しませようとする様子を笑といい、「わらう、ほほえむ」の意味となる
若は巫女が両手をふりかざして舞い、神託(神のお告げ)を求めている形で、笑とちがってサイ(表示できませんが、口に似た記号です)がそえられている。ふりかざしている両手が、若では草かんむりの形に、笑では竹かんむりの形に字形化されている。
その下の夭(よう。くねらすこと)は、人が頭を傾け、身をくねらせて舞う形である。


傍線を付したところ、これはまさにBABYMETALのことではないか。
つまり、「笑」とは、漢字の成り立ちとしては、うれしいからアハハとかニコリとか笑う、ということではなく、巫女が身をくねらせて舞いおどる形、を言うのだ。
笑いながら踊る、のではなく、巫女の舞踊そのものが「笑」なのである

以前から、何度も、彼女たちの舞踊を「ダンス」と呼ぶことへの違和感を示してきたが(英訳すればどちらもDanceなのだろうけれど)、どうも、このへんにも原因があるようだ。つまり、彼女たちの「舞踊」は単なる「ダンス」とは異なるもっと深い意味をもつ、それこそ古代中国において漢字が生まれたころにまで遡る、歌や舞の始原的な意味をも、最新の激しく重いサウンドや楽器演奏とともに実現しているように見えるのだ。
よく、「宗教だ」という言葉が、ニコニコ動画の書き込みにも見られるが、それは正しいと思う。つまり、歌や舞の始原が宗教的なものであり、彼女たちの「演」奏は、そうした原始の狂乱を現代に甦らせるものでもあるのである。
今はやりのJpopのダンスユニットとは、その匂いや気配が全く異なるのだ。そして、原始的な宗教的な狂乱をも帯びたBABYMETALのそれは、ヘヴィメタルという凶悪なサウンドにふさわしいものだと(BABYMETALに出逢ってしまったうえで)感じるのだ。

ちなみに、上に出てきた
「若」を『常用字解』で引くと、こう書かれている。
「若」
巫女が長髪をなびかせ、両手をあげて舞いながら神に祈り、神託を求めている形。…神託を求めて祈る巫女に神が乗り移って神意が伝えられ、うっとりとした状態にあることを示すのが若である。伝えられた神意をそのまま伝達することを「若(かく)のごとし」といい、神意に従うことから、「したがう」の意味となる。神託を求める巫女が若い巫女であったので、「わかい」の意味にも用いられるようになったのであろう。


「若」=BABY という等式を応用するならば、これもほとんどそのままBABYMETALの「設定」の説明であるかのように読めてしまう。
(白川静氏がもしも存命だったら、彼もまたBABYMETALに嵌まったのではないだろうか?)

自分たちで作曲をしない、自分たちで楽器を弾かない、作られたユニットの上で与えられた役割をお仕事としてこなしている、という、BABYMETALを批判するひとつの定型的な文言があるが、考えてみるまでもなく、ローティーンの女の子たち三人が自発的にヘヴィメタルを(しかも二人は舞踊というかたちで)やろう、などと思うはずがないのであって、BABYMETALというユニットの革新性(僕たちにとっての奇跡)は、ヘヴィメタル史に今までなかった(考えすらしなかった)三人の美少女たちの「演」奏を、いわば「神託」というかたちによって実現したことにある。

紙芝居でも語られるように、「The Metal God」によって「Three Girls were Chosen」なのであり、そうした彼女たちの巫女としての舞踊が「笑」であり「若」である、のだ。

音楽的に言えば、(前回考察したように)この神託にあたるのが、聖典『BABYMETAL(1stアルバム)』ということになろう。必ずしも、KOBAMETALが神託を下す、のではない。彼自身も、いわば「The Metal God」の僕(しもべ)なのであり、三姫と「The Metal God」とをつなぐ役割をストイックに果たしているのだ。

自分たちの感情を歌にし、演奏する、という、通常のバンドのありようが、<近代的な自己表現>だとすれば、BABYMETALのありようとは、もっと原始的なありよう、それこそ歌や踊りや「笑」や「若」の始原まで立ち返るような原始的なもの、なのではないか。

三姫の、(最新形態の美少女であるはずなのに)どこか懐かしくゆかしいたたずまいは、そうした「演」奏をなりわいとしていることからくるのかもしれない。

僕は、「メギツネ」のPVでBABYMETALに一発ドハマりしたのだが、それは、上に書いたことをあのPVは強く感じさせるものだった、ということなのかもしれない。もちろん、こんなことは今思いついたことなのだが、僕自身の(これを読んでいる皆さんの何割かの)BABYMETALとの遭遇の核心を衝いているような気がする。

それにしても、BABYMETALのコンサートでどこで誰がどのような「笑顔」を見せているのか、きちんと確認しようとするだけでも大変な(とても楽しい)作業だ。
(逆に、例えば「4の歌」でもとんでもない「真」顔をも二人は見せる)。

YUI・MOAの「演」奏を中心にした、このBABYMETAL探究は、まだまだどこまでも底の深い作業になりそうである。