「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

​​​​​​​歴史の回想「高杉晋作と功山寺挙兵の起因」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-03-16 18:31:07 | 温故知新

​​​​​​​「高杉晋作と功山寺挙兵の起因」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作ら正義派の長州藩諸隊が、俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター 回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。
幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、ふたたび下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。のちに奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。
晋作は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人のグラバーと接触するが反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうの(のちの梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。
元治2年(1865年)1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年)3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる(明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名し現在に至る)。高杉本家は義兄の春棋が継いだ。
禁門の変・馬関戦争の後、朝廷と江戸幕府は長州藩へ、懲罰として十五万もの征長軍派遣を決定した。 長州では藩存亡の危機を前に、攘夷を志向しこれまで藩制を指導してきた長州正義派と、正義派の藩制指導に反発する椋梨藤太に率いられた俗論派らの争いが激化し、ついに武力衝突にまで発展する。 最終的に正義派が勝利し俗論派は排撃されたが、正義派・俗論派・征長軍の各勢力内は細かく分派し、それぞれが独自行動をしたため事件は複雑な経緯を辿る。


歴史の回想「長宗我部一族の群像」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介角川電子書籍

2020-03-16 17:54:27 | 温故知新

「長宗我部一族の群像」アマゾン電子書籍紹介角川電子書籍
長宗我部氏は、中世土佐の武家、長曾我部とも書く。
長岡郡宗部郷(元南国市)を領したことから長宗我部氏と称し、岡豊城を本拠に勢力を伸ばした。
長宗我部氏の出自には諸説はあるが、まだ明確に解っていない。
 室町期には守護細川氏の配下に属して活動していたが、永正4年((1507)京都で細川政元が暗殺されると、国内で孤立を深めていった。
 まもなく、当主長宗我部兼序(かねつぐ)は周辺の国人達に襲撃を受けて岡豊城で自害をした。
 この時、兼序の子長宗我部国親(くにちか)(1504年~1560年)は幡多郡の一条氏の下で逃れたが、やがて岡豊に戻って長宗我部氏の再興を勧めた。永禄3年(1560)国親が急死すると、その子長宗我部元親が家督を継いで近隣の国人層を次々に従えて、天正3年(1575)土佐統一を達成し、更に阿波・讃岐を制圧し、伊予にも侵攻したが、1585年に豊臣秀吉に従属を拒否し戦いになった。秀吉は毛利氏と連携し元親へ出兵を決意し、羽柴秀長を総大将として四国へ侵攻させた。多くの家臣団が参戦した。黒田孝高に淡路に先鋒と派兵した。
元親も各地に防援軍を配置した。讃岐には宇喜多秀家軍が備前・美作の兵を、播磨から蜂須賀軍を編成し、仙谷軍が加わった。秀長軍の率いる大和・和泉・紀伊の軍勢は堺から船出し阿波に土佐伯に上陸し、元親防衛戦を次々突破し、長宗我部元親は最後には折れて秀長の停戦条件を飲み降伏したのである。元親は土佐一国は安堵されて、今後、秀吉に帰順する事で終結したのである。
秀吉に敗れて服属した。
 秀吉の下で諸国を転戦するが、慶長4年(1599)に元親が死ぬと、家督を長宗我部盛親は翌年の関が原では西軍に属した。
このために、徳川家康は土佐一国を長宗我部から没収したところ、遺臣らが反発して浦戸一揆など、度々蜂起が見られた。
元和元年(1615)盛親は大坂夏の陣で敗れて殺害され、一族は滅亡した。


「戊辰戦争の群臣」アマゾン電子書籍・角川電子書籍

2020-03-16 17:50:03 | 温故知新

「戊辰戦争の群臣」アマゾン電子書籍・角川電子書籍

「戊辰戦争は明治維新政府とそれに敵対する旧幕府、諸藩との戦争。発生した慶応4年(1868)の干支である戊辰をとった呼称。前年の12月9日の王政復古クーデターで天皇を頂点とした新政権が樹立され、幕府や摂政・関白などが廃され、前将軍徳川慶喜は大坂に退去した。慶喜は新政府内の土佐・越前両藩のなどの公儀政体派の巻き返し工作に期待したが、江戸で薩摩藩邸焼き討ち事件が発生し、旧幕府軍は慶喜のあらわにした「討薩の表を掲げて京都へ進撃を開始した。薩摩・長州両藩など新政府軍は旧幕府軍の通行を阻止し1月3日に鳥羽伏見の戦いになった。戦争では、新政府軍が指揮官や将兵の士気、大小砲の兵器が勝り、初戦は機先を制して旧幕府軍を破った。4日には仁和寺宮嘉彰親王が征夷代将軍に任じられ、旧幕府軍が賊軍、新政府軍は官軍とされるに至って、慶喜は江戸に逃げ帰った。この鳥羽・伏見の戦いの結果、新政府内で武力討伐派が主導権を掌握した。西日本の諸藩は戦わずして新政府の軍門に降り、大商人の多くも新政府の支持に回った。新政府は1月7日に慶喜征伐令を発し、有栖川宮熾仁親王を東征軍は江戸へ進軍させた。
これに対して、慶喜は江戸城を退去し、旧幕府陸軍総裁の勝海舟が東征大総督参謀西郷隆盛に降伏状の交渉を重ねた。4月4日には東海道先鋒総督府橋本実染(1834~1885)が勅使として江戸城に入り、慶喜の水戸藩御預かり、江戸城明け渡し、軍艦兵器の引き渡し、城内居住の旧幕臣などの処置などの勅旨を田安慶頼(1828~1876)に伝え、4月11日には開城となった。旧幕臣は脱走し彰義隊は上野に立てこもり新政府に敵対した。関東では世直し一揆が激化し、開城後も新政府、旧幕臣との闘いが小山・宇都宮・舟橋などで散発的に起こった。5月15日には上野の戦争で彰義隊を壊滅させ徳川家達に70万円を与えて駿河に移した。東北については奥羽鎮憮総督を仙台に派遣し、藩主松平容保が会津藩に追討が命じられた。北陸諸藩は奥羽越列藩同盟は結んでいた新政府への敵対に対して、輪王寺宮を盟主に仰ぎ、白石に公儀府を置き、8か条の盟約を結んだ。東北戊辰戦争は、平・二本松・新庄・大館などが戦場になった。さらに、北陸の長岡・新潟でも激戦が交わされたが、既にして官軍となった新政府軍が優勢であった。会津では少年兵「白虎隊」動員されたが若松城は包囲され、9月22日に降伏した。最後の砦は函館の戦いは「五稜郭の戦い」の東北・北陸・北海道の諸藩の抗戦を圧倒し、新政府軍の平定で、鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争が終結した。


「天狗党の乱・幕末に舞う」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍・

2020-03-16 17:38:41 | 温故知新

「天狗党の乱・幕末に舞う」アマゾン電子書籍・
「幕末末期の元治元年(1864)水戸藩尊攘激派による筑波山挙兵とその後の騒乱事件。「天狗」とは、新参軽格の士が多い天保改革派にたいして反改革派が用いた蔑称で、譜代門閥の者には鼻高々の成り上がり者に映ったのだろう。一方、改革派は反改革派を「好物」と呼んだ。天狗党の主流は安政期頃から尊攘派として活動。安政5年(1858)前藩主徳川斉昭らの謹慎処分撤回を求める運動を展開したが、翌年戊午の密勅の取り扱いに巡って過激派と慎重派に分裂し。過激は天狗党につながり、鎮派の大方は弘道館書生や門閥派と結合し反天狗の諸生党を結び、両党は熾烈な武力闘争を生み出した。激派から桜田門外の変の関係者が出ている。1864年3月藤田小四郎、竹内百太郎、新治郡安食村の豪農で郷士らは各地の郷校に駐屯する同志を誘い、町奉行田丸稲之衛門を首領にして攘夷を旗印に筑波山に挙兵し、挙兵時は数百人に過ぎなかったが、各地から有志が参集し、一時1000人余りになった。天狗党は北関東を各地を横行し、追討軍と緒戦は優勢であった。だが次第に皇太子、藩内事情に起因する諸生党との抗争に縮小していった。10月那珂湊の戦いに敗れた一党は、元家老の武田耕雲斉を総裁にして、京都にいる一橋慶喜を頼り朝廷に真意を伝えるべく西上。一党は、下野、上野、信濃、飛騨の各地で追討軍と戦いながら、進んだが12月20日越前新保で加賀藩823人が降伏。翌年2月には敦賀で耕雲斉・小四郎ら352人が斬られ、そのほかも遠島、追放などに処せられた。しかしその後も両党の抗争は終わらず、明治元年1868年の弘道館の戦いに諸生党が実質的に滅びるまで続いた。



歴史の回想「前田利家の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 15:55:21 | 温故知新

「前田利家の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
前田利家(1538年~1599年)織田信長取り立て大名で加賀藩藩祖。尾張国愛知郡荒子村の土豪前田利春の四男。幼少より信長に仕え、軍功を上げ赤母衣衆に列し、1575年(天正3)柴田勝家の越前一国拝領の際、府中三人衆の一人として武生府中城に入った。加賀一向一揆の壊滅後は、1581年、能登一国を拝領し七尾小丸山城に移り、越後上杉の戦いに従事した。本能寺の変で信長が倒れたあと、柴田勝家と行動を共にしたが1583年の賤ケ岳の戦いの最中、秀吉に寝返り、北加賀2群を加増され金沢城に移り秀吉政権を支えた。1585年の秀吉の越中出兵に出陣、佐々成正を富山城を破り、翌年上洛し従四位下筑前守となる。1590年の小田原攻めにも従軍し伊達氏・南部氏の意向を秀吉に取り次いだ。1592年(文禄元)の文禄の役では肥前名護屋城在陣し、秀吉渡海の諫止、過書発給の明の講和使節応接などを徳川家康とともに行う。その後、秀頼の傅役となり五大老の第二の実力者として秀吉に仕えた。1596年(慶長元)秀吉父子の参内に供奉し、従二位権大納言に昇進、1598年退老し利長に家督譲ったが、秀吉の死後大坂城に入り、秀頼の後見人として徳川家康の専横を譴責する等豊臣政権を支えた。


歴史の回想「大内義弘の群像」アマゾン電子書籍紹介。楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 13:07:07 | 温故知新

「大内義弘の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
大内義弘(1356年~1399年)
南北朝時代の武将。父は大内弘世。九州探題今川了俊に従い、1371年(応安4)から九州出兵。1375年(永和元)再度九州に出兵し、1377年に了俊を救援、豊前守護となる。1380年(康暦2年)から翌年かけて家督をめぐって,弟満宏と戦うが、幕府の支持を得て勝利。1389年(康応元)将軍足利義満の厳島山系の際、一行を出迎えるとともに上洛する。以降在京が多くなる。1391年(明徳2)の明徳の乱の際には幕府方の勝利に導き、和泉・紀伊両国を守護に任じられる。1392年には南北両朝合体を成立させ、将軍の一族に準ずる旨の御内書を得る。了俊が1395年(応永2)に九州探題を解任されると、朝鮮との交渉の実権を握る。1397年和泉堺で挙兵し、幕府軍に攻められて敗死した。「応永の乱」。義弘の代には、安芸国の拠点として東西条も確保した。


歴史の回想「維新十傑・獅子奮迅の風」グーグル・楽天・角川・アマゾン電子書籍紹介

2020-03-16 13:02:07 | 温故知新

「維新十傑・獅子奮迅の風」アマゾン電子書籍紹介
維新の十傑(いしんのじっけつ)は、1884年3月刊、山脇之人『維新元勲十傑論』において、倒幕・明治維新に尽力した、志士のうち幕臣以外の10人を指す。また、このうち特に枢要な3人を「維新の三傑」と称する。小御所会議を経て王政復古の大号令を達成し、明治維新の新政府発足時の中心人物であり、各藩を代表する人物という点でも共通している。明治新政府に協力した有名な幕臣として、大久保一翁や山岡鉄舟、勝海舟等があり、他にも箱館戦争を戦ったのちに政府に協力した榎本武揚、武田斐三郎、大鳥圭介らがいるが、維新前に討幕に動かなかったことから含めない。藩閥の中で、十傑から洩れているのは土佐藩士だが、賞典禄は後藤象二郎と板垣退助の1,000石が最高位である。特に、大村益次郎については一時は「維新の三傑」に割って入ろうかという評価で、横井小楠も維新樹立を打ち立てた思想家として高い評価を得ている。明治政府内では大久保利通と江藤新平は政敵として知られ、佐賀の乱を鎮圧した大久保が江藤の首を梟首したことでも垣間見える。なお、この10人のうち岩倉具視を除く9人は、明治11年の紀尾井坂の変までに4人が暗殺され、2人が病死、2人が刑死、1人が戦死している。そして明治16年には残った岩倉具視が咽頭癌により死去する。十傑が去った後に明治政府を主導していったのは、伊藤博文や山県有朋、井上馨といった長州藩の元老である。
なお、金澤正造の著書『維新十傑傳』(1941年)では、明治以後の政治家とは別に、幕末期に維新へと至るまでに導いた主な革命家10名に、吉田松陰、頼三樹三郎、有村次左衛門、高橋多一郎、清河八郎、伴林光平、平野国臣、佐久間象山、高杉晋作、坂本龍馬を挙げた。明治になるまで活躍した吉田松陰や坂本竜馬、中岡慎太郎は当然維新十傑に入っても不思議ではない。少なくとも没後、彼らの活躍や足跡、文献をを掘り起こし、世に知らしめた、歴史研究家や小説家の努力の賜物だと思われ、若くして没した高杉晋作など日本人の維新の立役者に思えるのも、偉大なる先駆者の運命かも知れない。


歴史の回想「今川義元の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 12:26:56 | 温故知新

「今川義元の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
今川義元(1519年~1560年)東海地方の戦国大名・三河守。父は今川氏親。母は中御門宣院の娘。幼少時に駿河善得寺に入り、その後一時、京都建仁寺や妙心寺で修業を重ね、歌人三条西実隆や連歌師宗牧とも関わった。1536年(天文5)兄氏輝は没すると、家督をめぐる異母兄玄広恵探と争いこれを打ち勝ち、家督を継ぎ今川義元と名乗った。翌年、武田信虎の女との婚姻により甲駿同盟を結んだが、それまでの関係にあった北条氏と敵対し、以降富士川以東の支配をめぐり1545年まで抗争する(河東一乱)その一方で松平広忠の支援、織田信秀との交戦を通じて東三河の有力国人戸田氏を制圧、1546年に吉田城を三河侵攻拠点とした。ついに1549年に岡崎城を占領し、さらに織田氏の支城となっていた安祥城を奪取し、その際、織田氏との人質交換で松平竹千代(家康)を駿府城に迎えた。その後弘治年間1555年~1558年までに三河の領国化ほぼ成功した、今川氏は戦国大名のとして全盛期を迎える。この全盛期の背景に領国東域の政治的安定を意図して、1554年まで婚姻関係に介する北条・武田氏との同盟(甲相駿同盟)があったが、それとともに、検地の実施、貫高制の採用、家臣団編成。寺社統制、農、商、職人政策、交通路・伝馬政策、鉱山開発など多数に渡る今川仮名目録を定めた。1560年三河守に任官後、駿遠三の兵を持って尾張に侵入したが同年5月19日、桶狭間の戦で織田信長の急襲を受けて戦死した。



「歴史の回想・蛮社の獄」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKERグーグル・楽天・角川・電子書籍

2020-03-16 12:22:40 | 温故知新


「歴史の回想・蛮社の獄」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
天保10年(1839年9に起こった渡辺崋山とその同志に対する弾圧事件でシーボルト事件(1828)とともに洋学史上最大の弾圧事件とされる。しかし、もともと幕府官僚内部の対立による疑獄事件であり、関連資料も故意に隠滅された形跡があって、真相はほとんど知られていなかった。藤田茂吉「文明東漸史」(1884)によって憂国の蘭学者たちが崋山や高野長英を中心に尚歯会という政治結社をつくり、林家を中心にした蘭学者や開明派官僚たちのグループとは別物で「蛮者」の名も普通名詞で、特に崋山らのグループを指すものではない。崋山は三河国田原藩士で1832年に年寄役末席につき、海岸役兼務を命じられたことから海防に関心を持ち、蘭学者を招き蘭学の研究を始めた。折から内政的には飢饉や一揆・打ち壊し、対外的には内憂外患が表面化していた。これに危機意識を共有する幕臣や儒者・文人など崋山のもとに集まり、崋山は「蘭学にて大施主」と評された。幕臣では川路聖謨・江川太郎左衛門・羽倉外記・下曾根信敦らの開明派、儒者・文人では、古賀侗庵、遠藤勝助・赤井東海・安積艮斎・斎藤拙堂・立原杏所らがいた。これが幕府儒官の林家を刺激し、とりわけ林述斎の次男鳥居耀蔵は崋山のグループを老中水野忠邦に告発。しかし、その告発より。1837年のモリリン号事件を契機に崋山が「慎機論」長英が「夢物語」を書いて幕政を批判したことが理由で1839年5月、二人は逮捕され、小関三英は罪が及ぶのを恐れて自殺した。崋山は在所蟄居、長英は永牢に処せられた。この後しばらくは蘭学は冬の時代に入る。



「歴史の回想・​​二条家一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 10:35:15 | 温故知新

​​​​​​​「二条家一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
(1)藤原氏。五摂家(ごせっけ)の一つ。鎌倉中期九条道家(くじょうみちいえ)の第2子良実を祖とする。二条京極(きょうごく)の邸に住んだところから二条と称す。良実は1242年(仁治3)関白となり、以後子孫は他の摂家と並び立った。鎌倉末期道平は後醍醐天皇の討幕計画に加わり、弟師基(もろもと)は南朝に仕えた。道平の子良基(よしもと)は北朝に仕え、学者としても有名。その孫が足利義満の諱(いみな)一字をもらって満基(みつもと)と称して以来、室町時代、江戸時代を通じて代々足利・徳川将軍の諱を一字もらうことを例とした。江戸時代の知行高(ちぎょうだか)は1700石。明治維新後、公爵を授けられた。
(2)藤原氏の一族、御子左(みこひだり)家の子孫(鎌倉後期~南北朝時代)の家名。定家の子為家(ためいえ)の長男為氏(ためうじ)を祖とする。定家の二条京極邸の中の二条大路側の家を伝領したゆえの名で、「二条」と号したのは子の為世からである(為氏は「藤原」とのみ)が、同じく為家の子為教の京極家、為相の冷泉(れいぜい)家にそろえて為氏からをさすのが普通。俊成・定家以来の歌道師範家の嫡流として重きをなし、両統分立以後は京極・冷泉家(派)が持明院統(じみょういんとう)と結び付いたので、いきおい大覚寺統と結び付き、為氏が『続拾遺集』を撰んで以来、代々勅撰撰者となった。 南北朝分裂後、北朝で一時勢力を失ったが、為定(為世の孫)が将軍足利尊氏の支持を得てふたたび師範家となり、3勅撰集をなした。しかし南北朝時代末期に人材を欠き、あるいは殺害されて断絶した。


歴史の回想・「九条家の一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 10:28:12 | 温故知新

「九条家の一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
藤原北家の嫡流。五摂家の一つ。関白藤原忠通の三男藤原兼実に始まる。家号は兼実の殿第が京都九条にあった。この事に由来し、坊名の陶化坊から陶化とも称す。鎌倉初期。兼実は源頼朝の後援を受けて摂政、氏長者、兄基実の興した近衛家・九条家の両家に分かれた。その後、兼実の孫九条道家の代に、頼経・頼嗣ら
摂家将軍の父祖として鎌倉幕府と結んで家門が隆盛し、その3人の子息教実九条、二条良実、一条実経が相次いで摂政・摂関に任じられ、九条家からは二条家、一条家から両家が分立した。また、この時期に近衛家からは鷹司家が分かれたために、摂関家は近衛・九条・鷹司・二条・一条の五家となり、いわゆる五摂家が成立した。以後、九条家は他の摂関家と共に公家社会再興の意を占めて明治維新に及び家族に列した。それぞれ爵位を授けらえた。


歴史の回想・「有馬氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 10:18:36 | 温故知新


「有馬氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
有馬氏」(ありまうじ)
① 筑後久留米藩主そのおこりは赤松則村の孫義祐(よしすけ)で、摂津国有馬郡有馬庄(兵庫県神戸市)の地頭となり有馬氏を称したと伝える。7代有馬重則が豊臣秀吉に仕えて播磨三木満田城に移ったが、その子則頼が関ヶ原の戦いに東軍に属して加増を受けた。ついで9代豊氏(静岡県)横須賀に3万石、1600年(慶長5年)には3万石を加増されて丹波(京都府)福知山に移り、父則頼の遺領2万石も付与された。1620年(元和6年)に筑後(福岡県)久留米に転封され、御井、御原、生葉、竹野(たかの)、山本、三潴(みつま)、上妻、下妻の8郡21万石を領した。
以後廃藩置県まで歴代の久留米藩主で、江戸城内での家格は大広間詰であった。明治に入り華族に列し、頼万が伯爵となった。
②越前丸岡藩主 肥前高来郡有馬庄(長崎県南島原市南・北有馬町)におこるという。鎌倉時代には高来郡南部に勢力をもち、豊臣秀吉の九州知行割のおりには、高来郡内4万石の領地が有馬晴信に安堵され日野江城に住した。1612年(慶長17年)の岡本大八事件で、晴信は甲斐(山梨県)に配流されたが、子直純が遺領を継ぎ、1619年には1万3000石を加増され、日向国県(宮崎県延岡市)に転封、臼杵、宮崎、諸県、児湯の4郡に5万3000石を領し延岡城にあった。1691年(元禄4年)には農民逃散の責を負わされて3千石を減じ、越後国(新潟県)糸魚川に転封、ついで越前国(福井県)丸岡に移封し、廃藩置県まで続いた。明治以後子爵となった。
③下野吹上藩主 筑後久留米藩主有馬氏の支流。有馬豊氏の三男頼次駿河大納言忠長に仕え、忠長が罪を得たおり自らも蟄居したが嗣子なく没した。しかし、豊氏の外孫吉政が継ぎ、氏倫のとき、徳川吉宗の側衆となり、1716年(享保1年)伊勢国(三重県)三重郡に1300石を領知、翌1717年に下野国(栃木県)芳賀郡に1000石の地を得た。1726年に伊勢国多気、河曲、三重、下野国(栃木県)河内(かわち)、上総国(千葉県)市原郡内に、7700石を加増され、計1万石を領した。1781年(天明1年)氏恕のとき上総国五井(ごい)に陣屋を置き、氏郁のとき領知替えがあり、1842年(天保13年)下野国寒河郡吹上(栃木市吹上町)に陣屋を置き廃藩置県に至った。明治期に子爵を与えられた。
④筑後小松崎藩主久留米藩主の支流。久留米藩主10代忠頼に嗣子がなく、外戚(がいせき)の小出豊範を養子としたが頼利が生まれたので、豊範は御原郡小松崎1万石に分封されたが、まもなく絶家した。




歴史の回想・「池田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 07:30:17 | 温故知新

「池田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
近世の大名家。出自に諸説があるが近世の家譜では、清和源氏頼光流、楠胤説、摂津国を本貫地とする。始祖の池田恒利の妻養徳院派織田信長の乳母、恒利の子池田恒興(信輝)は織田信秀・信長、更に豊臣秀吉に仕え、美濃国大垣城主となったが、天正12年(1584)長久手の戦で嫡子之助とともに討死。信輝の次男池田輝政は岐阜城主三河国吉田城主、ついに関ヶ原の功で播磨国一国を領し、姫路城守。輝政の次男忠継は備前国、三男忠雄は淡路国を領し、輝政は西国の重鎮になった。慶長18年(1613)の輝政の死後、遺領は、長男利隆に西3郡を除く播磨国が、忠継に備前に加えて播磨西3郡が伝えらえた。しかし、元和元年(1615)に忠継が、その翌年に利隆が相次いで死亡し、忠継の遺領は4人の弟、忠雄、(備前国・備中国の一部)輝澄(播磨国宍粟郡)、政綱に(同赤穂郡)輝興に(佐用郡)が継ぎ,利隆の遺領は嫡子光政が継いだ。1617年光政は因幡・伯耆に国替えとなって、さらに1632年に池田光仲が継ぐと、同族同士で国替えとなり、光政を藩祖する岡山藩31万石余、光仲が藩祖とする鳥取藩32万石が確定した。岡山藩支藩では、光政の次男政言・三男光録を藩祖し、備中国鴨方藩・生坂藩、鳥取藩支藩では、光仲の次男仲澄・四男清定を藩祖とする因幡国鹿野藩・若桜藩が置かれ、また輝澄の子孫から維新時に福本藩が創設された。本・支藩とも廃藩置県まで存続した。



「歴史の回想・ノモンハン事件」グーグル・楽天・角川・アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍

2020-03-16 07:00:55 | 温故知新


「歴史の回想・ノモンハン事件」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
満州国とモンゴル人民共和国(外蒙古)の国境付近で起こった日本・ソ連両軍の大規模な武力衝突。ハルハ河戦争ともいう。ノモンハン一帯の国境線は不明確で日ソ間の紛争の種となっていたが、1939年(昭和14年)関東軍は国境付近に強硬な方針を決定した。たちまち同年5月ノモンハン駐屯の満州国軍衝突すると、日本軍はハイラル駐屯の第23師団の部隊を出動、外蒙軍をげきした。さらに7月2日第23師団は、反撃に転じた外蒙軍とソ連軍の圧倒的優勢な火力と戦車群の前に日本軍は苦戦を強いられた。戦況不利を知った大本営は事件の不拡大方針を決め、政府も外交的解決を求めた。これを無視した関東軍はソ連に対する攻撃を続けたが、8月20日ソ連軍の総攻撃を受けて、一個師団壊滅の大敗をきした。おりからの独ソ不可侵条約を締結と第二次大戦の勃発で国際情勢が急変すると、日本は停戦を申し入れ9月15日モスクワで停戦協定を調印され、関東軍司令官と同軍参謀長は引責待命となった。日本軍の敗北は陸軍の対ソ戦略に深刻な打撃を与え、対ソ開戦の企画を挫折に導いた。




「歴史の回想・辛亥革命」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍

2020-03-16 06:56:49 | 温故知新



「歴史の回想・辛亥革命」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍

中国最後の先制王政清を倒し、共和制を樹立を目指した革命。干支の辛亥1911年10月10日年の、武昌で軍隊の反乱がおこり全国へ波及、翌1912年1月1日南京で中華民国が成立が宣言され孫文が臨時大統領に就任した。【辛亥革命で樹立され、共和政体をとった中国最初の国民国家。南京を首都に1912年1月1日成立。それは「漢民族主義国家を目指し「建立民国」(国民主権主義)の具現として実現した。ただし、それは、漢族主体とはいえ五族共和を建前ににし、国旗は五色旗、共和制も国制転換の手段の域をとどまった。その量要素の結節点に救国と言い、いわゆる洋務があった。またその国家イメージも大きなふり幅を随伴し、北洋軍系の北京政府、国民党系の南京国民政府、抗日戦争期国共再合作による重慶政府と、親日的南京政府など、その内実は絶えず変化させた。】清朝最後の皇帝溥儀は2月2日に退位した。中国同盟会に集結した革命派の勢いは、若い知識人らを中心とする小さなものだった。しかし、清朝の立憲主義的改革の限界が明らかになり、その鉄道国有化政策や財政政策に対しても蜂起に合流、革命に協力した。諸列強も早い時期に清朝を見限り革命への干渉を避けた。革命後政治体制は、軍部の介入や党派間の対立のために容易に安定しなかった。加盟以降、纏足や宮廷儀礼が廃止され、欧化主義の風潮が広がるなど社会的雰囲気も大きく変化した。