「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

​​​​​​​歴史の回想「北条氏政の群像」電子書籍紹介。アマゾン・グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-20 16:50:17 | 温故知新

​​​​​​​「北条氏政の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
北条氏政(1538年~1590年)戦国・安土桃山時代の武将。戦国大名北条氏第四当主。父は北条氏康。母は今川氏親の娘。通称新九郎、左京大夫、隠居後は相模守。北条・武田・今川氏も三国同盟の一環として、1554年(天文23)に、武田晴信の娘と結婚。1559年(永禄2)に家督を継ぐ。翌年徳政令を発して年貢減免を実施するなど、民政の安定に努めた。また、1561年の上杉景虎の侵攻を契機に、関東諸国の平定に取り掛かり、まず、下総国国府台で里見氏を破り、引き続き岩付城の太田氏や上野国由良氏や北条氏など屈服させ、支城体制を整えた。上杉氏との同盟後は、武田氏との抗争となり、三増峠での敗戦などを経験、そのために家臣にたいする軍役改定や郷村に対して農民徴発令を出し、軍事力を強化した。また検地の実施や、段銭徴収の増額など領国経営にも精を出した。1580年(天正8)に家督を嫡子氏直に譲った後も政務を後見し、それがため豊臣秀吉の小田原攻めによる開城の際は自刃した。当主在任中虎朱印状と400通余と、隠居後の使用した印文「有効」印判状及び判もの、書状など500通の発給文書が知られている。


歴史の回想「藤原頼長の群像」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

2020-03-20 14:17:36 | 温故知新


「藤原頼長の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
藤原頼長(1120年~1156年)平安後期の公卿。関白藤原盛実の次男。母は忠実の養子となる。異母兄忠通の養子となる。1130年(大字)元服にあたって正五位下に叙せられ、翌年従三位、以降中納言、権大納言と進み、1136年(保延2)にわずか17歳で内大臣となる。1147年(久安3)左大臣有仁の死後、一上の宣旨を賜わり、蔵人所別当となるや、外記日記・殿上日記の筆録を督励し、上月月奏官人の出勤日数を天皇に上奏する、励行・官政などの朝議の復興に尽力を尽くした。1149年に左大臣となり、翌年天皇の外戚の地位を目指して近衛天皇に養女の多子を入内させた。頼長の博覧と公事に精励する姿に、摂関家の将来を期待した父忠実は、多子立后を終えると、兄忠通に頼長へ摂政を譲るように説得した。しかし忠通はこれを拒否したため、忠実は忠通を義絶氏長者の地位を取り上げて頼長に与えた。1151年(仁平元)に鳥羽法皇に奏上して、頼長に内乱の宣旨を蒙らせた。このた、摂政から関白に転じた忠通と内覧・氏長者の頼長との対立は激しさを増した。頼長は「なにごともいみじくきびしい人」という異名を持っていたという。そのためか鳥羽上皇もしだいに彼を「ウトミ思い召し」になった。1156年(久寿2)に近衛天皇が没すると、これが忠実・頼長の呪詛によると噂が流れ、法王の信頼を失って失脚、宇治に籠居を余儀なくされた。1156年(保元元)に鳥羽法皇が没すると後白河天皇、忠実らの挑発によって、崇徳上皇とともに挙兵に追い詰められた。頼長は奇襲あるいは東国へ下向を主張する源為義の意見を退けて、大和の武士や興福寺の悪僧信実・玄実らの到着待つうちに拠点とした白河北殿を天の方に急襲されて敗北。頼長は乱戦の流れ矢で重症負い、奈良に引きこもる父を訪ね面会を求めたが拒絶されその地で絶命した。


歴史の回想「源頼朝の群像」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

2020-03-20 14:08:07 | 温故知新

「源頼朝の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
源頼朝(1147年建久3年・~1199年)在職。源義朝の三男。母は熱田神宮の大宮司藤原季範の女。1158年(保元3)初めて皇后権少進に任官する。藤原信頼と義朝が結んで、藤原通憲(信西)・平清盛に対決した平治の乱で初陣。乱では当初清盛不在の虚を衝いて信西を討った信頼方が優勢であったが、後白河天皇が熊野参詣から戻った清盛方についたことによって形成は逆転。義朝一党は、再起を期して東国に逃れようとしたが失敗し、途中で義朝とはぐれた頼朝は美濃で平氏方捕らわれ京都に送られた。本来なら斬られるべきところを、伊豆に流罪になったが、これが清盛の義母池禅尼の口添えによるものと伝えらえる。伊豆で流人生活を送る間に、現地の豪族北条時政の女(北条政子)と結婚。1180年(治承4)後白河法皇の皇子以仁王が平氏打倒の令旨が伝えらえた。これを呼応を促す形で頼朝も8月に挙兵した。初戦に伊豆の目代にあった山木判官兼隆を討ったのち石橋山の戦いに敗れて、逃れて安房国へ渡り、下総の千葉常胤や上総介平広常らの援助を得て東国の武士たちに糾合し、10月源氏源氏ゆかりに居を構えた。その後、頼朝追討のために大軍で東下した平維盛軍沿いを富士川の戦で退けたが、そのまま上洛をする道を選ばず常陸国の佐竹氏を討ち、上野・下野の兵力を従えるなど、基盤としての東国を固める。1183年(寿永2)7月、平氏の都落ちと入れ替わって境に入った木曾義仲が平氏追討に手間取り、後白河はじめ院の近臣勢力とも融和できずにいるのを知った頼朝は、後白河に接近し宣旨を得て、東国支配権を承認された。これに起こった義仲は後白河に対する実力行使に及ぶと、弟の源範頼にと義経を代官として派遣し義仲を排除した。さらに範頼・義経には西国から摂津まで失地を回復しつつあった平氏軍を攻撃を命じ、一の谷の戦で勝利する。その後、平家没官領を手中に収め、門注所・公文所を設置する等東国経営のここを割いた。敗走した平氏は讃岐の屋島に本拠を設けたため、頼朝は範頼にその追討を命じて山陽道を西進させ、範朝の戦果が思わしくないと見るや頼朝の意向を背いて任官した義経にその兵を授けて平氏の殲滅を図った。その結果、1185年(文治元)2月に屋島の戦や壇ノ浦の戦で平氏は滅亡する。しかし平氏撃滅の功労者の義経と頼朝とは、後白河の離間策もあって不和が表面化し。義経は縁故の奥州藤原に頼ると、それの理由に宣旨を待たず奥州藤原氏追悼の大軍を発し、1189年9月藤原泰衡らを討って義経も討たれた。事態が収拾されて頼朝は後白河と会見したが、双方に齟齬があって後白河が没してから頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。





歴史の回想「梶原景時の群像」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

2020-03-20 14:04:58 | 温故知新

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梶原景時(?~1200年)鎌倉前期の武士。父は鎌倉景清。通称平三。1180年(治承4)の石橋山の戦で平氏方に属しながら源頼朝を救い、再起した頼朝に従臣。翌年侍所所司となる。1183年(寿永2)頼朝の命を受けて上総御権介平広常を謀殺。1184年(元暦元)源義経らと上洛し源義仲を討ち、平氏追討ののための西海を転戦、播磨・美作総追補使に任じられた。1185年(文治元)屋島攻撃の際義経と対立し、頼朝に讒訴して失脚させた。弁舌巧みで京都的教養を持つ景時は頼朝に重用され、御家人統制にあたったが、官僚的性格と憲性欲から御家人の反感を買った。1199年(正治元)頼朝の没後組織された「十三人宿老会議」の構成員になり、御家人六十六人から弾劾を受けて失脚、1200年正月再起を期して上洛の途中駿河国狐埼で在地武士とかっせんし一族とともに敗死した。


歴史の回想「赤松政則の群像」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

2020-03-20 13:57:10 | 温故知新


「赤松政則の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
赤松政則(1455年~1499年)室町時代後期の武将。播磨・備前・美作の守護。赤松満祐の弟で時勝の子。嘉吉の乱で赤松惣領家は滅亡したが、1458年(長禄2)赤松氏の遺品がが南朝から神璽を奪還した功もより、赤松家再興が許され、家督を相続。加賀半国守護となる。1465年(寛正)元服。将軍足利義政より名前の一字を受けて政則と名乗る。応仁・文明の乱では妻の父細川勝元の東軍に属し、赤松氏の旧領播磨・備前・美作3か国の守護職を回復・1477年(文明9)に侍所頭人となる。将軍義政・義尚に重用され、義材の六角氏攻撃には軍奉行となる。


歴史の回想「「筒井順慶の群像」電子書籍紹介。アマゾン・角川・BOOK★WAL」グーグル・楽天。

2020-03-20 13:47:27 | 温故知新

「筒井順慶の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
筒井順敬(1549年~1584年9安土桃山時代の大名。大和国郡山城主。興福寺の官符衆徒。陽舜房順慶と称した。幼くして家を継ぐが、松永久秀によって居城筒井城を追われ、以後も久秀と抗争に明け暮れる。久秀ははじめ織田信長に降伏したが、1571年(元亀2)謀反したため、順慶が久秀追討に起用された。1576年(天正4)信長から大和一国の支配を任され、主に明智光秀の配下の武将として活躍。やがて郡山に築城した。信長が本能寺で横死した際には微妙な立場で苦悩の局面だった。山崎の戦では郡山城に籠って動かなかった。「順慶の洞が峠」の嘲笑を受けることになった。以後羽柴秀吉の有力武将として各戦場を転戦し活躍した。関原の合戦後は筒井騒動の余波でで筒井家は衰退していった。謡曲や茶の湯の名手武将として著名で、井戸茶碗「筒井筒」をはじめ、元は順慶の所持で今も伝わる名品が多い。



歴史の回想「古河公方の攻防」アマゾン・グーグル・楽天・電子電子書籍紹介。角川電子書籍・。

2020-03-20 10:55:24 | 温故知新

​​​​​​​「古河公方の攻防」アマゾン電子電子書籍紹介。角川電子書籍・。
古河公方は室町中期から戦国期にかけて下総国古河を拠点に活動した足利氏小姓である。鎌倉公方に足利成氏が、上杉氏に対立して康正元年(1455)頃古河に入ったことに始まる。成氏氏は梁田氏や重臣たちを近隣に配置し、お山・結城氏ら北関東の大名たちを従えて、
上杉氏と戦いを続け享徳の乱室町後期の関東で展開された内乱。鎌倉公方が古河公方に拠点を移し関東管領の上杉氏派の戦で、20年間近く及んだ。享徳3年(1454)足利氏は上杉氏を遂に成氏氏が関東管領の上杉憲忠しを謀殺したのである。そのことを機に、翌年より本格的戦乱状況に入った。成氏氏はその時の拠点が下総古河を居所として、梁田ら重臣と直臣たち遠山・結城氏ら北関東の大名たちと糾合し、対する上杉方は武蔵五十子を拠点に山内・扇谷両上杉しとその家老ら、さらに越後の上杉氏ら連合して対抗した。結局講和してその地位を保った。成氏の子政氏と、その子も多か高基の子も、大名ららの支持を得て活動したが、高基の子の足利晴氏が北条と結んだためその影響に置かれ、次の義氏は完全に同氏が男子がなく死去すると攻防は消滅するが、娘が家を継承し、近世には喜


歴史の回想「大坂城代の歳時記」アマゾン・グーグル・楽天・電子電子書籍紹介。角川電子書籍・

2020-03-20 10:51:05 | 温故知新

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大坂城代は江戸幕府の職名。将軍たる大坂城に常駐してこれを守備、守衛するとともに、大阪在勤中の幕府諸役人の最高責任者として政務を統轄した。併せて西日本諸大名の監視の任務と非常時における軍事指揮権を持っていた。大坂は元和元年(1615)の大坂城落城、松平忠明の城主時代を経て1619年幕府の直轄地となり、内藤正信(1568~1626)が最初の大坂城代に就任。任期は不定期で幕末まで続き伸べ70代を数えた。江戸時代中期以降は奏者番兼寺社奉行から大坂城代に進み、さらに京都所司代に、そして老中に進む昇進事例が多かった。また坂城代の下に大坂在番が置かれた。大坂在番は、大坂城代の指揮下にあって大坂城の警備の常駐と幕府軍事組織で、定番・大番・加番・目付をさす大阪定番は、京橋口定番と、玉造口定番の定員2名で、1,2万国の譜代大名が選ばれた。任期不定。大坂大番は、東大番と西大番があり、それぞれ大番頭が1名、大番衆0名からなっている。大阪加番は、大判を補強するためにあり、山里加番・中小屋加番・青屋口加番・雁木坂加番・の4加番・がある、3万から1万国級の譜代大名が選ばれ任期は1年。大坂目付は大坂在勤の1万石以下の役人を監視する役目で定員2名からなる。旗本から選任され任期は1年が基準であった。


歴史の回想「時代を変えた国学者」アマゾン・グーグル・楽天・電子電子書籍紹介。角川電子書籍・

2020-03-20 10:43:47 | 温故知新

「時代を変えた国学者」アマゾン電子電子書籍紹介。角川電子書籍・
近世に起こった日本古典や古代史文化「古道」を考究、研究する学門の総称。一般には契沖を創設者として「荷田春満、賀茂真淵を経て本居宣長に至って大成したと言われるが、平田篤胤以降の幕末国学もこの流れの中にある。国学をどのように定義するかについて「道統」をどのようにとらえるかによっても異なる。既に近世にも宣長没後門人などの間では、歌学派と古道派の間に争いが見られ、近代以降になっても国学を文献学とみなす村岡典嗣、久松潜一らの立場の間に見解の相違があった。いずれにせよ、その大成者と言われる宣長の学問内に、古典に対する文献考証学的価値と復興主義的古道論の二側面をとらえ、どちらが本質か依っては学者の眼差しは分岐点来たと言っても良い。趨勢的には、戦前は国体論と結びつけて来たのに対して、戦後はその考証学的側面を近代的なものと評価する傾向がある。そうした眼差しの相違にも関わらず、今なお近代の国文学、国語学などの淵源として国学をとらえる見方は大形で一致している。しかし、それは逆に近代国文学などの学知が、繰り返し国学を淵源として「再生」させてきたことによるもので、その系譜自体を疑問視する子安宣邦らの研究もある。国学が成立以前は古典研究・歌学研究は秘事口伝、古今伝授として相承されてきたが、これも疑義を呈した先駆者としては戸田茂睡、下河辺長流などが知られる。元禄初期の大坂妙法寺の僧、契沖はそのうえに書誌研究や言語的研究といった文献的方法に研究を加えて、国学者の先駆者としての位置づけている。


歴史の回想「新選組の佐幕の大義」アマゾン・グーグル・楽天・電子電子書籍紹介。角川電子書籍・

2020-03-20 08:07:59 | 温故知新


「新選組の佐幕の大義」アマゾン電子電子書籍紹介。角川電子書籍・
幕末・維新期に佐幕浪士隊。新選組とも書く、幕府は浪士取り締まりに武芸上達の者を取りたてて浪士組を編成し、文久3年(1863)2月、将軍徳川家茂の警護を名目として上洛させた。その際の指導者清河八郎(幕末末期の攘夷運動家。本名は斎藤元司。出羽国田川郡清川村の豪農の、名主斎藤治兵衛の長男。弘化4年(1847)江戸に出て古学の東条一堂に入門。嘉永4年(1851)北辰一刀流の千葉周作に入門し、神田美川町で文芸塾を開き、近藤らと出会い、新選組に合流することになるが、考えが違った)清河八郎は国事掛に出入りし攘夷実行すべきとめざし動き始めたため、同年3月に江戸に呼び戻された。この時、京都に残留した芹沢、近藤勇・土方歳三らは、京都守護職松平容保の支配下に属し、京都近郊の壬生村に屯所を置いて新選組と名乗った。将軍身辺の警固から京都治安維持にあたり、尊王攘夷派志士の弾圧に努め、壬生浪人として恐れられた。無謀は行いが多かった初代局長芹沢鴨を斬殺したのち、新選組の実権は局長近藤勇、副長土方歳三らが握った。元治元年(1864)6月、池田屋事件、7月の蛤門の変における活動を頂点とし、その後も尊王攘夷派浪士を取り締まりにあたる。慶応4年(1868)正月鳥羽伏見の戦いには幕府軍に加わって敗れ、江戸に帰る。同年3月改めて近藤勇は甲陽鎮撫隊を編成し、甲斐国勝沼まで出兵して官軍と抗戦するが敗退、ここで実質的解隊に追い込まれる。その後近藤は下総流山で捕らえられる。、江戸板橋で処刑され、土方は翌年に箱館五稜郭で戦死した。



「歴史の回想・越後騒動」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-03-20 07:51:02 | 温故知新

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越後国高田藩で、藩士が二派に分かれて争った御家騒動。1665年(寛文5)の大地震後、藩財政窮迫打開のために家老小栗美作は諸施策を進め成果をあげたが、同時に小栗と配下吏僚に権力が集中し譜代藩士大多数が反感を持った。1679年(延宝7)正月、藩主松平光長の異母妹を妻とする小栗の子、大六を藩主とする陰謀が露見したとして騒動が始まる。幕府は美作を引退させ家老たちが合議制をとるべき調停を命じたが、反対派は納得せず誓紙を集めて一層団結した。大老酒井忠清は、藩主の弟氷見大蔵家老荻田主馬ら反対派を処罰し各藩に預けた。反対派は承服せず、多数が浪人した。農民は度々巡検使に小栗に悪性を訴えた。幕府は両派首脳を再度取り調べ、結局将軍綱吉の親裁により、1681年(延宝9)6月小栗美作・大六は切腹、氷見・荻田ら八丈島へ、ほかにも流罪やお預けとなり、藩主光長は改易となった。藩主美作父子を重用しすぎ、譜代家臣統率を怠ったことが、騒動の要因である。農民層の動きは複雑で、藩主光長が1687年(貞享4)許されて江戸に帰ると、大肝煎りのなかに祝賀の挨拶に赴いたのが多数あった。


「古事記紡ぐ一宮の神々」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-03-20 07:32:53 | 温故知新


「古事記紡ぐ一宮の神々」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
『古事記』『日本書紀』 には神話の編纂に国津神、先住氏族の祖神の神々を多く記されている。
特に出雲系の地主神、国造りの神々は古くは諸国に分布する一ノ宮の祭神から国津神と天孫の天津神の中央のヤマト王朝との対立、紛争を推測することが出来る。
また古くより先住し、御神体が山々に磐座に鎮座する崇敬の信仰、氏族の祖神を祀る古代の豪族の神社など、地域に根付いた崇敬の神々が存在した。 
六十余諸国一国に一ノ宮に選ばれた神社の祭神は由緒、崇敬、権威、勢力などを兼ね備えた神社である。
本来なら天孫降臨の祭神が多くあっても良いものだが、多くは出雲系の国津神が大部分を占める。 
天孫天津神と対立し「国譲り」をしたとされる、国津神の神々の分布は、一つの流れは大和から尾張、三河、遠江、武蔵野への流れ、二つ目の流れは大和から能登、越中、越後へ、三つ目の流れは大和から丹波、出雲、への流れがあるようだ。
大和国一ノ宮は大神神社の祭神大物主神は大国主神と同一神とされる神で、天孫降臨の子々孫々は大和国から国津神を一掃できなかった。
大和を拠点の天孫も天武朝の少し前の五世紀から六世紀に伊勢に鎮座を見た。住氏族、部族、豪族の祖神、氏神が諸国多く見られ、潮流によって北上し漂着、土着し祖神を祀った。
地主神としてその地域の神として鎮座、君臨する神など居たと思われる。 
一早く天孫の軍神となった四道将軍も派遣され、その地で土着し氏族の祖神となる場合など元来の地主神と融和をした。
渡来系の神々に、日本人の起源を考えてきた場合、縄文時代後期から弥生時代にかけて七倍ほどの人口増と周辺諸国からの流入が考えられる。
先住氏族と征服氏族らの天津神系も多種多様に戦いと融和を重ねながら、包み込み生み出されていった「八百万の神々」なのである。
平安時代から鎌倉時代にかけ、形成されていった一ノ宮は諸国の神社に熾烈な争いを巻き起こし、神仏習合と相成って明治の神仏分離令まで変遷を繰り返した。
今尚残る全国の地名に一ノ宮は往時の一ノ宮への威信かけた軌跡である。