「島津氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
鎌倉時代より江戸時代に至るまで南九州の大名家。島津藩主,始祖島津忠久は惟宗姓を名乗り、摂関家近衛家の家司であった。
比企氏との縁で源頼朝に重用され、近衛家領島津荘の総地頭に任じられた。
建仁3年(1203)の比企氏の乱で薩摩一国守護・地頭に留まったが、鎌倉幕府の滅亡後は、大隅の守護職に任じられ回復した。
南北朝時代島津貞久は三男島津師久に大隅の守護職を譲った。前者師久は官位上総介から総州家と呼ばれ、後者氏久の官職が陸奥守で奥州家と呼ばれた。日向三国守護職を有し、鹿児島清水城を本拠とした。忠国以降の一族の反乱、国一揆に苦しみ忠昌は天文5年(1535)国外に退去し自殺した。その後養子となった相州家、島津忠良の子島津貴久が三州の統一を推進し、その子島津義久から島津義弘は伊東・大友・相良・龍造寺氏らを破って九州一円に勢力を拡大した。天正15年(1600)豊臣秀吉の侵攻によって屈服し、薩摩・大隅・日向諸県などが安堵された。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に属し、徳川幕府の制裁を巧みに領土を保全することに成功した。江戸時代末の幕末には薩摩藩は重要な役割を果たした。
「歴史の回想・永禄の変」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
「永禄の変の起因」(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久通らの軍勢によって室町幕府第13代将軍足利義輝らが京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。近年では、他に「永禄の政変」と呼称されることもある。
義輝側は三好・松永らの謀叛に備え、数年前から二条御所の四方の堀・土塁等を堅固にする工事を施していた。
ルイス・フロイスの『日本史』によれば、事件前日の永禄8年(1565年)5月18日には、義輝は難を避け京を離れるために一旦、御所を脱出している。しかし、奉公衆ら義輝の近臣は、将軍の権威を失墜させると反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行ったため、義輝も不本意ながら御所に戻ったという。
一方、三好・松永らは、御所の門扉の改修が済む前に包囲するべく、翌5月19日に清水寺参詣を名目に約1万の軍勢を結集して御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽って取次を求めた(後述のように訴訟の取次自体は事実だったとする説もある)。
奉公衆の進士晴舎が訴状の取次ぎに往復する間、三好・松永の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始した。
なお、松永久秀がこの事件の主導者であるという見解が広く巷間に流布しているが、久秀はこの事件が起こった当日は大和国にいて直接には関与していない。
しかし、主導しなかったとはいえ、久秀が将軍暗殺を黙認したことは事実である。
将軍方の応戦は激しく、一色輝喜、上野輝清以下十数名が三好方数十人を討ち取った。その間に殿中では、進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹し、義輝は近臣たち一人一人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出た。治部藤通やその弟・福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取った。剣豪塚原卜伝に兵法を学んだ[注釈 3]義輝自身もまた、薙刀を振るい、その後刀に持ち替えて奮戦したという。
「歴史の回想・応永の乱」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
応永の乱、1399年(応永6)大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱。大内氏は室町幕府の全国統一に多大な貢献をしたため、周防・長門・石見・豊前・紀伊・和泉の6か国の守護に任じれられ、その地理的条件を浮かした対外貿易で巨利を上げていた。このため、より安定的な幕府財源の獲得めざし3代将軍足利義満はと対立し、他の足利一門以外の大氏内氏族同様討伐の対象になった。1396年渋川満頼が九州探題に就任したのを機に、九州地方では戦乱が頻発したが、幕府の満頼援助の命令を受けた義弘は弟満弘を派遣、満弘戦死後は自ら下向しこれを鎮圧した。しかし、幕府の対応に不信感を持った義弘は、その後容易に上京せず、義満に不満を持つ鎌倉公方足利満兼との連携を強めた。そして1399年10月、大軍を率いて和泉国堺に着任して籠城、これを機に各地に反幕府勢力が挙兵したが、悉く鎮圧され、義弘も12月21日戦死し、弟弘重は降伏した。
「歴史の回想・上杉禅秀の乱」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
上杉禅秀の乱は、1416年(応永23年)から翌年にかけて鎌倉で起こった内乱。首謀者は前関東管領上杉氏憲(禅秀)で鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲基を討とうとして持氏の叔父満隆を擁し、千葉・武田・大掾・岩松ら関東の多くの武家を誘い、10月2日に鎌倉で決起した。このクーデター一端は成功したが、持氏と憲基は逃走するが、将軍の継承を廻って対立していた弟の足利義嗣と氏憲の内通を知った将軍足利義嗣と氏憲の内通を知った将軍義持が持氏支持の姿勢を明示し、諸将に氏憲討伐を呼びかけると、各地の武士たちは挙兵し鎌倉に進み、結局氏憲は敗れて、よく1417年正月10日に自殺した。この乱は鎌倉府を二分にし、関東の武家のほとんどを巻き込んだ大規模なもので、この事件のきかっけに関東は混乱状況に入った。
「伊達氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
「伊達氏の出自」(だてし/いだてし)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、藤原北家山蔭流と称する。伊予国・但馬国・駿河国などに庶流家がある。
出自は魚名流藤原山蔭の子孫と称し、藤原家が統治していた常陸国伊佐郡や下野国中村荘において伊佐や中村と名乗り、鎌倉時代に源頼朝より伊達郡の地を与えられ伊達を名乗ったとされている。
ただし、伊達氏の出自が藤原北家であるというのはあくまで自称に過ぎないとする説もある。
また「桓武平氏常陸大掾平維幹(平繁盛の子)の子為賢の末」説を挙げている。さらに下毛野氏とする説も提唱されている。
また、常陸入道念西と伊達朝宗は別人であるという説もあり、新井白石は元禄15年(1702)成立の『藩翰譜』で『伊達正統世次考』の示す系図を疑っており、常陸入道念西は朝宗の子・宗村であるとしている。
初代・朝宗以降、ほとんどの歴代当主が「宗」(むね)の通字を使用する。ただし、江戸時代に伊達綱村(仙台藩第4代藩主)が父・綱宗と同名になるのを避け、第2代・宗村に由来する「村」(むら)の字を使用してから、第8代藩主斉村までの間、「村」が通字となった。
伊達朝宗~伊達政宗(9代)~伊達稙宗~伊達晴宗~伊達輝宗~伊達政宗(17代)~伊達成実~伊達綱宗~伊達宗勝~伊達吉村~伊達宗紀~伊達宗城~伊達慶邦~伊達邦直~伊達邦成~伊達順之助。
戦国大名伊達稙宗から有力大名らと婚姻を結び、陸奥国守護となり、晴宗は奥州探題となり領土拡大していったが、嫡子晴宗と対立し、七年間にわたる「伊達氏天文の乱」を起こし一時衰退したが、輝宗が徐々に再興し
ていった。何より伊達氏を居並ぶ大名の中で吐出して勢力拡大に寄与したのは、政宗の安土桃山時代である。
天正12年(1584)に当主になった17代・伊達政宗は強硬な領土拡張政策を進めて、会津の蘆名氏や奥州探題・大崎氏と戦い、天正17年(1589)には蘆名氏を摺上原の戦いで破り、これを滅ぼして伊達氏の領土は最大(114万石)となった。
しかしこれは関白・豊臣秀吉が発した惣無事令に背くものであったため、天正18年(1590)に政宗が秀吉が服属した後の奥州仕置では会津・河沼・耶麻・岩瀬・安積などを没収され、伊達氏旧領(置賜・伊達・信夫など)および田村郡72万石のみを安堵され、米沢城に戻る。
さらに、同年に起きた葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見したため、翌天正19年(1591)の一揆鎮圧後に国替を命じられ、旧葛西・大崎領13郡を与えるかわりに置賜や伊達郡など旧領6郡を没収されて、米沢72万石から岩手沢58万石に減封された。
政宗は岩手沢城の縄張りや改修修築を行ない、岩出山城(現:宮城県大崎市岩出山)と改名し居城とした。
それでも石高で豊臣一門(猶子)の宇喜多と小早川をしのぎ、徳川(255万石)・上杉(120万石)・毛利(112万石)・前田(80万石余)・島津(61万石)に次ぐ大大名になった。。
「朝倉氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
室町幕府管領家斯波氏の重臣、後に越前の戦国大名。但馬国朝来の土豪であったが、南北朝初期に越前守護斯波氏に従って越前に入部し、足羽郡を中心に土着的な勢力を伸ばす。長禄2年(1458)に朝倉孝景は守護代甲斐氏と結んで、守護斯波義敏方の勢力を討って頭角を現し、足羽郡の一乗谷を本拠地として軍事力を強化。孝景は応仁・文明の乱の中の文明3年(1471)に西軍から東軍に寝返って自立し戦国大名になるが。この時に越前守護職を与えたと伝えらえている。永正3年(1506)以降は加賀の本願寺派一向一揆と敵対していたが、永禄11年(1573)一乗谷で元服した足利義秋の仲介で本願寺と和睦し、浅井軍と連携し、反織田信長勢力の一環となった。天正元年(1573)8月に信長に敗れ、朝倉義景は自殺、朝倉氏は滅亡した。
「真田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
戦国時代の信濃国小県郡から上野国沼田に及ぶ国境地帯の領主。真田幸綱(幸隆)・一徳斉、(1513~1574)が武田信玄の家臣として台頭。嫡男真田信綱(1537~1575)が長篠の戦で戦死した後に、三男真田昌幸が家督を継承した。武田滅亡後は、小田原北条、徳川、上杉の3者鼎立のなか外交戦略で沼田城を死守するとともに、天正11年(1583)海士淵城(上田城)に進出し独自の検地や裁判を実施した。翌年、豊臣秀吉、上杉景勝、真田の同盟により徳川家康と戦闘状況に入り、一時沼田を北条氏と分割したが、1590年の小田原攻めの結果、沼田、上田の領有を認められ豊臣大名となった。一方繁信は大坂の陣では豊臣方に方に忠臣を誓い、徳川家康を討ち取る寸前まで丁々発しの大活躍、智恵以て策を講じて、徳川方を翻弄させ、恐れさせた。命知らずの武士の中の武士として、後世に語り継がれる所以である。一族の存続には親子二分にしてでも、家名を残す武士の宿命と刹無さを垣間見ることが出来る。
慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは嫡男真田信之が東軍に属し、昌幸・真田信繁(幸村)は西軍として上京する徳川秀忠を釘付けにした。両人は助命され高野山に蟄居したが、信之は家康の養女を妻にして、元和8年(1622)松代城に移封。嫡男真田信吉は(1593~1634)は沼田城主となったが5代目信直は沼田城を改易。真田藩は明治維新まで待つ支藩として存続した。
「後北条氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
戦国時代の武家。北条早雲、伊勢宗瑞を祖として、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模小田原城(神奈川県小田原市)を本城として関東一円に勢力を張った。早雲は今川家の家督相続をめぐる内紛を解決し、駿河興国寺城主となり、その後、堀越公方を追って伊豆を収め、ついに小田原を奪取して相模に進出、永正13年(1516)三浦氏を滅ぼし、相模一円を手中に収めた。氏綱の代には姓を伊勢から北条に改め、鎌倉幕府執権北条氏の後継と言う政治的立場を明らかにした。早雲以下5代の北条氏を鎌倉北条氏と区別し、小田原北条氏、後北条と呼ぶ氏綱以降氏康、氏政、氏直と北条氏は領国の拡大と領国経営に努め、八王子、江戸、鉢形などの支城を築いていった。5代100年にわたり伊豆及び関東に君臨したが、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに敗れ滅亡した。
「千利休の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
千利休(1522~1591)安土桃山時代の茶人、和泉国堺に生まれる。父の田中与兵衛(1540年没)は姓を千と改め、魚問屋を営み倉庫業も兼ねる納屋衆と呼ばれる豪商であった。堺の開口神社蔵「念仏差帳日記」天文4年(1535)4月28日付けの「念仏寺築地塀修理帳」に「今市町、与四郎殿」とある。利休は当時14歳で、与四郎が通称であったが、24歳頃剃髪して宗易と号した。17歳で北向道陳に、ついでその引き合わせで武野紹鴎に茶の湯を学んだ。その修得の課程で大徳寺大林宗镸に参じたとされる。35歳で師の紹鴎と死別するが、師が利休に書き与えた「紹鴎侘の文」両者の交流を伝える。そして利休が完成した。侘茶を理論化した「南方録」にも具体的に紹鴎と利休の関係が述べらえている。堺の豪商を背景として成立する茶の湯は勃興する在地武士団と軍需品の取引を含む経済活動を絡めている。利休も1568年(永禄11)入洛した織田信長との連携を強めてその茶頭となり、次の豊臣政権下では諸大名に対する秀吉との仲介役の役割を果たした。1587年の北野台茶会など秀吉の茶の湯興行で大きな役割を果たした。このことを通じて利休が政権内の地歩を得たことは茶の湯文化の全国的な浸透に決定的な効果をもたらした。そかし、秀吉政権下大陸への武力侵攻を企策し、経済的支援を博多商人に求めるようになり。利休を代表とする堺の地盤が低下していった。1591年(天正19)正月、豊臣秀長の病死をきっかけで利休の処罰が表面化し、2月13日堺に蟄居命じられた。再び上洛した利休は2月28日に聚楽第で自刃した。秀吉による利休賜死の理由は、その2年前に大徳寺山門に自分の木像を掲げたことなどが理由と思われているが、結果的に石田三成派に政策抗争に敗れたことにある思われている説もある。いずれにせよ明白な理由は解っていない。