「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「木曾義仲の群像」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍」」

2020-03-14 16:58:50 | 温故知新

「木曾義仲の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍」」

「源義仲」(木曽義仲)(1154~1184)平安後期の武将。木曽義仲とも呼ぶ。父は源義賢(?~155)母は遊女という。通称木曾冠者。1155年(久寿2)父義賢が甥の義平に武蔵国大倉館で討たれたため、2歳の義仲は乳母の夫中原兼遠に抱かれて信濃国木曽に逃れ、その庇護に下に成人。した1180年(治承4年)以仁王の令旨に呼称して挙兵、父の故地上野国に侵入するが、既に源頼朝の勢力を関東を制しているのを知って信濃に退く。義仲は奥州藤原秀衡と連絡しながら、翌年8月に平氏方の越後守城長茂を信濃国横田河原に破り、同年9月には越中国水津に平通盛軍を撃退して北陸道を掌握する。1183年(寿永2)10万にも及ぶ平氏の追討軍に対処するために、嫡子源義高(1173~1184)を頼朝の元に人質として送り、対立していた頼朝と和睦を結ぶ。同年5月越中国倶利伽羅峠の戦い、加賀国篠原の合戦で平氏を打ち破り、7月には延暦寺大衆と連携に成功し、兵士を都落ちをさせる。叔父行家とともに入洛した義仲は、平氏追討・洛中警固の院宣を得る。しかし、義仲軍は畿内での乱行をめぐって後白河法皇との溝が深まり、義仲が、水島・室山に平氏を討ちに出ているすきを見て、11月に院近臣が反義仲の兵を挙げる。義仲は急遽帰洛してこれを鎮定、法王を五条内裏に幽閉し、摂政藤原基通以下の解官、藤原師家を摂政・氏長者につけ、自らは院御厩別当となった、この戦いでの頼みの延暦寺大衆も敵に回した木曽義仲は一層孤立したたため、平氏との和睦を模索したが失敗、翌1184年(元暦元)正月、征夷代将軍に任じられた直後、頼朝が差し向けた義経らの軍に敗れ、近江国粟津で打ち取られた。

 


「歴史の回想・御館の乱」グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-03-14 16:46:15 | 温故知新


「歴史の回想・御館の乱」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
「御館の乱・御館は新潟県上越市にあった城館。かつて越後の中心地として府中あるいは府内と呼ばれていた一角、今日のJR直江津駅の西南方、関川の自然堤防上にあった中世の城館である。東西約250m・南北約300mの規模を持ち、主郭を含め5つの郭で構成されていたもので、越後では最も規模の大きな城館とされる。上野国の平井城(群馬県藤岡市)を居城としていた関東管領の上杉憲政は1551年(天文20)3月、小田原北条氏(北条氏康)が上野に侵攻したことから、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に逃れた。謙信は憲政を迎え、その居館(関東管領館)として、弘治年間(1555~58年)に居城の春日山城(上越市)の城下に建設したといわれている。謙信はこの館を外交館としても使用した。その後、御館は謙信の死後の1578年(天正6)、上杉景勝と上杉景虎の2人の養子が争った御館の乱の主戦場の一つとなった。御館の乱では景勝が春日山城を拠点としたのに対し、景虎は春日山城を脱出して御館を拠点とした。翌1579年(天正7)2月18日、景勝は御館を包囲して食糧を遮断し、3月17日に一斉攻撃を行い、御館は炎上・落城した。このとき、上杉憲政は春日山城に和議交渉に向かう途中で景勝の兵により殺害された。上杉景勝が豊臣秀吉により会津へ移封された後、この地に入った堀秀治は御館跡を利用したともいわれるが、1599年(慶長4)時点ですでに耕地になっていたといわれる。1964年(昭和39)に行われた跡地の発掘調査で、建物や庭園、井戸跡が見つかり、櫛や簪のほか鉛製の銃弾なども発見された。現在、御館跡の一部が御館公園となっている。園内には御館があったことを記した石碑が建っている。JR信越本線・北陸本線直江津駅から徒歩約10分。


「歴史の回想・嘉吉の乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍

2020-03-14 10:12:45 | 温故知新

「歴史の回想・嘉吉の乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
室町時代6代将軍「足利義教」が赤松満祐の自邸に招かれて暗殺した事件。義教は鎌倉公方足利持氏や、一色義貫、土岐持頼らの有力守護大名を圧迫する専制政治を続けるとともに山名氏、斯波氏、京極氏らの相続問題にも積極的に干渉したり、比叡山に対して弾圧を加えた。「万人恐怖」と言われた義教のこの政策は、四職家の一つ赤松氏についても例外でなく、領国の播磨・美作2か国没収の噂が流れ、実際に満祐は、機先を制して1441年(嘉吉元年)6月24日、結城合戦祝いと称して義教を自邸に招いて謀殺した。同席した管領は細川持之、斯波義康らは逃走したが、山名煕貴、京極高数、大内持世らがその場で殺された。事件後、赤松追討軍がなかなか派遣されず、満祐は自宅に火を放ち、一族を率いて領国播磨に引き上げた。その後、7月に至って、大手に細川持常、赤松貞村、武田国信、搦め手に山名持豊と一族を配した幕府追討軍が派遣された。山名軍の攻撃により9月10日に自害、子の教康は伊勢で殺害された。赤松氏の領国は播磨を山名持豊、備前・美作両国もそれぞれ山名一族に与えらえ、赤松氏は一時没落し、代わり山名氏の勢力が増大した。この政治的混乱期をついて機内に大規模など一揆が起こり、「嘉吉の土一揆」が起こり室町幕府の解体の遠因になった。


「歴史の回想・長篠の戦い」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」

2020-03-14 07:14:16 | 温故知新


「歴史の回想・長篠の戦い」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
織田信長が全国制覇の過程において徳川家康と連合して、1575年(天正3)に甲斐の戦国大名武田勝頼を三河国南設楽郡長篠(現愛知県新城市)で破った戦い。長篠の合戦という。勝頼は父信玄の喪を秘して西上作戦を続け、遠江の高天神城を陥落させ、さらに長篠城を大軍で包囲し家康に圧力を加えた。家康はこの危機を信長との同盟関係で克服しようと、勝頼は各個撃破によって戦略的優位に立とうとし、長篠城をめぐる攻防は外交戦略の舞台となった。長篠城主奥平信昌は、岡崎城の家康に窮状を伝えるため、鳥居強右衛門をひそかに城外に脱出させた。これによって家康は岐阜城の信長からの来援を受けることに成功し、3万人の大軍を率いて三河を進軍した。鳥居は帰城する途中武田方に捕らえられたが、殺される直前に来援の事実を城中に大声で伝えたために、城を持ち応えることができた。信長勢は長篠城の西方の設楽原に布陣し、柵を設けて騎馬の進入を防ぎ、その後方に鉄砲隊を3組に分けて迎え撃った。騎馬戦を得意とする武田軍勢は柵に阻まれて突入することができず、多数の死傷者を出して敗退し、甲府へ帰陣した。この戦いは、騎馬を中心とした戦法に対して、鉄砲足軽を主体とする集団戦の優位を実証したものとして、大きな意義を持っている。信長はこの翌年に安土城を築城し、天下統一に地歩を固めたが、勝頼は敗戦によって多くの家臣を失い、家康はじめとするほかの大名から攻撃を受ける勢力衰退のきっかけとなった。


歴史の回想・「上杉謙信の群像」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

2020-03-14 07:07:13 | 温故知新


「上杉謙信の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
上杉謙信(1530年~1578年)戦国時代の武将。越後守護代。関東管領。長尾為景の子。幼名虎千代。元服して平三景虎。のちの政虎、輝虎と改名。謙信は法名。1548年(天文17)守護代の兄晴景を追い落として春日山(現上越市)に入城、越後の盟主となる。1550年2月、父為景の例を倣って足利義晴から白傘袋・毛氈鞍覆の許可を得る。同年から翌1551にかけて、上田長尾家当主政景と対立し、これを屈服させる。1553年の4月、8月に、北信濃の領主村上氏・高梨氏の救援の要請を受けて信濃に出兵。川中島で武田信玄の軍勢と初めて対戦する。1555年7月、再び信濃に出兵し、川中島で武田勢と対陣した。この戦いは長陣となり、1555年(弘治元)10月今川義元の仲介で両軍とも引くが、1556年(弘治2)6月、引退を決意をするものの、政景らの説得によって撤回。同年8月守護上杉氏の財政機関である公銭方の大熊朝秀が兵を起こすが失敗して甲斐に逃亡。翌年、相模の北条氏に圧迫されて越後に逃れてきた関東管領の上杉憲政を受け入れる。1559年(永禄2)上洛し幕府から文書裏書免除、塗輿使用の特権を得る。1560年憲政とともに関東に遠征し、よく561年3月に北条氏の本拠小田原城を包囲。その間鎌倉栂岡八幡宮に参詣し、関東管領の就任を明らかにして、ここに上杉政虎と改名する。この時初めて越後の公権力を一元化に掌握する地位につく。同年、関東から越後の帰るとすぐに信濃に出陣。その報を受けた武田信玄の軍勢と9月10日に川中島の対戦した。この4回目の時、川中島の戦いは激戦となり、両軍とも大きな被害を受けた。1568年、越後揚北の有力領主本庄繁長が、震源に呼応して挙兵したが、謙信は翌年1562年2月に本所氏を外曲輪を破却。繁長が伊達輝宗、蘆名盛氏を通じて和議を申し入れたために4月に軍を引き、同氏を抑え込むことに成功した。1572年、西上を図る信玄と対戦する織田信長と同盟し、越中に出兵し越年。翌年一向一揆と和睦して富山を接収して帰国した。