「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「後醍醐帝の建武新政」アマゾン・電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALKER

2020-03-13 16:59:41 | 温故知新


「後醍醐帝の建武新政」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
後醍醐天皇(1288年~1339年)鎌倉末期から南北朝時代の天皇。1318年(文保)~1339年(暦応2・延元4)在位。後宇多天皇の第二皇子、母は藤原忠継の女談天門院忠子。諱は尊治。1308年(延慶元)花園天皇の皇太子となり、1318年即位。1321年(元亨元)12月後宇多法王の院政を廃して記録書を再興親政を開始た。吉田定房、北畠親房らを側近とし、さらに家格にとらわれず日野資朝・俊基らを積極的に登用した。生前みずからの諡号を「後醍醐」と定めていたようで、延喜・天暦の治を行った醍醐・村上天皇の治政を理想としていた。宋学を深く学び、宋朝型の君主独裁政権を目指していたとも言われている。天皇は諸政の刷新に努めたが、その実をあげるためには、皇位継承問題に容喙する鎌倉幕府の存在が障害であった。天皇は討幕の計画を練るために無礼講や宋学の購書会を開いて同氏と糾合した。しかし、この計画は事前に漏れ、1324年(正中元)9月、六波羅探題軍の急襲によって土岐頼兼、多治見国長らが殺され失敗した。天皇は、こののちも討幕の意思を変えず、子の尊雲法親王を天台座主としたり、畿内の大社寺の兵力を味方に引き入れようと努力した。日野資基を山伏に変装させ諸国の政情や武士たちの経済力を調査させた。1331年(元弘元)4月、吉田定房の密告によって、またもや討幕の計画が発覚した。鎌倉幕府は直ちに長崎高貞らを上洛させ、日野俊基、円観、文観らを逮捕した。同年8月、天皇はかろうじて京都を脱出して笠置に布陣して、近隣の土豪・野伏らに参陣を呼びかけた。しかし、幕府の大軍の前に笠置砦は旬日を経ずして陥落し、天皇は捕らえられて翌1332年3月、隠岐へと流刑になった。隠岐の配所に従ったのは阿野廉子や千種忠顕らであった。こうして討幕運動は鎮圧されたかに見えたが、同年11月頃から、吉野で護良親王が、また河内千早城で楠木正成らが挙兵すると、諸国の反幕運動が急速に展開した。諸国の悪党の蜂起によって幕府の支配機構は麻痺した間隙をぬって、1333年2月、天皇は隠岐を脱出して伯耆名和湊の海商名和長利の助けを受けて船上山に立て籠もり、朝敵追討の宣旨を諸国に発した。足利高氏は同年4月下旬に天皇に応じて反幕府の旗幟
を鮮明にし、5月7日には播磨の悪党赤松氏と協力して六波羅軍を壊滅させた。東国においても、5月8日新田義貞が上野国生品神社に挙兵し、21日には鎌倉を攻略し、幕府を倒幕させた。天皇は京都に還幸、綸旨を絶対視「朕の新儀は、未来の先例」との自負を持って政局の運営に当たった。その後中先代の乱や尊氏の西走、湊川戦、建武の乱、南北朝に分かれ戦いが繰り広げられ、後醍醐天皇は南朝を樹立し吉野に拠点に、堺浦合戦・越前「藤島の戦」など新田義貞の戦死など勢力を挽回することは出来なかった。1339年8月、義良親王に譲位し、朝敵討滅、京都奪還を遺言して吉野で病没した。






歴史の回想「鍋島氏一族の群像」アマゾン・グーグル・電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」楽天。

2020-03-13 14:57:40 | 温故知新

「鍋島氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
「鍋島氏」(なべしまうじ)
近世大名、肥前佐賀藩主の家系に連なる一族。藤原秀郷流、少弐氏の子孫とも伝えられる。14世紀末京都北野から、肥前国佐賀郡鍋島村に土着した長岡宗元に由来しる。北九州の豪族龍造寺氏の家臣として、16世紀中ごろより頭角を現す。龍造寺隆信に仕えた鍋島直茂(なおしげ)は、大友・有馬らとの抗争で戦功をあげ、1584年(天正12年)の隆信戦死後は、その子政家(まさいえ)を補佐した。一方、九州に支配を広げた。実権は鍋島直茂に移って行った。その後、龍造寺氏の家督を相続鍋島体制が確立した。本藩鍋島氏は35万7千石余、豊臣秀吉とも独自に誼を通じて、豊臣氏直轄領長崎の代官に任じられるなど重用され、朝鮮侵略に際しては、加藤清正とともに先鋒を務めた。1590年に政家が隠居するとともに、直茂はその子高房を補佐し、事実上は支配の実権を握った。さらに直茂の子勝茂(かつしげ)は、龍造寺家の断絶によってその家督を継ぎ、佐賀藩35万7千石余を名実ともに領するに至った。藩政では「佐賀の乱」で内紛と干ばつで藩内は混乱した。支藩として、小城藩(7万3千石余)、蓮池藩(5万2千石余)、鹿島藩(2万石)が分出した。明治に至り、侯爵、支藩は子爵となった。






歴史の回想「足利義満の群像」電子書籍紹介・アマゾン・角川・グーグル・楽天。

2020-03-13 09:59:31 | 温故知新


「足利義満の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
室町幕府3代将軍。1368年(応安元)~1394年(応永元)在職。2代将軍足利義詮の子。母は、石清水八幡宮社務善法寺通清の女紀良子。政所執事伊勢貞継邸で誕生。1361年(康安元)12月、南軍の入京により、赤松則祐に助けられて播磨白旗城に逃れた。1367年(貞治6)12月、義詮の死によって家督を継ぎ、よく368年(応安元)4月、元服、12月に征夷大将軍に補任された。細川頼之が補佐役になって幕政政治を指導した。1378年(永和3)3月、北小路室町光明院御所跡に造営していた新邸(室町殿)が完成した。義満は二条良基・西園寺実俊らを招いて竣工の祝いの宴を開いた。新邸の庭には鴨川の水を引き入れて池を作り、近衛家庭前の糸桜をはじめ諸家愛蔵の由緒ある花木が植えられたので、世人はこの邸を花亭とか花御所などと呼んだ。室町幕府の名も、この室町殿に由来している。1379年(康暦元)南軍の軍事行動鎮圧するために、大和に出陣中の土岐頼康、斯波義将ら有力守護菅で、幕政を壟断する管領細川頼之排斥運動が顕在化した。同年4月、反頼之派の有力守護達は花の御所を包囲し義満に頼之に罷免を迫った。義満は彼らの要求を受け入れて罷免した。この事件には義満の頼之の軌範を脱却しよう義満の思惑も多分絡んでいたのであろう。義満は斯波義将を管領に任じ、春屋妙葩を南禅寺の侍従とした。大きな課題は南北統一の名目のもとに南朝政権を完全に解体することであった。大内義弘らの仲介で南北朝合一を実現した。1394年(応永元)12月17日この義持に将軍職譲り、同月に太政大臣に叙任された。1399年10月に大内義弘が挙兵した(応仁の乱)この乱が義満が西園寺家から譲り受けた北山山荘でその造営にあたって義弘が土木事業の役を拒んだことにあったといわれる。対立は貿易で巨額な利益を経済力に「日本の国王」への道を歩み始めた大内氏が許せなかった。朝廷からも将軍と認めらえ絶頂期、北山第に碁小松天皇を招いて連日のように宴を開いていた日々を過ごす義満は突如急死し、足利幕府内は後継者も決まらないまま混乱をした。





「北条早雲の群像」電子書籍紹介。アマゾン・グーグル・角川・楽天・BOOK★WALKER電子書」

2020-03-13 09:27:09 | 温故知新

「北条早雲の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
北条早雲は室町から戦国時代の武将。小田原北条氏の祖。北条早雲は俗称で、本来の名字は伊勢氏で伊勢新九郎と称した。「早雲」早雲庵瑞の庵号、入道ののちは早雲庵宗瑞または伊勢宗瑞と称していた。実名は長氏、氏茂と伝えるが確実な資料はない。早雲の出自は備中伊勢氏設、京都伊勢氏、伊勢国出身説などがあるが、近年の研究で、備中の伊勢盛定の子盛時の後身とする説が有力視されている。伊勢盛定は、伊勢氏の一族で備中国荏原郷(現岡山県井原市)を所領した備中伊勢氏の庶子で、本宗家である京都伊勢氏の貞国の女を室とした。盛時は盛定の次男であったという。上洛して足利義視に仕え、伊勢を経て駿河今川の下に下向し、1476年(文明8)義忠没後の今川家の家督争いに姉北川殿、義忠嫡子今川氏親を支持し、小鹿範満の野望を抑え、調停に成功した。その任を果たして上洛し、1483年から1487年(長享元)将軍義尚の申次衆を務め、この間建仁寺、大徳寺の門をたたいている。1487年範満を討って氏親の家督継承を成功させ、その功により富士下方12郷を与えらえた。興国寺城主となった。1493年(明応2)伊豆に乱入したが、これは細川政元が将軍義稙を廃し、堀越公方足利政和の次男義高を擁立するクーデターと連動して行われたと考えられる。早雲は追放した足利茶々丸は、義高にとって母円満院の弟であった。その後も早雲と伊豆奪回に戦い続けて堀越公方の足利氏は滅亡した。早雲は大森氏による小田原城を攻略し、相模に進出し、両上杉家を巧みに利用し三浦氏を敗走させ岡崎城、住吉常攻めて鎌倉に入った。その後、玉縄城を築き領土を拡大し三浦親子を打ちのめして滅亡させた。相模全土を手中に収め1518年家督を嫡男氏綱に譲り、翌年8月15日韮山で没す。」


「伊達政宗の群像」アマゾン・グーグル。楽天・電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書

2020-03-13 07:47:09 | 温故知新


「伊達政宗の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書
伊達政宗(1567~1636)戦国・近世初期の武将。出羽国米沢城主、陸奥国岩出山城主を経て仙台城主。伊達輝宗(1544~1585)の長男として米沢城に生まれる。母は山形城主最上義守の娘義姫。1584年(天正12年)10月、家督を相続。政宗は幼い時、疱瘡を病み右眼を失明。のちに唐書に言われる片目の英雄である独眼竜といわれた。南奥州の征服者を目指し1589年磐梯山のふもと摺上原に蘆名義弘の軍を破り、白川氏・石川氏などを服属させ、居城を会津の黒川城に進めた。しかし、豊臣秀吉の奥州仕置で旧蘆名領は没収され米沢に戻った。さらに1591年旧葛西・大崎領12郡を与えられた代わりに本領6郡が没収され、米沢から陸奥国玉造郡岩出山に移された。その後、徳川家康に接近し、関ケ原の戦いに際し本領回復の判物を与えられたが、回復したのは苅田郡2万石の三であった。陸奥領60万国に近江領・常陸領を加えて1634年(寛永11年)仙台藩62万国が確定した。


「源義経の群像」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-03-13 07:27:20 | 温故知新


「源義経の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
源義経(1159年1189年)平安後期から鎌倉初期の武将。源義朝の九子。幼名牛若丸。母は九条院雑仕、常盤御前。平治の乱(1159年)で父義朝が敗北し、母兄たちとともに捕らえらえてが、出家を条件で一命を救われ、洛北鞍馬寺に預けられた。成長して同寺を脱出して、水から元服して九郎義経と名乗り、平氏と一定の距離をとって奥州平泉藤綿秀衡に庇護を受けた。1180年(治承4)兄頼朝が関東で挙兵すると、わずかな手勢で平泉を発ち、黄瀬川の陣で頼朝と初めて対面する。1183年、兄範頼とともに頼朝の代官になって西上。1184年(元暦元)正月、先に上洛して畿内・西国を混乱に陥れていた源義仲を近江に討ち、ついに播磨国一の谷に陣をして平氏の鵯越の奇襲をもって大きな打撃を与えた。その後、頼朝の命で洛中治安にあたったが、頼朝の許可なく朝廷から検非違使・左衛門少尉の官を得たため、頼朝の怒りを買い、平氏追討使の任を解かれた。戦況の変化を受けて翌1185年(文治元)頼朝から再び平氏追討が命じられると、2月に讃岐国屋島に陣していた平氏の背後から追い落とし、3月には長門国壇ノ浦で安徳天皇を頂く平氏一族を全滅させた。戦後処理ののち上洛したが、義経の武将として器量を恐れた頼朝は、屋島奇襲以来の梶原景時ら御家人との確執が顕在化したのを機に、景時の讒言を受け入れる形で義経の武功を否定した。義経に捕らえられた平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したが、直前の腰越で鎌倉入りを拒否され、名高い「腰越状」も受け入れられず、失意のまま帰洛した。義経はその後転々とし1187年奥州藤原秀衡の下に辿りつぐが、頼朝は奥州藤原秀衡の下に義経追討を命じ、1189年義経は藤原泰衡の奇襲を受けて衣河館で自害した。