「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「歴史の回想・天正壬午の乱」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WA」

2020-03-02 18:25:53 | 温故知新



「歴史の回想・天正壬午の乱」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WA」
「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)は、天正10年(1582年)の本能寺の変に端を発して実質的に統治者不在となった甲斐・信濃・上野で起こった戦役である。大まかには徳川家康と北条氏直の戦いとして説明されるが、上杉景勝の他、在郷の諸勢力(特に木曾義昌や真田昌幸)も加わっている広い範囲の戦役であった。「壬午」は天正10年の干支で、同時代の文書では「甲斐一乱」と呼称され、近世期には「壬午の役」「壬午ノ合戦」と呼ばれた。
天正10年6月の本能寺の変後、織田政権を離反した北条氏は織田氏による仕置が行われたばかりの旧武田領に侵攻した。これに対し、織田体制下の一大名である徳川氏が織田体制の承認のもと、討伐に当たったことによって引き起こされた紛争である。さらに上杉景勝や、真田昌幸を始めとする武田の遺臣や、地元の国人衆が復帰や勢力拡大を画策したため、情勢がより複雑化した。
大大名同士による争いは、上杉と北条の講和、及び徳川と北条の講和によって終結を迎え、景勝が信濃北部4郡を支配、甲斐と信濃は家康の切り取り次第、上野は氏直の切り取り次第という形で決着する。
家康は信濃、氏直は上野の平定を進めたが、最終的には沼田領帰属問題に端を発する真田の徳川から上杉への寝返りが発生し、真田が独立勢力として信濃国小県郡及び上野国吾妻郡・同国利根郡を支配した。結果として、上杉は北部4郡の支配を維持、徳川は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域、北条は上野南部を獲得した。真田領の問題は後の上田合戦に発展していく。
この戦によって家康は(先の駿河を含め)数ヶ月で5国を領有する大大名となり、織田氏の勢力を継承し天下人になりつつある豊臣秀吉と対峙していくこととなる。また、東国を差配する3氏の関係(徳川と北条の同盟、徳川と上杉の敵対関係)も、豊臣政権に対する東国情勢に影響を与えていくこととなる。


「蜂須賀氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WA」

2020-03-02 16:21:08 | 温故知新


「蜂須賀氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WA」
「蜂須賀氏」(はちすかうじ)安土桃山時代から江戸時代の大名。出自は、尾張国海東郡蜂須賀村(愛知県あま市)を領した土豪武士。蜂須賀小六正勝が桶狭間(おけはざま)の戦いに織田信長を助けたときから頭角を現し、豊臣秀吉をもよく助け、1  天正9年(1581)に播州龍野に封じられて大名となり、嫡子家政の子蜂須賀至鎮が慶長5年(1600)徳川家康の養女を娶って家督を相続。関ケ原の戦いに家政は西軍に与したが出陣せず、至鎮が東軍に属し、本領を保った。1600年に阿波国一円を知行された。さらに家政の嫡子至鎮が元和1年(1615)に淡路を加増されたことによって、徳島藩25余万石の大大名に列せられた。その後は忠英、光隆、綱通、綱矩、宗員、宗英、宗鎮、至央、重喜、治昭、斉昌、斉裕を経て、茂韶のとき(1869年)版籍を奉還することによって、270年続いた蜂須賀氏の阿淡両国支配に終止符が打たれた。




「北畠氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WA」

2020-03-02 14:46:39 | 温故知新


「北畠氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WA」
中世の武家。村上源氏。中院雅家(1215~1275)が京の北畠の地に住んで北畠の姓を称したのに始まる。鎌倉時代には正二位・大納言を極官とする公卿であったが、南北朝時代に北畠親房が出て後醍醐天皇の信任を受ける。その子北畠顕家・北畠顕信・北畠顕能も南朝側として活躍、顕能は伊勢国司となり、同国一志郡の多気城を本拠とする。その後も後南朝方の中心勢力になり、正長元年(1428)には北畠満雅が後亀山上皇の孫小倉宮を奉じて挙兵した。満雅は同年12月に戦死するが、室町幕府は弟北畠顕雅を赦免し一志・飯高両郡を安堵した。
これ以降、北畠氏は南伊勢、志摩、伊賀、大和に勢力を持つ大名として発展する。一族には、大河内・木造・田丸をはじめとする庶民が分立し、その勢力は伊勢中心にも及んだ。戦国時代には、伊勢の有力国人長野氏とも同盟をしたのは、天正3年(1575)にはあ信長の次男信雄が家督を継ぎ、翌年北畠具教を自殺させて事実上北畠氏は滅んだ。


「北畠氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WA」

2020-03-02 14:46:39 | 温故知新

「北畠氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WA」
中世の武家。村上源氏。中院雅家(1215~1275)が京の北畠の地に住んで北畠の姓を称したのに始まる。鎌倉時代には正二位・大納言を極官とする公卿であったが、南北朝時代に北畠親房が出て後醍醐天皇の信任を受ける。その子北畠顕家・北畠顕信・北畠顕能も南朝側として活躍、顕能は伊勢国司となり、同国一志郡の多気城を本拠とする。その後も後南朝方の中心勢力になり、正長元年(1428)には北畠満雅が後亀山上皇の孫小倉宮を奉じて挙兵した。満雅は同年12月に戦死するが、室町幕府は弟北畠顕雅を赦免し一志・飯高両郡を安堵した。
これ以降、北畠氏は南伊勢、志摩、伊賀、大和に勢力を持つ大名として発展する。一族には、大河内・木造・田丸をはじめとする庶民が分立し、その勢力は伊勢中心にも及んだ。戦国時代には、伊勢の有力国人長野氏とも同盟をしたのは、天正3年(1575)にはあ信長の次男信雄が家督を継ぎ、翌年北畠具教を自殺させて事実上北畠氏は滅んだ。

「歴史の回想・GHQ」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALKER

2020-03-02 11:34:10 | 温故知新


「歴史の回想・GHQ」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
GHQは連合国最高司令官総司令部の略称で第二次世界大戦後、日本が連合国の占領下に置かれたときの日本占領管理機関の一つであり、極東委員会およびアメリカ政府の対日占領政策の実施機関。俗称に連合国総司令部、連合国総司令部、総司令部、最高司令部などがある。昭和20年(1945)10月2日成立、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効と同時に廃止。戦後設置された米太平洋陸軍総司令部は東京有楽町の第一生命ビルを本部として何か所に分駐した。GHQは参謀本部・幕僚部から構成され、軍事的機能を果たす米太平洋陸軍の内、極東軍、総司令部と非軍事機能(民事)を果たす連合国最高司令官総司令部の二重構造になしている。すなわち幕僚部はスタッフ機能を果たし、SCAPの局長はしばしばFECの部長を兼任することもあった。参謀部(参謀課長、副参謀長、参謀長補佐=第一部長~第4部長)はライン機能を果たし最高司令官の命令は参謀長―副参謀長を経て管下部隊に伝達された。GHQ幕僚長の構成は費用に応じて存廃が決せられたが、極東軍事裁判を担当した国際検察局(1945年12月8日設立~1949年2月12日廃止)法務局財政・経済を担当した経済科学局、マスコミ、宗教、教育関係の民間情報教育局、放送、郵便、電話関係(1945年10月2日~1952年4月28日)民間通信局、立法、行政、地方自治など13局はそれぞれ設置と廃止が定めらえた。管理監督、許認可など絶大な権力行使ができるGHQ内部の部局内などで激しい対立があった。
 


「筒井氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WAL」

2020-03-02 10:33:02 | 温故知新

「筒井氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
中世の武家。興福寺成身院の家元。本拠は大和国添下郡筒井平城(現大和郡山市)代々興福寺の官符衆徒に任じ、一条院門跡の坊人となる。出自については諸説があるが、未詳。南北朝内乱末期から台頭。官符衆徒の棟梁として活躍する一方、いわゆる大和武士として、大和の制圧を目指して越智氏らと鋭く対立した。
大和にも影響力も大きい河内守護畠山氏に分裂が起きると筒井順永と兄の成身院宣(1390~1469)が畠山政長を強力に支援以降も代々政長を支持して、畠山義就流を支持する越智氏らと抗争を繰り返した。天正4年(1576)筒井順慶は織田信長から大和一国の支配を任され、郡山に築城。その後、家臣の対立でお家騒動、改易、後継者に恵まれず、不遇な戦国の世に生きたが、しかしも定次の世で理不尽にも、豊臣秀吉によって伊賀上野城に転封させられ、大坂の陣後は筒井氏は断絶した。


「歴史の回想・保元の乱」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALKER

2020-03-02 10:27:45 | 温故知新


「歴史の回想・保元の乱」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
保元の乱(保元元)京都で起こった争乱。同年7月2日の鳥羽法皇の死去を契機として、天皇家では崇徳上皇と後白河天皇の兄弟、摂関家では藤原忠実・藤原頼長の父子と忠実の長子藤原忠通の対立が激化し、朝廷は崇徳・頼長の上皇方と後白河・忠通の天皇方に分かれた。上皇方は源為義・平忠正、天皇方は平清盛・源義朝・源義康らの武士を招き、都は武力衝突の緊張が高まった。このなかにあって、天皇方は天皇の近臣藤原通憲(信西)を中心に、禁中・京中の警固を固め、忠実・頼長父子の軍兵を招集を禁じる綸旨を発した。このような天皇方の挑発に追い詰められてた上皇は、同月10日に白河北殿に武士を招集して臨戦態勢にはいる。無勢を理由に為義らは退いて東国武士の来援を待つか、内裏に夜襲を行うか2案をていあんするが、大和の武士の来援を期待する頼長に退けられた。翌日11日払晩、天皇方の軍勢が三手に分かれて九州、上皇方はあっけなく敗北した。上皇方は13日に仁和寺に投降し讃岐国に配流された。頼長は流れ矢を受けて傷つき奈良まで逃れて落命した。頼長の子らは流罪・
為義・忠正らの武士らは斬罪に処せられた。


「歴史の回想・大政奉還」電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALKER

2020-03-02 08:31:16 | 温故知新


「歴史の回想・大政奉還」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
大政奉還は慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が政権の朝廷返上を申し出、翌日勅許された政治事件。開国をめぐる外圧と激動する政局のなかで、幕府と朝廷の二元政治かのように状況を、政権一元化(政権復帰一問題)で克服しようとする動き、文久期(1861~1864)に顕在化し、1853年3月と1864年(元治元年)4月の2度にわたる朝廷から幕府への庶政委任んお確認がなされた。それは幕朝関係から朝幕関係への変化を示した。この朝廷(天皇)と結びついて幕府に対抗しようとする西南雄藩討幕派と幕府との対立は、慶応期(1865~1868)には決定的となる当時西南雄藩の背後にはイギリスが幕府側にはフランスがいた。「公議政体論」国際勢力の動向と絡む討幕派の武力倒幕路線と幕府の政治路線の間に公議政体論が登場する。これは諸侯会議を中心とした幕府体制の改編で、上下議員など欧米の議会制度などで色揚げされた体制構想であった。土佐藩主山内容堂や越前藩主松平春嶽らはこの構想で調整を図ろうとした。前者は武力倒幕を目指す討幕派を抑え、後者は幕府内部強硬論者に押し切られないようにしようとしていた。土佐藩の公議政体論の背景には坂本龍馬の「船中八策」などにみられる政治構想を、つまり政治の実権を朝廷に移し、諸侯は会議を上院として、下院には各藩の人材を登用し、この上に上下義政局中心として統一国家の体制を整えようとした計画があった。坂本との構想に賛同した土佐藩土佐藩の後藤象二郎が山内容堂に説き、容堂が受け入れた。後藤は藩主の名で大政奉還建白書を老中板倉勝静を通じて将軍に提出した。将軍慶喜はこれを受け入れて、1867年10月13日から14日にかけて幕府の有史及び在京の諸藩の重臣を二条城に集めて問い、13日の夜に側近の洋学者西周に三権分立やイギリスの議会制について聞き、西は翌日ヨーロッパ近代統一国家の制度について手記を提出したとされる。14日慶喜は大政奉還を朝廷に申し出た。15日に勅許。これを同じくして「討幕の密勅」(薩摩藩主あての13日分、長州藩しゅあての14日)を討幕派は入手した。これは公議政体派と討幕派とが、それぞれ情報を入手していたからに他ならない。両派は交錯していたのである。





「歴史の回想・黒船来航」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALKER

2020-03-02 05:53:49 | 温故知新


「歴史の回想・黒船来航」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
黒船は江戸時代にかけて来航したヨーロッパの木造航洋船、いわゆる南蛮背のこと。船体が黒いタールを塗装した船で黒船と呼んだ。その後日本も技術を取り入れ輸入したりして保有はしていたが、当時の南蛮船はカラック、ガレオンなど大航海時代の主力となった。外洋を航行する堅牢で頑丈な船体作りになっていて、ペリー艦隊四集は蒸気船と帆装船各二隻で強引に鎖国の日本に開国を迫った。目的は捕鯨で鯨油を目当てに寄港できる開港を求めて交渉したがうまく進まず、大砲の空砲で驚かせ交渉しようとしたが国内事情で成立しなかった。何よりアメリカの思惑はヨーロッパ諸国の植民地化に出遅れて焦りがあった。アメリカ合衆のアジア市場への進出に産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大を急いでいたが、のちにそれは熾烈な植民地獲得競争となる。市場拡大競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は出遅れていた。当時の人口は、アメリカ合衆が1833年に約1416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2760万人であった。アメリカは1833年にシャムとマスカットとの条約を締結することにようやく成功した。1835年には日本と清との条約締結のために特使を派遣することとし、このときに東インド艦隊が設立されている。この試みは成功しなかったが、アヘン戦争後の1842年に清との間に望厦条約を締結し、中国市場へ進出することとなる。この条約の批准のために東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが清に派遣されるが、ビドルは日本との条約交渉の任務もおびていた。このため、1846年に浦賀に来航するが、条約を結ぶことはできなかった。


「歴史の回想・世界金融恐慌」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALKER

2020-03-02 05:51:11 | 温故知新

「歴史の回想・世界金融恐慌」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
世界恐慌の最中に旧平価金解禁(金本位制復帰{と緊縮財政によって引き起こされた深刻な経済恐慌。明治末期に行き詰った日本経済は第一次大戦中の輸出激増で一躍債権国となったが、重化学工業化もすすんだ。戦後ブームの反動で1920年(大正9年)恐慌に陥り、さらに1922年の銀行恐慌、翌年の関東大震災で、戦中に族生した成金企業は大打撃を受け、その都度政府、日銀の特別融資で延命を図った。巨額の不良債権を抱えた鈴木商店と機関銀行化した台湾銀行は、景気回復を阻害する「財界の癌」とみなされ、その整理が不可壁となった。震災後には38ドル(旧平価は100円=49ドル8分の7)に暴落、救済政策は限界に達した。1927年(昭和2年)若槻礼次郎・憲政会内閣は国庫、日銀負担による鈴木・台銀整理法案を上程したが、政商救済と非難する野党、枢密院の拒否によって内閣瓦解、銀行が破綻休業した。代わった田中義一政友会内閣(高橋是清)は整理法案を成立させ3週間のモラリトアム)支払い猶予令を実施、金融パニックも沈静化した。フランスが1928年に平価を切り下げて金本位制復帰し、金解禁確実と予期された円は内外投資家の投機の標的となった。政財界、論壇を上げて旧平価解禁の声は高まった。「東洋経済新報」主幹の石橋湛山ら4名のジャーナリストと少数の財界人が新平価解禁(平価切下げ)論で対抗し、金解禁は政争の中心となった。「金解禁は景気回復の世直し」と謳った浜口雄幸・民政党内閣(井上準之助蔵相)が1929年7月に成立、翌年1月旧平価での金解禁を実施、緊縮財政を強行した。