「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「歴史の回想・天誅組」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALK」

2020-03-03 19:49:42 | 温故知新


「歴史の回想・天誅組」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
文久3年(1863)に尊王攘夷派の激派が大和に挙兵した事件。天誅組とも書く。大和五条の変ともいう。1863年は尊攘派が京都朝廷を制し、8月に孝明天皇の大和行幸が決定した。これを契機に、尊攘派の激派、土佐の吉村虎太郎、元刈谷藩士、松本奎堂、備前の藤本鉄石らは天誅組を結成し、中山忠能の七男の中山忠光を擁して8月14日に大和に挙兵し、河内の庄屋らも参加した。幕府の五条代官所を襲撃して、代官ら殺害し、同町に本陣を置き、五条を朝廷領とし年貢半減を布告した。しかし、八月十八日の政変により尊攘派が京都から追放され、大和行幸が取りやめになった。天誅組は十津川郷士1000余人に糾合し、8月26日高取城を攻撃した。ここで高取藩兵に敗れ、十津川郷士も離反したため、吉野から河内へ脱出を図った。途中の大和国吉野郡鷲口で彦根・津・和歌山の諸藩に敗北し9月25日に壊滅した。藤本・松本・吉村らは戦死し、中山ら7名が長州藩大坂藩邸に逃げた。


​​​​​​​「歴史の回想・天狗党の乱」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALK」

2020-03-03 17:53:18 | 温故知新

​​​​​​​「歴史の回想・天狗党の乱」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
「幕末末期の元治元年(1864)水戸藩尊攘激派による筑波山挙兵とその後の騒乱事件。「天狗」とは、新参軽格の士が多い天保改革派にたいして反改革派が用いた蔑称で、譜代門閥の者には鼻高々の成り上がり者に映ったのだろう。一方、改革派は反改革派を「好物」と呼んだ。天狗党の主流は安政期頃から尊攘派として活動。安政5年(1858)前藩主徳川斉昭らの謹慎処分撤回を求める運動を展開したが、翌年戊午の密勅の取り扱いに巡って過激派と慎重派に分裂し。過激は天狗党につながり、鎮派の大方は弘道館書生や門閥派と結合し反天狗の諸生党を結び、両党は熾烈な武力闘争を生み出した。激派から桜田門外の変の関係者が出ている。1864年3月藤田小四郎、竹内百太郎、新治郡安食村の豪農で郷士らは各地の郷校に駐屯する同志を誘い、町奉行田丸稲之衛門を首領にして攘夷を旗印に筑波山に挙兵し、挙兵時は数百人に過ぎなかったが、各地から有志が参集し、一時1000人余りになった。天狗党は北関東を各地を横行し、追討軍と緒戦は優勢であった。だが次第に皇太子、藩内事情に起因する諸生党との抗争に縮小していった。10月那珂湊の戦いに敗れた一党は、元家老の武田耕雲斉を総裁にして、京都にいる一橋慶喜を頼り朝廷に真意を伝えるべく西上。一党は、下野、上野、信濃、飛騨の各地で追討軍と戦いながら、進んだが12月20日越前新保で加賀藩823人が降伏。翌年2月には敦賀で耕雲斉・小四郎ら352人が斬られ、そのほかも遠島、追放などに処せられた。しかしその後も両党の抗争は終わらず、明治元年1868年の弘道館の戦いに諸生党が実質的に滅びるまで続いた。


「井伊氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALK」

2020-03-03 16:30:06 | 温故知新

「井伊氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
江戸時代の普代大名。遠江国引佐郡井伊谷(現、静岡引佐町井伊谷)を本貫地とする氏族。藤原冬嗣の末裔とする氏族、藤原共資が平安時代後期に遠江守に任じられ敷知郡村櫛に来往、その子、共保が井伊谷に住み井伊氏を称したとする。「吾妻鏡」などに「井伊介」として記されるのがその子孫とみられるが、鎌倉時代以降、多くの分家を発生。江戸時代の井伊氏につながる一派は、室町期に遠江守護斯波氏の配下にあり勢力をもった井伊直貞・直秀・直幸らで渋川を拠点とした井伊氏が滅亡したのちに台頭。歴史上、井伊谷の井伊氏の活動が具体的になるのには、戦国時代に今川氏に仕えた直平以降で、直宗、直盛は今川氏に従軍し戦死。直盛の養子直親は家臣小野氏の讒言により今川氏により謀殺され、家督を女子の治郎法師直虎が継ぎ、直親の幼子虎松(直政)は親類の新野親矩らによりかくまわれた。のち井伊直政が浜松で徳川家康に取りたてられ井伊氏を再興。直政は家康の関東入部の際は家臣中再興の12万石を与えられた。関ケ原戦い後に、近江国佐和山城に配置され西国の押さえとなる。
直政没後、彦根城を築いた嫡男井伊直継(1590~1662)は家中を取りまとめられず、家康の命令により大坂冬の陣後、彦根藩の家督を異母弟井伊直孝に譲り、上野国安中藩3万石に、後に西尾、掛川・与板藩の転封に分置された。宗家の彦根藩井伊家は普代大名の筆頭大名で、常に幕政の中枢にあり、井伊直弼ら5人の大老を出している。



「歴史の回想・維新十傑獅子奮迅」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALK」

2020-03-03 14:34:11 | 温故知新

「歴史の回想・維新十傑獅子奮迅」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
維新の十傑(いしんのじっけつ)は、1884年3月刊、山脇之人『維新元勲十傑論』において、倒幕・明治維新に尽力した、志士のうち幕臣以外の10人を指す。また、このうち特に枢要な3人を「維新の三傑」と称する。小御所会議を経て王政復古の大号令を達成し、明治維新の新政府発足時の中心人物であり、各藩を代表する人物という点でも共通している。明治新政府に協力した有名な幕臣として、大久保一翁や山岡鉄舟、勝海舟等があり、他にも箱館戦争を戦ったのちに政府に協力した榎本武揚、武田斐三郎、大鳥圭介らがいるが、維新前に討幕に動かなかったことから含めない。藩閥の中で、十傑から洩れているのは土佐藩士だが、賞典禄は後藤象二郎と板垣退助の1,000石が最高位である。特に、大村益次郎については一時は「維新の三傑」に割って入ろうかという評価で、横井小楠も維新樹立を打ち立てた思想家として高い評価を得ている。明治政府内では大久保利通と江藤新平は政敵として知られ、佐賀の乱を鎮圧した大久保が江藤の首を梟首したことでも垣間見える。なお、この10人のうち岩倉具視を除く9人は、明治11年の紀尾井坂の変までに4人が暗殺され、2人が病死、2人が刑死、1人が戦死している。そして明治16年には残った岩倉具視が咽頭癌により死去する。十傑が去った後に明治政府を主導していったのは、伊藤博文や山県有朋、井上馨といった長州藩の元老である。
なお、金澤正造の著書『維新十傑傳』(1941年)では、明治以後の政治家とは別に、幕末期に維新へと至るまでに導いた主な革命家10名に、吉田松陰、頼三樹三郎、有村次左衛門、高橋多一郎、清河八郎、伴林光平、平野国臣、佐久間象山、高杉晋作、坂本龍馬を挙げた。明治になるまで活躍した吉田松陰や坂本竜馬、中岡慎太郎は当然維新十傑に入っても不思議ではない。少なくとも没後、彼らの活躍や足跡、文献をを掘り起こし、世に知らしめた、歴史研究家や小説家の努力の賜物だと思われ、若くして没した高杉晋作など日本人の維新の立役者に思えるのも、偉大なる先駆者の運命かも知れない


「長屋王の陰謀と失脚」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALK」

2020-03-03 11:02:54 | 温故知新


「長屋王の陰謀と失脚」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
長屋王(684~729)
奈良時代の王族官人。天武天皇の孫。高市皇子の子。母は天智天皇の娘御名部皇女とみられる。妻は吉備内親王,石川夫人,安倍大刀自など。慶雲1(704)年,無位から正四位へ昇進し,以後宮内卿,式部卿,大納言を歴任。藤原不比等没後の養老5(721)年右大臣,神亀1(724)年2月,聖武天皇が即位すると正二位左大臣となり,王族政治家として政界を主導するとともに,有力な皇位継承候補者でもあったとみられる。聖武が母藤原宮子の称号を大夫人とする勅を出したことに対し,同年3月,大宝令では「皇太夫人」とあるべきで,勅と令のいずれをとるべきかと奏言した結果,聖武は勅を撤回し,書くときは皇太夫人,いうときは大御祖とすると改めた。同6年2月,国家を傾けようとしていると密告され,糺問を受け自尽。吉備内親王および子の膳夫王,桑田王,葛木王,鉤取王らも自殺(長屋王の変)。夫妻は生駒山に葬られた。この事件は,光明子を聖武の皇后にしようとした藤原氏による企てとみられている。時に46歳とする所伝と54歳説とがある。和銅5(712)年文武天皇の死を悼み,また神亀5年父母,天皇などのため,それぞれ大般若経600巻を書写させた。 その宅は佐保の地にあり,佐保宅,作宝楼などと称され,しばしば宴が催され,王自身のものも含めそこで詠まれた多くの漢詩が『懐風藻』にみえる。また『万葉集』にも王の歌が収められている。『唐大和上東征伝』によると,唐の鑑真が日本への渡来を決意したのは,王が仏法を崇敬し,1000の袈裟を作り唐僧に施したことに感じたためという。近年奈良市内の平城京左京三条二坊に当たる地のうちの4坪(古代の土地区画)分,約6万m2を占める邸宅跡から「長屋親王宮鮑 大 贄十編」と記す木簡をはじめ,約3万6000点の木簡が出土し,そこに王邸があったことが判明した。木簡には吉備内親王,石川夫人,安倍大刀自などの王の妻をはじめとする王の一族の名が多くみえる。また写経にかかわる書法模人,書写人,帙師や医者,僧尼のほかに,鍛冶,鋳物師,画師などの技術者や帳内(親王,内親王に与えられる従者),少子らの従者,山背御田,耳梨御田,大庭御薗,都祁氷室などの所領の存在がわかった。ただし佐保宅とこの邸宅跡の異同については議論がある。奈良県平群町に長屋王夫妻の墓と伝える2基の円墳がある。


「保科氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」

2020-03-03 08:28:29 | 温故知新


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中世から近世の武家。平安末期に信濃国高井郡保科に発祥。養和元年(1181)横田河原の合戦で、保科権八が越後平氏方に、保科太郎が源義仲方に属した。その後、御家人になり、承久の乱に活躍した。中先代の乱では北条時行方の大将として船山守護所を攻撃した。室町時代には高井郡河田に保科長光・長経・信光、伊那郡藤沢に高遠諏訪継宗の代官として保科家親・貞親らが活躍。高遠諏訪氏が武田信玄に滅ぼされると、武田家臣だった保科正俊・正直らが台頭、徳川家康の下で大名化し、下総多古に移った。正光の代に高遠藩主となり将軍秀忠の子幸松を養育した。正之は出羽20万石から会津藩主となり、正直の三男正貞は上総飯野藩主になった。京都守護職就任し保科氏から「松平容〇」の改姓をするが、自身は保科氏として振る舞い、幕政の要職を求められる大名に変化していった。その見返りに優遇されたが、幕末には長州征伐に動員される。


「南部氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」

2020-03-03 06:55:53 | 温故知新


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平安末期以来の武家。甲斐国巨摩郡南部郷を名字の地とした清和源氏加賀美遠光三男の南部光行を始祖とする。鎌倉期には、御家人として陸奥、但馬その他各地に所領を与えられ、また得宗御内人となった一族もいた。甲斐南部は室町期まで確認できるが、著名なのは、日本最北、最大の郡であり駿馬の産地として知られている陸奥国糖部郡に依存した奥州南部氏である。一戸から九戸まで郡内区画を各々名字とし、南北朝には八戸、室町・戦国期には三戸の南部信直は豊臣秀吉から糖部、岩手、鹿角、閉伊、斯波、久慈、遠野の七郡を安堵、さらに稗貫、和賀の二群を加えられ、近世の盛岡藩・八戸藩・七戸藩の祖となった。


「歴史の回想・紀州征伐」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WA」

2020-03-03 06:38:14 | 温故知新


「歴史の回想・紀州征伐」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WA」
紀州攻めは当初織田信長が始め、天下統一志半ばで本能寺の変であ結光秀の謀反んで横死、代わって羽柴秀吉が紀州の諸勢力を平定した合戦(紀州平定)戦国末期の紀州北部では高野山、粉河寺、根来寺、雑賀一揆が地域の勢力を構成し、本能寺の変後、秀吉との対立先鋭化させていた。1585年(天正13年)3月21日、秀吉は10万の大軍を率いて大坂城を出発。その日のうちに紀州勢の防衛線の中心戦国彫城を経汽船の末落城させている。23日、秀吉軍が根来寺に進むと。何の抵抗もなく、その夜は根来寺の大半が焼亡した。翌日は雑賀衆一揆が解体され、粉河寺も焼亡した。4月22日、水攻めにされた太田城が開城、この間に、高野山を武装化解除の上降伏させた。かた、紀州南部の国人湯川直春を追放し、堀内氏善を服属させた。紀州攻めの圧勝で、秀吉による全国統一は大きく前進することになった。