「歴史の回想・石山合戦」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
石山合戦は本願寺に率いられた諸国の門徒が織田信長と対決して、1570年(元亀元年)~1580年(天正8年)まで行った戦い。一向一揆の一つ。石山は当時大坂にあった本願寺の、寺地所在地の地名と伝承されている。本願寺が足利義昭・信長の新政権を警戒し、教団を護るため、信長と対立する諸勢力と結んだことが合戦の大きな原因である。戦いは第一期から四期まで区分ができる。①1570年の戦いで、旧将軍足利栄を擁立した三好三人衆の一派に本願寺が味方した戦い。足利義昭を擁して入京した織田信長に追われる三好三人衆は義栄死去後も、六角・朝倉と結んで義昭政権に抵抗を続け、野田・福島に進出した。これを撃破すべく出陣をした義昭・信長の軍勢に対して本願寺は挙兵した。これとともに浅井・朝倉勢が比叡山と結んで京都をうかがい、近江織田勢を攻撃の、信長は苦境に陥り、義昭の斡旋により浅井・朝倉と和睦した。②1571年(元亀2年)~1573年(天正元年)まで。和睦は破れ、信長は浅井・朝倉と抗争を再開。近江門徒は浅井・六角を支え、越前門徒は朝倉を支えて戦った。やがて義昭は信長と対立、義昭は武田信玄を味方につけて信長の同盟を断行し蜂起した。しかし信長の攻撃に屈して和睦。義昭は信玄の病死後再び放棄するもはブレ、京都を追われた。浅井・朝倉も相次いで滅ぼされ、本願寺は信長に和睦を請い承認された。③1574年~1575年まで。義昭は京都を追われた後も幕府を再興を意図して抵抗をし続け、本願寺はこれにこたえて蜂起、また朝倉滅亡後織田方の支配する越前門徒が蜂起し、一国を制圧。信長は軍勢を大坂にはけんして本願寺を攻撃する一方、自ら門徒の拠点伊勢中島を攻撃し、立てこもる門徒を大虐殺し手一揆を壊滅させた。さらに翌年越前に大軍で攻め込み、一揆勢を全滅させた。本願寺は和睦請い、信長も承認した。
④最後は1576~1580年まで、毛利氏に扶助された義昭は、諸国の大名に幕府再興を呼びかけた。毛利・上杉・武田が呼応して籠城し、諸国の門徒が兵士を送ったり、武器・金銭・兵糧を送るなど戦いを支えた。信長は軍勢を大坂に派遣、5年にわたる石山籠城戦始まった。しかし上杉謙信の死去や、当初優勢だった毛利の水軍の敗北などもあり、本願寺をめぐる戦況は悪化した。この状況のなかで信長は天皇に本願寺と和睦を願い出、天皇の斡旋によって本願寺顕如は信長に寺地を引き渡して1580年4月に退去した。これに反対した顕如の嫡子教如は義昭と結び抵抗を続行しようとしたがならず、4か月後8月に大坂の寺地を退去した。この戦いの結果、織田政権と本願寺教団とが強固になり、以後豊臣政権になっても関係は引き継がれた。
「今川義元の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
今川義元(1519年~1560年)東海地方の戦国大名・三河守。父は今川氏親。母は中御門宣院の娘。幼少時に駿河善得寺に入り、その後一時、京都建仁寺や妙心寺で修業を重ね、歌人三条西実隆や連歌師宗牧とも関わった。1536年(天文5)兄氏輝は没すると、家督をめぐる異母兄玄広恵探と争いこれを打ち勝ち、家督を継ぎ今川義元と名乗った。翌年、武田信虎の女との婚姻により甲駿同盟を結んだが、それまでの関係にあった北条氏と敵対し、以降富士川以東の支配をめぐり1545年まで抗争する(河東一乱)その一方で松平広忠の支援、織田信秀との交戦を通じて東三河の有力国人戸田氏を制圧、1546年に吉田城を三河侵攻拠点とした。ついに1549年に岡崎城を占領し、さらに織田氏の支城となっていた安祥城を奪取し、その際、織田氏との人質交換で松平竹千代(家康)を駿府城に迎えた。その後弘治年間1555年~1558年までに三河の領国化ほぼ成功した、今川氏は戦国大名のとして全盛期を迎える。この全盛期の背景に領国東域の政治的安定を意図して、1554年まで婚姻関係に介する北条・武田氏との同盟(甲相駿同盟)があったが、それとともに、検地の実施、貫高制の採用、家臣団編成。寺社統制、農、商、職人政策、交通路・伝馬政策、鉱山開発など多数に渡る今川仮名目録を定めた。1560年三河守に任官後、駿遠三の兵を持って尾張に侵入したが同年5月19日、桶狭間の戦で織田信長の急襲を受けて戦死した。
「伊能忠敬の足跡」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
伊能忠敬(1745年~1818年)江戸後期の測量家。洋学の科学的な理論に基ずき沿岸の実地測量から精密な日本地図「大日本沿岸輿地全図」伊能図、を作成した。上総国山辺郡小関家に出生。幼名を三治郎と称した。母の亡き後、婿養子の父の実家であった武佐郡小堤村の神保家に移り、その後1762年(法暦12)18才の時、下総国佐原村の豪家であった伊能三郎衛門家に入り婿し忠敬と名乗る。そこでは酒造や地主経営のほか、米穀・薪の取引、店貸、金融、運送業などの諸営業を展開して家産を拡大した。また村役人として天明の飢饉状況の中で、貧民の救済活動を行ったり、利根川の洪水対策に尽力を尽くした。その功績をたたえられ領主旗本から名字帯刀を許され、三人扶持を給せられて士分格となった。1794年(寛政6)家督を譲り、通称を勘解由と改めた。翌年江戸深川黒江町に居を移し、幕府天文方の高橋至時に師事し、自宅に施設を整えて天体観測を継続した。そして1800年幕府の命を受けて蝦夷地の測量に入り、以後17年間10次にわたり日本国中の沿岸を実施測量をした。その測量の距離は4万キロ以上に及び、3種の方位盤によって約6万回の方位が行われた。「伊能図」の精密さは、庶地点で天体観測による緯度測定のほかに、精巧な器具を作成し、在来の測地技術をもって驚異的な頻度で実測したことによってもたらされた。この測量の様子は伊能図とともに幕府に献上された。
「三浦氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
相模国三浦郡を拠点とした中世の武家。平安後期から竈く時代に活躍し、鎌倉幕府の有力な御家人となって、三浦党、三浦輩などと呼ばれた。桓武平氏良文流または良正流を出自とする。前九年・後三年の役以降の、保元・平治の乱などを通じて、源氏との主従関係強め、平安末期には相模国の有力在庁官人として衣笠城を拠点に勢力を拡大した。義明の時に「三浦大介」と称した。一族を挙げて源頼朝の挙兵に強力、幕府樹立後は北条氏と共に、有力御家人の双璧とされた。和田・大多和、多々良、長井、佐原の諸氏は三浦一族の一族として著名。三浦義澄、三浦義村そして三浦泰村と隆盛を迎え、相模を始め河内、紀伊、讃岐、土佐各国の守護職を占め、幕府に有っては評定衆に任じられ、宿老的存在とされた。宝治元年(1247)執権北条時頼に挑発されて挙兵、惣領家は泰村以下一族が滅亡(宝治合戦)。その後、三浦氏の主流派佐原義連の孫盛時に継承されたが、時継の時に継承されたが、時継の時に中先代の乱で北条時行に属したため衰退。三浦義同の時には一時的に勢力が拡大したが、永正13年(1516)北条早雲(伊勢宗瑞)に滅ぼされた。