「藤堂高虎の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
「藤堂高虎」(1556年~163年)近世大名。藤堂氏初代。高虎の次男、母は多賀氏。幼名右与吉、通称楊衛門。近江国犬上郡藤堂村を本貫とする。はじめは浅井氏に仕え、同氏滅亡後は織田信長に属し、後に大和郡山城主の豊臣秀長の重臣となる。秀長の下で山奉行として活躍し、彼の没後は豊臣秀吉に仕え伊予7万石、関ケ原では徳川家康に属して同国今治20万石、1608年(慶長13年)には伊賀一国・中部伊勢22万950石を領有する(津藩)大坂の陣で恩賞として1615年(元和元)に5万石を、さらに1617年には5万3000石を加増された。大坂城包囲のために築城(天下普請)を中心的に関与した。また東照宮の造営や徳川秀忠娘東福門院の入内などにも尽力した。
「武田信玄の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
武田信玄(1521年1573年)甲斐の戦国大名。武田信虎の長男。通称は太郎。名は将軍足利義晴の偏諱をうけて武田晴信、出家して信玄と号した。官途受領は、大膳大夫、信濃守。はじめ扇谷上杉朝興の女としたが早世したため、1536年(天文5)京都の公家三条公頼の女を性質に迎えた。1541年6月、父武田信虎が今が義元に嫁いだ自分の女に会いに行ったとき、甲斐・駿河の国境を閉鎖し父を追放自ら武田氏を継いだ。その翌年には信濃を侵略して諏訪頼重を攻め、偽って講和したうえで頼重を殺害した。その後、頼重の女を側室に迎え、この側室との間に後に家督を継ぐ武田勝頼が生まれている。1547年「甲州法度之次第」26か条を制定して領国支配の規範としたが翌年2月14日、信濃上田原戦いで村上義清と戦って敗れ、かつて、同じ年、塩尻峠・勝弦峠の戦で小笠原長時を破り、信濃進出を確実なものにした。越後の上杉謙信とは前後5回戦い、同時に背後の安全を保つため、相模の北条氏康と同盟を結び、女を氏康に嫁がせている。1561年(永禄4)の第4次川中島の戦が、5回の中で一番厳しい戦いとなり、信玄の弟信繁が討ち死に。そのあと、信玄は「北進策」をあきらめ「南進策」転じ、駿河の今中氏真を攻略、その過程で、氏真の妹をめとっていた嫡男義信を自刃に追い込んだ。1568年、駿河を奪取、ついて遠江に進出して徳川家康と敵対する石山本願寺と結んで天下統一を進める信長に対する包囲網を強めていった。1572年(元亀元)2万5000の大軍を率いて遠江に侵入三方ヶ原で家康を破り、さらに西に進んで病が悪化し、翌年甲斐に兵を戻す途中、信濃の駒場で没した。死因はこれまでは労咳、すなわち肺炎(結核)とされてきたが、最近の研究では胃がんとする説が有力である。
「明応の政変」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
明応の政変は1493年(明応2年)細川政元が将軍足利義稙を廃位した政治クーデター。前年2度目の六角氏討伐を終えて近江から帰京した義稙は、この年の2月畠山基家を討つため河内に出陣した。しかしこれに反対した政元は、義稙の廃位と基家誅伐の首謀者である畠山政長の追放を図り、4月被官上原元秀らに命じて、義稙や政長の邸宅を破却、当時天竜寺の喝食であった香厳院清晃(足利政知)の次男、後の義澄を新将軍に擁立した。5月政長は自殺、義稙は龍安寺に幽閉された。事件の背景には将軍の親裁権強化を目指す奉行人・奉公衆と、それを阻止し畿内政権樹立をもくろむ細川氏との、幕府内での主導権をめぐる対立があった。
「島津義久の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
「島津義久」(1533年~1611年)戦国大名、島津家16代、島津隆久の長男。幼名虎寿丸、通称又三郎、はじめ忠良。1552年(天文21)将軍足利義輝より諱を賜り義辰と称し、後に義久に改名。1566年(永禄9)家督を継ぐ。1577年(天正5)伊東義祐を破り、薩摩・大隅・日向を統一。1585年弟義弘を守護代として九州統一を進めたが、豊臣秀吉の九州平定にあい、1587年5月、剃髪して竜伯と号し降伏した。関ヶ原の戦後、徳川方と折衝し、1602年(慶長7)4月家康より薩摩・大隅・日向緒県郡の本領を安堵された。