「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「歴史の回想・文久の政変」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALK」

2020-03-07 17:29:14 | 温故知新

「歴史の回想・文久の政変」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
「文久の政変」は「八月十八日の政変」とも言う。幕末末期、公武合体派が中心とする尊攘派を京都から追放した事件。文久3年(1863)前半期には長州藩と結んだ尊攘派が国事参政~・国事寄人を制し、賀茂社・男山行幸の実現、攘夷期日の布告などで京都の政局を左右した。8月には攘夷親政~大和行幸によって幕府を追い詰めようとしていた。このため公武合体派会津藩、薩摩藩などの雄藩、幕府、上層公家は中川宮(朝彦親王)らを中心として朝廷制圧をひそかに計画した8月18日の深夜、中川宮、京都守護職松平容保、所司代稲葉正邦らと公武合体派の上層公家らが参内し、会津・淀・薩摩藩の兵が御所警備につき、在京藩主が参内に招かれた。攘夷親征の延期、三条実美ら尊攘派公家の排除、国事寄人および親兵の廃止、長州藩の京都から排除、長州藩士の御所出入り禁止などが発令された。朝廷の実権は公武合体派に移り、三条ら七卿と長州藩兵1000余名は19日の晩に京都を退去し、再挙を期して長州へと向かった。いわゆる七卿落である。この政変後、公武合体派の諸侯と幕府、上層公家らは京都の実権を握るが、孝明天皇は攘夷を支持した以前の言を真意ではないと発言して権威を失墜し、発足した公武合体諸侯の参予会議も外交方針をめぐって紛糾し事態は逆転した。


「山名氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALK」

2020-03-07 16:20:03 | 温故知新

「山名氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
南北朝から室町時代の武家。清和源氏。新田義重の子義範が上野国山名郷に住したことに始まる。室町時代は侍所所司を出す家格(四職)となった。山名時氏のとき、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の五カ国の守護職を幕府に認められたからは、幕府における地位が上昇、山名氏一族の領国は一二カ国(山城の守護職を含む)にのぼり、日本六十六州の六分の一を占めることから「六分の一殿」と呼ばれた。山名氏の勢力に危惧を抱く将軍足利義満は明徳元年(1390)一族の名有分に介入、翌年、明徳の乱にかくだいした。乱により山名氏清らが敗死し、山名一族の領国は但馬。伯耆・因幡の三カ国のみとなった。応永六年1399)の応永の乱で大内義弘が滅ぼされると、安芸国に満氏が守護として入部する。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱に際して、山名宗全(持豊)が赤松満祐追討の功により、赤松領国にすると訴台に勢力を回復し、細川氏と並ぶ守護大名になった。応仁。文明の乱では持豊は西軍の主将になる。この乱以降、戦国時代を通じて山名氏は後退していった。天正八年(1580)に但馬の出石城を豊臣秀吉に攻めらえて、山名氏の宗家は滅亡した。しかし,庶家の山名豊国が徳川家康から但馬七味郡に6700石知行を与えらえ、以降幕末に至る。


「大友氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALK」

2020-03-07 11:43:36 | 温故知新

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相模国足柄上郡大友郷を本拠とする中世九州の武家。相模国古庄の郷司近藤能成と波多野(大友)経家の娘との間に生まれ、源頼朝の家臣中原親能の養子となった。大友能直を初代としする。
能直以降、中世を通じて豊後国守護職を保有。能直と2代親秀の庶子らは、各各地頭職を得て豊後を中心に下向土着した。惣領家も、3代大友頼泰(1222~1300)のとき蒙古来襲に供えるために下向し、豊後高田府に守護所を定めた。6代貞宗(?~1334)は、少弐貞経と共謀して鎮西探題赤橋英時を滅ぼした。南北朝には基本的に足利方に属し、在地領主層には家督継承を廻り大友親綱、または16代大友政親(1444~1496)と17代大友義右(1484~1496)などの間で内紛が生じるが、戦国期に入っても20代義鑑が家督問題で、家臣に襲撃され死亡している。それを「大友二階崩れの変」。子の21歳の大友義鎮(大友宗麟)の代には豊後・筑後・肥後・豊前・筑前の6各国の守護職と九州探題職を獲得し、全盛期を築くが、島津藩との軋轢が深く耳川合戦で大敗し、高城合戦でも大敗し衰退してった。また藩主の大友宗麟はキリシタン大名で有名、家臣団との間で反キリシタン派との対立内紛を抱えていた。22代大友義統は豊臣秀吉から豊後一国を安堵されるが、文禄の役で苦境に有った小西行長を助けなかったため秀吉に怒りを買い、徐封された。滅亡するが、子孫は江戸幕府の高家となる。


「森氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-07 11:34:06 | 温故知新


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森氏は美作国の津山藩主であったが、その祖の源流は清和源氏と言う。その後美濃国の土豪で、戦国時代には土岐氏に仕えたが、その滅亡後は斎藤・織田氏の家臣となった。森長可の代に信濃国海津城主となるが、小牧・長久手の戦に戦死したために、森忠政が家督を継ぎ金山城主となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康から海津城(松代城)を与えられが、関ケ原の戦いでの功により美作一国を与えられ、津山藩18万6000石城主となったが改易となった。理由に4代目長成に後継者がなく、衆利を養子としたが、乱心したため断絶となった。その後、幕府は長継に備中国西江原万石を与えて森家の再興を許し、長直の代に播磨国赤穂城2万石藩主に移され廃藩まで存続した。領地の分与を受けていた森長俊、関長治は、本家断絶後それぞれ播磨国三日月城、備中中国新見藩に移され、廃藩まで存続した。


「井原西鶴と近松門左衛門」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・

2020-03-07 08:01:34 | 温故知新

「井原西鶴と近松門左衛門」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
「井原西鶴と近松門左衛門は浪速で活躍した文学者で少し趣が違うが浄瑠璃などの劇作家として、また年齢的にも西鶴が11歳年上で互いに相手を意識し丁々発止の浪速の演劇興行を競い合ったようだ。
井原西鶴は江戸時代前期の俳諧師、浮世草子作者。大坂人。出自、家系図等不詳。伊藤梅宇の「見聞談叢」(1738年)によれば本名平山藤五。大坂の裕福な町人の弟子であったが、家業を手代に譲り自由気ままに暮らし諸国を遊歴する傍ら俳諧、浮世絵草子等の文筆に従事したという。自ら記して1656年(明暦2)15歳の頃から俳諧を学び、21歳のときには点者として独立したいという。俳号は鶴氷。はじめ貞門俳諧を学んだらしいが、のちに談林は俳諧の祖西山宗因に師事した。1673年(延宝元)32歳のとき大坂生玉において「生玉万句」を興行「阿蘭陀流」とされる軽妙奇抜な軽口・狂句の俳諧を天下に呼号した。この年冬に西鶴と号した。1675年4月3日妻没す。あとに3人の幼児が残された。悲嘆にくれた西鶴は追善のために「俳諧独吟一日千句」を手向けた。西鶴はこの年の内に法休し、家業を手代に譲ったものこの頃とであろうと考えられている。速吟を得意とした西鶴1677年は、生玉本覚寺一夜1600句を独吟「西鶴俳諧大句数」矢数俳諧を創始し1680年生玉南坊にて4000句「大矢数」1684年(貞享元)には住吉神社において2万3500句の独吟を達成している。1682年(天和2)処女作「好色一代男」を刊行し、新風を巻き起こした西鶴は以後浮世絵草子に転じて数々の作品を残した。好色物「緒艶大鑑」「好色一代女」「男色大鑑」武家物「武道伝来記」「武家義理物語」「新可笑記」雑話物に「世間胸算用」など数々の多彩な作品を書き残した。1693年8月10日没。享年52才。大坂誓願寺の墓門人北条団水、下山鶴平によって建立された。亡くなった時には西鶴の一家は離散していたらしく家庭的には不遇な障害であったと考えられる。
「近松門左衛門」(1653年~1724年)江戸時代の劇作家。本名は杉森信盛。越前国吉江藩士信義の次男。出自については諸説はあるが、現段階では福井が確実視されている。1667年(寛文7)頃、父が浪人して上京したため一家とともにこれに従い、やがて一条恵観などの公家に奉公し、この時期に文学的教養を身に着け、また芸能とも親しむようになったと思われる。演劇の世界に入った時期は不明であるが、最古の確実作は1683年(天和3)宇治座上演の浄瑠璃「世継曽我」で近松は当時京都の人形浄瑠璃界で活躍していた宇治加賀掾の下で修業し、すでに20代後半頃には執筆していたと考えられる。1685年(貞享2)大坂竹本座初演「出世景清」は近松が竹本義太夫のために書き下ろした最初の浄瑠璃であり、登場人物の人間性が豊かに描かれた名作であり高く評価され、後年この作品以前の浄瑠璃を「古浄瑠璃」と呼ぶ習慣が生まれ



「新田義貞の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALKER

2020-03-07 07:43:42 | 温故知新


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新田義貞(1301年~1338年)鎌倉末から南北朝の武将。上野国。御家人。通称小太郎。父は朝氏。1333年(正慶2)本領新田壮世良田に駐屯する幕府微調税使紀親連を捕縛し、5月8日に討幕の挙兵をした。売却地に天役を賦課されたのが反逆の契機と思われるが、各地の反駁勢力に推されて22日に鎌倉幕府を滅亡させた。その後、足利尊氏派との権力争いに敗れて京都に移り、後醍醐天皇に接近して、建武政権下、越後守・播磨介・近衛中将・武者初頭人となり、天皇が寵愛した勾当内侍を下げ渡される。建武政権の崩壊後。後醍醐から反尊氏の総大将に仕立て上げられるが、1335年(建武2)箱根竹之下の戦、翌年1336年赤松攻めに湊川の戦、東寺合戦に悉く
敗北。同年10月後醍醐が大館氏明・江田行義(新田一族)と謀って義貞を見捨てて京都足利尊氏と和睦をしようとしたため、事前に察知した義貞は洞院実世らと謀って比叡山山上で後醍醐を包囲。恒良親王にへの攘夷を迫り、実世、恒良親王らとともに北陸敦賀に去り態勢の挽回を図った。しかし翌1337年3月、本拠金崎城は足利勢に責められて落城し、恒良は捕縛され京都で毒殺された。義貞はその後、醍醐の南朝に復したらしいが一進一退の攻防のなかで1338年(暦応元)藤島の灯明寺畷で戦死した(藤島の戦)


「赤松氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALK」

2020-03-07 06:40:04 | 温故知新


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南北朝から室町時代の武家。播磨守護大名で、室町幕府四職家の一つ、始祖は村上源氏の末流で、播磨国佐用荘赤松村に土着して赤松氏を称し、鎌倉初期に則景が同荘地頭職に補されたと言われる。正慶2年元弘3年(1333)赤松則村が護良親王の令旨を受け六波羅探題を攻略(元弘の変)。南北朝期は足利尊氏方として活躍し、一族の内、則村が播磨、赤松範資が摂津、貞範が美作守護に補された。則村は後は赤松則祐が家督を継ぎ、備前守護を兼ねる。その子義則は侍所頭人となり、四職家の人として勢力を拡大するが、義則の子、赤松満祐が嘉吉元年(1441)に将軍足利義教を殺害し(嘉吉の乱)幕府の追討軍に討伐を受け、赤松惣領家は一時滅亡する。長禄2年(1458)赤松氏の遺臣が南朝から神璽を奪還し、赤松政則に家督を再興が許される。応仁・文明の乱では東軍に属し、播磨、備前、美作の領国を回復。政則の養嗣子義村が守護代浦上村宗に殺害されて以降衰退し、その後、則房が豊臣秀吉に仕え但馬武田1万石を領するが、関ケ原の戦いで西軍に属し滅亡した。


「歴史の回想・中先代の乱」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALK」

2020-03-07 06:35:17 | 温故知新

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北条高時の子、北条時行が1335年(建武2年)7月、建武政権に対抗して東国で起こした反乱。乱名は北条氏を先代、足利氏を後代、時行を中先代と称したことによる。同月初旬信濃の諏訪頼重ら北条旧臣が時行を擁して挙兵、鎌倉将軍府を運営していた足利直義を破り、鎌倉を占拠した。直義は拘禁中の護良親王を殺害を指示し、成良親王とともに鎌倉を退去したが、8月19日京都から下ってきた足利尊氏の軍勢鎌倉を奪回、時行は逃亡した。この反乱は鎌倉幕府と関係の深かった西園寺公宗の京都における建武政権転覆計画と絡み、北条残党の反乱の内で最も大規模で影響も大きかった。乱の鎮定後、尊氏は鎌倉で武家政権の債権の構想を練った。だが死んだはず時行が生きて再び挙兵し鎌倉を奪還した。それが後北条氏だという噂が未だ残っている。誰も時行の最期を知る者はいないという。