「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「浅井長政の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WAL」

2020-03-18 19:32:48 | 温故知新

「浅井長政の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
浅井長政(1545年~1573年)北近江の戦国大名。足久政の子。名ははじめ賢政。備前守を称す。南近江の戦国大名六角氏の重臣平井定武の娘と結婚したが、六角の下に立つことを嫌って離縁して、1560年(永禄3)の野良田表の戦いで六角氏を破った。1567年、織田信長が美濃平定すると、信長の妹お市の方と結婚して信長と同盟関係を形成させた。浅井氏は、初代浅井亮政の時から越前朝倉氏とのつながりが強く、1570年(元亀元)4月、信長が朝倉氏を攻めたときは、信長との同盟を破棄。同年6月の姉川の戦いで、長政は小谷城に籠城する形になり、1573年(天正元)信長方に攻められて落城、自刃した。お市の方と3人の娘(茶々・淀殿)発、小督は城を出たが、嫡男万福丸は木下秀吉によって殺され、浅井氏は断絶した。


歴史の回想「蒲生氏郷の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-18 18:56:35 | 温故知新

「蒲生氏郷の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
蒲生氏郷(1556年~1595年)安土桃山時代の武将。蒲生氏。近江日野城主、伊勢亀山・松ヶ島城主、会津若松城主。近江六角氏家臣日野城主蒲生賢秀の第一子よして生まれる。幼名鶴千代、幼名教秀、賦秀、通称忠三郎。1568年(永禄11)織田信長に降伏した賢秀の人質として美濃国岐阜に差し出される。その後岐阜城にて元服。1569年信長の娘を娶り日野に帰還する。以後信長に従って多くの戦功をあげる一方、1582年(天正10)には城下町日野に対して12か条の掟をだして経済発展を図っている。信長の死後の翌年1583年には羽柴秀吉と結んで滝川一益を攻めて、その戦功をみとられ伊勢亀山城を与えられ、またこの年飛騨守に任じられた。1584年小牧・長久手の戦の功により南伊勢に12万石を与えられて松が城に移る。よく588年には紀州攻めや越中の佐々木成政攻撃に従軍した。1586年侍従、1587年の急襲攻めで軍勲をあげ羽柴姓賜る。1588年正四位下左近少将となり松坂城に移る。1590年小田原攻めの後会津黒川42万石の転封、1592年(文禄元)若松と改め城下町を整備を進めた。同年文禄の役には肥前名護屋城に出陣した。なお、早くから洗礼を受けて、天正年中ローマに施設を派遣したという説もある。


歴史の回想「九州探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介。楽天・グーグル・角川電子書籍BOOK★WALKER電書籍

2020-03-18 16:31:38 | 温故知新


「九州探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍BOOK★WALKER電書籍
「はじめに」九州探題は室地幕府が九州の軍事統率の為設置した機関。鎌倉幕府が設置した鎮西探題と区別をする。実質的九州探題の任に始めて着いたのは一色範氏であった。子の直氏の九州下向後は直氏が探題になり、父子一体となって経営をした。恩王の遊覧の一時期、足利直冬鎮西探題に就任したが、間もなく九州の地を離れた。康元元年(1361)には藩氏・直氏の後任として斯波氏経が九州に下向したが、征西将軍宮の全盛期時代であった。任務遂行に出来ないまま2年後に帰京し、その後任渋川義行はついに九州に入ることが出来なかった。このような状況の中、
1、今川貞世であった。貞世は応安4年(1371)から応永2年(1395)に解任されるまで25年間九州経営に当たった。北朝方勢力確立に当たり、その後九州探題は北朝勢力が確立し、九州探題は渋川氏によって世襲されたが、在地勢力に圧倒され、九州全体が行使することが出来なくなっていった。




歴史の回想「北条得宗家の群像」アマゾン電子書籍紹介・楽天・グーグル・角川電子書籍。

2020-03-18 12:58:09 | 温故知新


「北条得宗家の群像」アマゾン電子書籍紹介・角川電子書籍。
「北条執権政治」鎌倉時代,源氏滅後130年間執権北条氏が幕府の実権を握り幕政を左右した体制。源頼朝の死後,北条時政は娘の政子とともに実権の掌握を意図し,将軍頼家の外祖父比企能員を建仁3(1203)に滅亡させ,実朝を将軍として,政所別当となったが,嫡子義時と対立して元久2年(1205)失脚した。これに代って義時が政所別当となり,建保1年 (1213)には和田義盛を滅ぼして侍所別当をも兼任し幕府の実権を握った。同7年,実朝が暗殺されて源氏の正統が絶え,承久の乱 (1221) にも圧倒的勝利で三上皇を隠岐、佐渡、土佐に流して逆賊となって権力をほしいままにした。義時の死後,執権職は嫡子の泰時が継ぎ,以後執権職は北条氏によって世襲されるようになった。泰時は,執権の補佐役として連署の制を始め,嘉禄1年 (1225) 年には評定衆を新設して,重要政務を評議させ,貞永1年 (1232)『御成敗式目』を制定し,執権政治の基礎を固めた。泰時の死後,執権職は経時が引継ぎ,経時がわずか4年で病死したのち,時頼が跡を継いだが,時頼は,幕府中枢機関を北条氏の嫡統の当主である得宗 (とくそう) を中心とする北条氏一門で独占することを意図した。寛元4年(1246)北条時頼が執権となったころから執権政治は変質し始める。時頼は、北条一門の不満分子である名越氏、有力御家人三浦氏、摂家将軍頼経・頼嗣ら反対勢力を次々に排除した。さらに院政を行う上皇(治天(ちてん)の君(きみ))や天皇の決定、摂関の人選をはじめ、朝廷の政治にも干渉した。時頼は執権を退いてのちも得宗として実権を握り、幕府権力の根源は執権よりも得宗に置かれるようになった。元弘3年・正慶2年(1333)後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する。4月に高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って、5月7日に六波羅探題を攻略。同月8日、関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。18日に新田軍が鎌倉へ侵攻すると、22日に高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃した。享年30(満29歳)。



歴史の回想「鳩摩羅什と玄奘」アマゾン電子電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川電子書籍。

2020-03-18 12:16:13 | 温故知新

「鳩摩羅什と玄奘」アマゾン電子電子書籍紹介。角川電子書籍。
1、仏教伝来と翻訳に鳩摩羅什と玄宗三蔵無しでは語ることも、日本や中国・朝鮮半島にも伝わらなかったであろう。鳩摩羅什は西暦344~413年に西域のクチャ亀茲(きじ)国出身の大翻訳し僧。サンスクリット名クマーラジーバ「くまらじゅ」ともいう。羅什と略称されることもある。生没年は通説に従えば前期の通り350~409年という新設もある。いづれにせよ4世紀から5世紀初頭にかけて活躍した天才的学僧である。鳩摩羅什の西域における名声は中国に及んでいたので,前奏王苻堅は382年(建元18年)クチャ国を攻略倉中を虜にした。十数年間涼洲に滞在した後に、401年後秦の都長安に迎えられた。後奏王佻興は国師として迎えられ、西明閣および逍遥園で訳経に従事させた。長安における鳩摩羅什の訳経と興和は中国仏教を大乗仏教に方向づけるうえで決定的な役割を果たした。彼が翻訳した主な経論は『大品般若経』『金剛般若経』『妙法蓮華経』『維摩経』『阿弥陀経』など大乗仏教仏典「大智度論」『中論』『百論』『十二門論』『成実論』など戒律文献がある。中でも特に力を傾注したのは、大乗の空思想の的確な把握とその宣揚であった。中国仏教の龍樹系の中観思想を始めて紹介し、インド大乗仏教の正系と直結させたのは鳩摩羅什とその門下生であった。廬山の慧遠の質問に答えた『大乗仏教義章』には彼の国家によって手厚く保護された鳩摩羅什の仏教学の腐敗の兆しがなかった訳でもない。鳩摩羅什は自ら泥中に蓮華に喩、華のみを取って泥の濁りに染まるなど事を諫めた。鳩摩羅什の門下生は三千人と称されたが、とりわけ僧肇、僧叡、道生、道融は四哲として有名であった。三論、成実、天台などの中国の諸宗がのちに開かれる基礎が鳩摩羅什一門によって準備等、用意されていた。鳩摩羅什は唐代の玄奘と並ぶ大訳経僧であり、訳経史上に旧訳時代という一時期を期したと言える。
一方、大翻訳僧は玄奘(602~664)中国、唐代の仏教学者、大旅行家、俊て著名な、法相宗開創の祖。本名は禕。俗名陳氏。三蔵法師の名で知られる。洛州で602年(仁寿2年)ただし600年説もの有る。父慧の四男として誕生。幼くして敏、つねに古典を親しんでいた兄長捷につき、の洛陽の浄土寺に住し、614年(大行10)度僧の勅に応じ、人選の大理卿鄭善果にその才能を認められて出家。以降も浄土寺に留まり、景法師に厳法師にその才能を認められ師から『涅槃経』や『摂大乗論』を学ぶ。618年(武徳1年)兄に勧められて、洛陽から長安に移り、荘厳寺に住したが、政変直後の長安仏教界に失望し、翌年、兄と共に蜀に向かい成都に至る。622年具足戒を受けてのち、各地の高僧を訪ね、翌年再び長安に戻り、大覚寺に住して道岳法師より『具舎論』を学び、624年、法常と僧弁の『摂大乗論』の講演に列し、両氏から大威にその将来を嘱望されたが、この頃より国内における仏教研究に限界を感じ、諸宗の疑問の解明のためにインドに留学を決意し、その準備に専念する。国外出立の公式許可を得ることが出来なかったが、627年秋8月意を決して密かに長安を出発し、天山南麓を経由して、



歴史の回想「平清盛の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALKER

2020-03-18 11:32:57 | 温故知新



「平清盛の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

平清盛(1118年~1181年)平安後期の武将。最初の武家政権の樹立者。刑部卿平忠盛の嫡子、実は白河法皇院の落胤。母は白河法皇の身辺の女性で、懐妊後忠盛の妻として下賜され、1118年(元永元)1月18日に生まれたのが清盛である。これに関して母を祇園の女御もしくは彼女を妹とする伝承があるが、根拠がない。居館が六波羅にあり、武家として初めて太政大臣従1位に昇ったので、六波羅殿、六波羅入道・平相国・平禅門などと呼ばれた。清盛は祖父正盛・父忠盛が院の近習として、また院政の武力的支柱として政界に地歩を築いたのを受けて、発展させた。保元の乱では後白河天皇方として勝利に導いた、乱後は藤原通憲(信西)と組んで勢力を伸張。平治の乱では源義朝らを破り、その後は圧倒的な軍事力を背景に、中央の政局を左右する政治勢力に成長した。清盛は、二条天皇親政派と後白河上皇方の対立のなかを巧みに遊泳。1160年(永暦元)の参議正三位を手始めに急速な官位の昇進を果たした。1160年(仁安元)内大臣、翌年1167年2月には太政大臣に進み、平氏は後白河院を従属的に同盟しながら国家権力掌握した。清盛は同年2月に病により出家し家督を重盛に譲るが、以後摂津福原に有って影響力を行使し続けた。清盛室の妹慈子を母にする高倉天皇が即位し、1171年(承安元)には清盛の娘徳子が天皇の後宮に入り、平家は摂関家にも接近、清盛の娘盛子を近衛基実に嫁がせ、基実が早世すると摂関家領を事実上押し領した。治承年間(1177~1181)には鹿ケ谷事件、重盛の死後による没収などで、院と対立した。高倉天皇が譲位、徳子が産んだ安徳天皇が即位し、清盛はついに外祖父になった。1180年以仁王の挙兵以来源氏が挙兵すると、平家は福原に遷都し失敗し、平家の立て直し図ったが、2月には病に倒れ、4日に死去した。


歴史の回想「六波羅探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川電子書籍。

2020-03-18 11:07:36 | 温故知新

「六波羅探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍。
鎌倉時代、京都の六波羅に置かれた鎌倉幕府の出張機関もしくは機関の長。承久3年(1221)の承久の乱に際し、幕府軍の大将である北条泰時と北条時房は、六波羅の館に拠点を置いた。この六波羅の館は、乱以前から存在した。この六波羅の館は乱以前より存在し北条氏の館と思われる。泰時と時房は乱後も引き続きこの六波羅館に留まり、乱後の処理や公家政権との交渉に当たった。これを持って六波羅探題の成立と見なされている。以後、原則として二人の探題が任命されたが、前期を通じて北条氏によって占められていた。北条氏の中でも泰時の弟重時の極楽寺流など、とりわけ北条嫡流(得宗家)に忠実な庶流から選ばれることがあかった。二名の探題は、その宿所の位置によって各各北方、南方と呼ばれたが、南方が任命されず北方一名のみ在職することもあった。六波羅探題の主な職務は、京都周辺の治安維持と、西国の訴訟審理であった。京都周辺の治安維持は探題家来の中から選ばれ、検断頭人が責任者となり、居と常駐の御家人在京人や京都大番役衆、探題被官が指揮して行われた。訴訟機関としては独立性は低かった。身分的には探題と同格の御家人であり、探題個人とは職制の上では上下関係にあるに過ぎなかった。足利尊氏らの攻撃を受けた際には探題と行動を共にしたのは被官のみであった。





歴史の回想「前9年・後3年の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川電子書籍。

2020-03-18 06:56:26 | 温故知新


「前9年・後3年の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍。
前九年・後三年の役は平安後期に陸奥国で起こった俘囚(ふしゅう)長安倍氏の反乱。この反乱に関与して収拾に当たったのが源頼義と嫡男の義家(八幡太郎)である。安倍氏は服属した蝦夷の居住地である臆六郡(陸奥国衣川関以北の胆沢・江差・和賀・稗貫・紫波・岩手の諸郡)の郡司であったが、頼良の頃六郡以南の国司支配地にも進出した。子のために永承六年(一〇五一)陸奥国守藤原登任は秋田城介平重成とともに頼良を攻撃するが逆に大敗を被った。そこで朝廷の武名名高い源頼義を陸奥守に任命をする一方、上東門院彰子の重病治癒を祈願による大赦で頼良を許したために、頼良は頼義に服属し安倍頼時と改名した。頼義の任期満了の直前の天喜4年(10569権守藤原説貞の子息らが襲撃を受けた際、頼義は説貞の申し出に犯人をより頼時の嫡子安倍貞任と断定し、安部氏追討を命じた。この事件は頼義、もしくは在庁官人の陰謀とする説が多い。しかし在庁官人の相互の対立から藤原経清が安倍側に走るなど、頼義側の足並みがそろわず、翌年7月、頼時を討ったものの、11月に黄海の戦で貞任に惨敗しる。以降安部氏は陸奥を支配し、国内の官物の大半を奪取した。頼義は再三朝廷に諸国の武士・兵糧の支援を要請したが実現せず、雌伏を余儀なくされた。頼義の重任の任期が終わる康平5年(1062)出羽の俘囚清原光頼・武則が頼義の勧誘に応じて武則は一万騎を率いて来援した。これを迎えた頼義の軍は3000騎であったという。以降、頼義武則側をは安部氏を圧倒し御厨川の柵で貞任・経清を討ち取った。乱後は、朝廷から頼義は伊予守、長子義家には出羽守、武則には従五位上鎮守府将軍に任じられた。清原氏は奥羽に勢力を伸長させた。
後三年の役は、平安後期奥部地方で発生した戦乱。永保3年(1083)に豪族清原氏の嫡流真衡が養子業衡の婚儀を行おうとした際に、真衡の驕慢な態度に怒った一族は吉彦秀武が挙兵し、さらに真衡の異母弟にあたる清原家衡や藤原経清の子で家衡も呼応した。背景には、嫡流の地位強化に対す


歴史の回想「六角氏の群像」アマゾン電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川電子書籍。

2020-03-18 06:52:12 | 温故知新

「六角氏の群像」アマゾン電子書籍紹介・角川電子書籍。
近江国の守護、戦国大名。宇多源氏佐々木氏。鎌倉中期、泰綱の代に京都の六角堂に居を構えたことから六角氏を名乗る。南北朝時代から室町時代に、同族の京極氏と近江を二分して南6郡(滋賀、栗太、野洲、蒲生、神崎の守護職を得る。京極氏と佐々木氏惣領を争うなど、一族の内紛が続き、さらに朽木氏などの自立性の強い同族・奉公衆や馬淵氏ら有力国人層と対立するなど、領国支配は困難を極めた。文安年間(1444~1449)には満綱・持綱父子が家臣の反乱により自刃している。その後、六角高瀬は隣接する京都の室町幕府と対立、長享・延徳年間(1487~1492)に2度にわたる将軍親征をしのぎ、守護代伊庭氏の反乱を抑えて戦国大名の基礎を作った。その子、六角定頼が全盛期を作り、幕府政治にも積極的に関与したが、永禄6年(1563)重臣後藤父子の殺害を契機に家臣が離反し(観音寺騒動)衰退。1567年には六角氏式目を制定したが、翌年織田信長に敗れ没落した。


歴史の回想「島津氏一族の群像」アマゾン・角川・グーグル・楽天。電子書籍紹介。

2020-03-18 06:38:36 | 温故知新


「島津氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
鎌倉時代より江戸時代に至るまで南九州の大名家。島津藩主,始祖島津忠久は惟宗姓を名乗り、摂関家近衛家の家司であった。
比企氏との縁で源頼朝に重用され、近衛家領島津荘の総地頭に任じられた。
建仁3年(1203)の比企氏の乱で薩摩一国守護・地頭に留まったが、鎌倉幕府の滅亡後は、大隅の守護職に任じられ回復した。
南北朝時代島津貞久は三男島津師久に大隅の守護職を譲った。前者師久は官位上総介から総州家と呼ばれ、後者氏久の官職が陸奥守で奥州家と呼ばれた。日向三国守護職を有し、鹿児島清水城を本拠とした。忠国以降の一族の反乱、国一揆に苦しみ忠昌は天文5年(1535)国外に退去し自殺した。その後養子となった相州家、島津忠良の子島津貴久が三州の統一を推進し、その子島津義久から島津義弘は伊東・大友・相良・龍造寺氏らを破って九州一円に勢力を拡大した。天正15年(1600)豊臣秀吉の侵攻によって屈服し、薩摩・大隅・日向諸県などが安堵された。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に属し、徳川幕府の制裁を巧みに領土を保全することに成功した。江戸時代末の幕末には薩摩藩は重要な役割を果たした。