「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「歴史の回想・日露戦争」アマゾン・電子電子紹介・グーグル・楽天・角川電子書籍・

2020-03-21 08:50:03 | 温故知新


「歴史の回想・日露戦争」アマゾン電子電子。紹介・角川電子書籍・
日露戦争は韓国(朝鮮)と満州(中国東北地域)との支配権をめぐって日本と帝政ロシアとが行った戦争。明治37年(1904)2月8日に始まり、7明治37年(1905)9月5日に終結した。「東アジアをめぐる情勢」日清戦争では日本は清国の勢力を朝鮮半島から追い、支配圏の拡大を図ったが、大国ロシアとの対立に直面し、ロシアの挑戦に対する政治的・軍事的・経済的影響力は日本を凌いだ。一方、19世紀末期から申告に対する欧米列強の分割競争が本格化していった。朝鮮の支配権争いも清国を中心舞台とした東アジア全体の列強による分割競争の一環に組み込まれてていった。これに対して深刻では1900年に義和団運動という大規模な反侵略の民衆蜂起が起こり、日本も含めて列強8か国の連合軍を送って鎮圧戦争を遂行した。とりわけ大軍を満州地域に送り込んだロシア鎮圧後もこの地域に居座り、事実上の占拠支配下に置いた。日本では、この状態に挑戦支配権の大きな危機感を募らせ「満韓交換論」でロシア一時的妥協を行い衝突を回避しようとする主張も現れたが、1902年日英同盟を結んでロシアとの全面対決の方向次第に強めた。特に1903年以降、ロシアが満州から撤兵を履行しなかったので、それを求めて強硬な外交交渉を開始したが、日露双方が互いに軍事力を強化、誇示しつつ行った交渉は決裂した。「戦争の経過」戦争は、1904年2月8日の日本陸軍の仁川上陸と旅順港外での日本艦隊のロシア艦隊の攻撃と翌日の仁川沖でのロシア艦隊との戦闘に始まり、宣戦布告は2月10日に行われた。第一軍が朝鮮北部からロシア撃退して満州地域に攻め込むととともに、5月には第2軍が遼東半島に上陸、さらに第4軍が第1軍と第2軍が遼東半島に上陸した。この間、海軍は旅順港の閉塞作戦を遂行して日本海の制海権確保を図ったが目的を達しえず、旅順要塞を陸上から攻撃するために第3軍が送られた。第1・2・4軍は呼応そて北上し、8,9月の遼陽会戦に勝利し、以降、沙河、黒溝台などで苦戦しまがら、奉天へと軍を進めた。他方、第3軍の旅順攻撃は強固なロシア軍の近代要塞に膨大な犠牲を強いられたが、ようやく1905年1月に占拠し、ロシア軍の旅順艦隊を壊滅させた。3月に陸軍は総力を上げて奉天会戦を行い、かろうじて占領したが、戦線は鉄嶺付近に移った。この時、日本の武器・兵力、その他は補給力は限界に達していた。ロシアはバルチック艦隊を1904年10月に本国から送り出し、ウラジオストクの艦隊と合流させて日本海の制海権の奪還に目指しなたが、5月27,28日の対馬海域での回線で日本の連合艦隊に敗北した。「講和」これ以上は戦争の継続は国力の限界を超えていたので、日本は奉天会戦と日本海海戦とを契機にアメリカに講和の斡旋を強く依頼した。他方、ロシアも1905年1月の革命運動の高揚依頼、その政治体制は大きく揺らいでいたし、欧米列強も帝政ロシアの崩壊を恐れて講和へと動いた。その結果、I、ローズベルト大統領の斡旋によってポーツマス講和会議が開かれ、9月5日に日露講和平和条約が結ばれた。


「歴史の回想・二・二六事件」アマゾン・グーグル・楽天・電子電子。角川電子書籍・

2020-03-21 08:47:51 | 温故知新

「歴史の回想・二・二六事件」アマゾン電子電子。角川電子書籍・
二・二六事件は昭和一一年(1936)早朝、東京で起こった陸軍の反乱事件。陸軍第一師団下の歩兵第一・第三連隊を主力とした将校20名、下士官88名、兵1375名などが総理大臣岡田啓介、内務大臣斎藤実(即死)大蔵大臣高橋是清(即死)教育総監渡辺錠太郎(即死)らを急襲、さらに別動隊は神奈川県湯が原町で前内大臣牧野伸顕を急激した。蜂起部隊は永田町・三宅坂一帯を占拠し、政治の中枢機能は完全に麻痺した。収集を急ぐ陸軍大臣川島義之は宮中の協議の結果、この日の午後3時30分「陸軍大臣告示」を決起舞台に下達した。そこのは「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノと認ム」と記され、状況は決起部隊に有利に展開したかに見えた。しかし、翌27日午前8時50分、東京市には戒厳令が施行され、28日午前5時8分には「反乱軍」の原隊復帰を命ずる「奉勅命令」が下された。この状況転回には、重臣の殺害に激怒し、自ら近衛師団を率いて討伐するとさえ言った昭和天皇の強い意思が働いていた。事態は杉山元参謀総長と石原莞爾作戦課長を中心に鎮圧に向けて動くが「紅軍相撃」の危機も切迫、これを回避するため「下士官、兵に告ぐ」というラジオ放送が流され、帰順を勧めるビラがまかれた。こうして29日の午後、反乱軍は帰順し事件が終結した。同年3月4日「一審制、上告なし、非公開、弁護人なし」の特設陸軍軍法会議が設置され。7月5日には死刑17人を含む判決が出された。また翌年8月には村中孝次、磯部浅一、とともに思想的指導者として北一輝、西田税が処刑された。この事件の背後には、権力の掌握によって「高度国防国家」の次元を目指す統制派幕僚と「君側の奸」を排除した「一君万民」の理念の実現(昭和維新)を目指す皇道派青年将校との、国家構想をめぐる二重の対立が含まれていた。その意味で、反乱軍の鎮圧は軍幕僚の主導権の確立を意味し、以後、軍部は政治的発言を増し、戦争への道を突入していった。


歴史の回想「山名宗全の群像」アマゾン・グーグル・楽天・・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

2020-03-21 06:17:03 | 温故知新

「山名宗全の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
山名宗全(持豊)(1404年~1473年)室町中期の武将。幕府侍所頭人。但馬等の守護。法名宗全。官途は左衛門佐・右衛門督・弾正少弼。山名時煕の次男。1431年(永享3)兄持煕が将軍足利義教の勘気に触れて廃嫡されたあと、1433年父から家督を譲られる。但馬・備後・安芸・伊賀の4か国の守護に就任、1435年父の死により山名氏一族の惣領を継ぐ。1440年6月以前に侍所頭人と山城守護になり、1441年(嘉吉元)7月頃まで在任。同年嘉吉の乱では搦め手軍の総大将として播磨に進撃し、赤松満祐を自刃させた。この功により赤松氏の旧領国播磨は持豊に、備前・美作も山名一族に与えらえた。山名氏併せて9か国の守護となって管領家細川一族の8か国を凌ぐに至った。その後持豊の娘を細川勝元の室とし、細川氏と提携してきた。1450年(享徳3)赤松則尚が勝元らを頼って赦免されたことに強く反発したため、将軍足利義教から追放されようとしたが、持豊が隠居家督を嫡子教豊に譲って事なきを得た。しかし1458年(長禄2)赤松政則が同じく勝元に頼ってきて赦免されるに至って、持豊と勝元の対立が決定的になった。伊勢貞親と季瓊真蘂が足利義視暗殺を図った文正の政変ではなお両者は同調したが、畠山・斯波家の家督争い勝元に対抗できる畠山義就・斯波義康を引き立てた、将軍家の後継争いでも足利義尚を支持した
ことから、ついに応仁文明の乱に突入した。開戦当初、持豊を総師とする西軍は押され気味であったが、大内政弘のらの参戦で盛り返し東西対抗でや義視や南朝の後胤を西軍迎えたり名分をとした、しかし戦線は膠着状態に入り、1472年(文明4)持豊から康和を提案したものの実現を見ないまま翌年3月18日に持豊は京都の陣中で没した。






「歴史の回想・西南戦争」電子書籍紹介・アマゾン・角川・グーグル・楽天・電子電子。角川電子書籍・

2020-03-21 06:11:58 | 温故知新

「歴史の回想・西南戦争」アマゾン電子電子。角川電子書籍・
「明治10年(1877)鹿児島私学校士族を中核に結集し・決起した西郷隆盛を擁して起こした反政府の士族反乱、国内で最後の内戦、大久保利通は征韓論をきっかけとした明治6年の政変後に内務卿に就任していた、事実上ナンバーワンの位置に立った。大久保は政府は学制、徴兵制、地租改正など近代化政策として対士族政策閉じて廃刀令と金禄公債の支給を断行したのであるが、これが士族特権のすべてを奪うこととなったもので事実で、一部士族層は反発を急激に強めた。とくに鹿児島では西郷の下野とともに帰鹿した私学校の党城士族層の反発が、県令大山綱良と結んで憲政を牛耳り政府の反目した。西郷の生活ぶりに対して誇張され伝えられ、士族の反政府の感情を煽った。熊本神風隊の乱、前原一誠の萩の乱際しては西郷は動こうとしなかったが、政府は鹿児島の動向を注視しつつ、ひそかに鹿児島にある陸軍火薬庫の弾薬を運び出そうとし、また密偵も派遣していてた。しかしそうした政府の挑発行為が発覚して、私学校士族が激高、ついに西郷も立ち上がったのである。明治10年81877」2月14日西郷を薩軍総司令官に13000の鹿児島士族を7大隊に編成し、篠原国幹、村田新八、桐野利秋、別府晋佑(1847~1877)らが体調になって鹿児島を出発し、熊本に向かった。挙兵際して西郷は「政府への尋問の筋」があってと武装してするのだと大山鹿児島県令に届けを出していた。まず熊本城の熊本鎮台を陥れ、九州を制したうえで大坂を目指す、そうすれば九州や四国に、さらに諸国に士族の応援がある、というのが薩軍の計算であった。事実熊本、高鍋、延岡ほか九州各地から7000名余り反政府の士族の呼応があり、その中には熊本共同体の宮崎八郎など著名な民権派も加わった。参軍山形有朋が率いる政府軍征討軍の博多着が2月22日、すでにこの日熊本城を包囲した薩軍の攻撃が始まり、約2000の鎮台兵を率いる司令長官谷干城は籠城体制をとった。3月4日より20日まで、熊本を目指す征討軍と熊本県北西部、田原村で繰り広げられ死闘に薩軍は敗北し、4月15日熊本城の包囲を解いた。以降薩軍は劣勢となって人吉から宮崎方面へと転戦し、8月17日わずか300人となった西郷軍は可愛岳を突破して討伐軍の包囲を突破した。9月11日に鹿児島に突入して城山に立てこもった。しかし、24日の徴兵軍隊の総攻撃を受けて壊滅した。この戦争を薩軍を支援する民衆はは極めて少なかった。政府の改革を西郷に期待し田士族は、宇来い自由民権運動に参画していった。