「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

  「歴史の回想・関東大震災」アマゾン電子書籍紹介。楽天・角川・BOOK★WALKER電子書籍

2020-03-15 18:31:40 | 温故知新

 
「歴史の回想・関東大震災」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
大正期の大地震、関東大地震によって起きた災害。1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、関東地方南部に大地震が発生、規模マグネチュード7,9、震源は相模湾西北部と計算された。自身は小田原、根布川方面が最も激烈であったが、東京、横浜では地震による火災が加わり甚大な被害を生んだ。東京は3日未明まで燃え続け、下町一帯から山手の一部にかけて前史の三分の二が焼失し、本所の被服廠跡では火の旋風で一挙に3万8000人が焼死。横浜では煉瓦造りの洋館などが倒壊し多くの圧死者を出し、前史買いがほとんど消失ないし全半壊し、4日までに救助の手が届かなかった。被害者は9万9331名、負傷者は10万3733名、行方不明者は4万3746名、全半壊家屋12万8266名、半壊家屋12万6233戸、焼失家屋、流失家屋868戸、被災者340万名。〈デマを信じた人〉大災害であったが、この震災を利用して今日まで判明しているだけでも6000名以上の在日韓国、朝鮮人と600名以上の在日中国人が600人以上の虐殺され、亀戸事件・甘粕事件と言われる、日本人社会主義者・無政府主義者・共産主義者、労働運動者・青年運動の指導者総計14名が殺害された人災でもあった。とくに韓国・朝鮮人・中国人への大虐殺は全く無実無根の流言蜚語は放火、暴動、井戸に毒を入れたなどを信じて自警団に組織させられた日本人の民衆が軍隊、警察とともに行ったものである。当時日本経済は世界恐慌、昭和金融恐慌など経済が混乱、低迷し、手形決済や紙幣の焼失し、流通、住居、公共の施設の焼失で遷都を考えざるを得ないほどに混迷した。この大災害に大阪など関西に人口が流出し、また大阪をはじめ日本各地から救援の援助物資や金融の援助がなされた。



歴史の回想・「加藤氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-15 15:49:59 | 温故知新


「加藤氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
加藤氏については、大きく分けて①近江国加藤氏。伊予国大洲藩主の加藤氏。肥後国熊本城主の三つに分けられる。近江国の加藤氏は水口藩主。三河国生まれた。加藤嘉明は豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586)当初淡路国で1万5000石を宛がわれた。後に伊予国松前へ転封となり6万2000石を領有。10万石加増される。席が蠅らの戦後、10万石を加増され松山城に入った。寛永4年(1627)20万石加増されて陸奥国会津に転封。1643年明成のとき、領地を返上した(会津騒動)が、孫明友に石見国吉永で1万石が宛がわれた。天和2年(1696)1万石加増されて近江国水口へ移り、元禄8年下野国壬生に転封となり3万5000石を領有した。4代明英は、寺社奉行、奏番者、若年寄りを歴任して、更に正徳2年(1712)5代嘉矩のとき、近江国水口に戻り明治に至った。
②加藤氏に伊予国大洲藩主。家祖加藤光泰の父景泰は家電によると、藤原鎌足12代目の末裔とされる。光泰はその嫡男で美濃国生まれの斎藤龍興の武将、のち豊臣秀吉に仕え美濃国大垣に城主4万石に立身する。一時秀吉の勘気に触れて、近江国佐和山城主になり、小田原攻めの後、甲斐24万石に減封されたが、関ケ原の戦い後、徳川氏から伯耆国米子6万石を得、大坂の陣の戦功で元和3年(1617)大洲藩6万石に転封、以後廃藩置県まで13代続いた。
③もう一つの加藤氏は肥後熊本城主加藤清正、子の加藤忠広を中心とした姓氏、藤原北家道長流と言うが不明。清正の祖父が斉藤道三の家臣で尾張国愛知郡中村に住したのが始まり、清正の父清忠に継嗣されたという。清正は幼少期より秀吉に仕え、豊臣の武将として成長し天正16年(1588)肥後半国19万5000石の大名と秀吉蔵入り地の代官となり。関ケ原戦い後は肥後52万石となり、熊本城主となったが1611年に没後、1611年三男忠広が襲封したが、1632年に失政し出羽国庄内1万石に没落、その後飛騨国高山に流され、加藤家は消滅した。








「黒田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。楽天・グーグル・角川・BOOK★WAL」

2020-03-15 15:49:59 | 温故知新


「黒田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
安土桃山時代から江戸時代の大名。宇多源氏、近江佐々木氏の一族と称し、鎌倉末期に近江国伊香郡黒田荘に住み、黒田氏を名乗る。重隆の代に播磨国守護赤松氏の一族で御着城主小寺政職に仕え、端城姫路城を預かった。職隆の子黒田孝高は織豊取り立て大名として出世、豊前中津城主となり、関ケ原の戦後に子の長政と筑前福岡に移った。①筑前福岡藩主。慶長5年(1600)関ケ原の戦功により、孝高の子黒田長政は豊前中津より移され、筑前52万3100石を領した。元和9年(1623)長政の死去により嫡子忠之が筑前43万3100石を襲封、弟二人は支藩を立てた。明治3年、12代長知の時に廃藩の時に長男長成は侯爵になった。②筑前国秋月藩主。福岡黒田家の分家、1623年黒田長政の死後、三男黒田長興(1610~1665)が5万石分知され、夜須郡秋月に陣屋を起き、一二代長徳の時廃藩を迎えた。後に子爵になった。






「宇喜多氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-15 15:38:18 | 温故知新


「宇喜多氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
宇喜多氏は室町から安土桃山期の武家、出自は百済王子、備前国児島などに諸説はあるが、16世紀初頭には、備前国邑久郡豊原荘を本拠とする国人で、同国守護代浦上氏の麾下にあった。宇喜多能家(?~1534)の代に浦上麾下の有力武将として台頭するが、天文3年(1534)能家は浦上の内訌で討たれ、その子宇喜多興家も逃亡先で客死して一時衰亡した。しかし興家の子、宇喜多直家が浦上宗景の下で家名を再興し、やがて浦上氏を滅ぼし、備前・美作・備中に勢力を拡大し、織田信長と結んで毛利氏に対抗した。直家の子宇喜多秀家は豊臣秀吉に従い、その四国、九州、小田原征伐へと出兵し、さらに朝鮮侵略に功を立て、57万石余の大名になり、五大老の一人として豊臣政権の中枢を担った。しかし慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで秀家は西軍に属して敗れ八丈島に流され数奇な運命を辿った大名の没落であった。




「歴史の回想・嘉吉の乱」グーグル・楽天・角川・アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍

2020-03-15 15:05:45 | 温故知新

「歴史の回想・嘉吉の乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
室町時代6代将軍「足利義教」が赤松満祐の自邸に招かれて暗殺した事件。義教は鎌倉公方足利持氏や、一色義貫、土岐持頼らの有力守護大名を圧迫する専制政治を続けるとともに山名氏、斯波氏、京極氏らの相続問題にも積極的に干渉したり、比叡山に対して弾圧を加えた。「万人恐怖」と言われた義教のこの政策は、四職家の一つ赤松氏についても例外でなく、領国の播磨・美作2か国没収の噂が流れ、実際に満祐は、機先を制して1441年(嘉吉元年)6月24日、結城合戦祝いと称して義教を自邸に招いて謀殺した。同席した管領は細川持之、斯波義康らは逃走したが、山名煕貴、京極高数、大内持世らがその場で殺された。事件後、赤松追討軍がなかなか派遣されず、満祐は自宅に火を放ち、一族を率いて領国播磨に引き上げた。その後、7月に至って、大手に細川持常、赤松貞村、武田国信、搦め手に山名持豊と一族を配した幕府追討軍が派遣された。山名軍の攻撃により9月10日に自害、子の教康は伊勢で殺害された。赤松氏の領国は播磨を山名持豊、備前・美作両国もそれぞれ山名一族に与えらえ、赤松氏は一時没落し、代わり山名氏の勢力が増大した。この政治的混乱期をついて機内に大規模など一揆が起こり、「嘉吉の土一揆」が起こり室町幕府の解体の遠因になった。


「天誅組攘夷の大義」アマゾン電子書籍紹介。楽天・グーグル・角川BOOK★WALKER電子書籍

2020-03-15 15:01:04 | 温故知新


「天誅組攘夷の大義」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
「幕末末期の元治元年(1864)水戸藩尊攘激派による筑波山挙兵とその後の騒乱事件。「天狗」とは、新参軽格の士が多い天保改革派にたいして反改革派が用いた蔑称で、譜代門閥の者には鼻高々の成り上がり者に映ったのだろう。一方、改革派は反改革派を「好物」と呼んだ。天狗党の主流は安政期頃から尊攘派として活動。安政5年(1858)前藩主徳川斉昭らの謹慎処分撤回を求める運動を展開したが、翌年戊午の密勅の取り扱いに巡って過激派と慎重派に分裂し。過激は天狗党につながり、鎮派の大方は弘道館書生や門閥派と結合し反天狗の諸生党を結び、両党は熾烈な武力闘争を生み出した。激派から桜田門外の変の関係者が出ている。1864年3月藤田小四郎、竹内百太郎、新治郡安食村の豪農で郷士らは各地の郷校に駐屯する同志を誘い、町奉行田丸稲之衛門を首領にして攘夷を旗印に筑波山に挙兵し、挙兵時は数百人に過ぎなかったが、各地から有志が参集し、一時1000人余りになった。天狗党は北関東を各地を横行し、追討軍と緒戦は優勢であった。だが次第に皇太子、藩内事情に起因する諸生党との抗争に縮小していった。10月那珂湊の戦いに敗れた一党は、元家老の武田耕雲斉を総裁にして、京都にいる一橋慶喜を頼り朝廷に真意を伝えるべく西上。一党は、下野、上野、信濃、飛騨の各地で追討軍と戦いながら、進んだが12月20日越前新保で加賀藩823人が降伏。翌年2月には敦賀で耕雲斉・小四郎ら352人が斬られ、そのほかも遠島、追放などに処せられた。しかしその後も両党の抗争は終わらず、明治元年1868年の弘道館の戦いに諸生党が実質的に滅びるまで続いた。




「歴史の回想・済南事件」グーグル・楽天・角川・アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍

2020-03-15 13:15:37 | 温故知新


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日本の山東出兵で起こった日中両軍の武力衝突。1928年’昭和3年)の国民革命軍の北伐再開に際し、日本が第二次山東出兵を断行すると、(第一次山東出兵の昭和2年(1927)北伐の国民革命軍が山東省に迫ると、東北(満州)権益の動揺を恐れた田中儀一内閣は、邦人保護を名目に5月に2000人を同省に送り、7月には2200人を増派した。この間東方会議で対中強硬方針が確認されたが、中国側が北伐の矛先を緩め、内外の出兵批判も高まって、9月撤兵した。第二次出兵の際1928年の北伐再開で田中内閣は再度出兵を決め、4月、5000の兵力で山東の要所を占領。その結果5月、済南で日中双方の武力衝突が起こった。第三次では済南事件の発生で日本は師団単位の兵力を送って山東省全域から華北各地に展開させる一方、国民革命の東北への波及を実力で阻止するとの声明を出した。しかし1928年6月、関東軍参謀河本大作が政府の思惑を超えて東北の実力者張作霖を爆破、軍閥を継いだその息子張学良を石未革命支持の方向に追いやることになった。結局出兵は日本の侵略姿勢を印象付けただけに終わった。国内ではこの出兵を反対して対支非干渉運動が起こった。)5月3日済南で日中間の市街戦が起こった。8日には全面戦闘に発展、日本軍は総攻撃し済南城を占領。この一連の戦闘で一般市民・在留邦人、中国外交官にも犠牲者を出した。一方、国民革命軍は済南を迂回して北上し、戦闘は11日には終息したが、日本はこの事件を契機に出兵兵力を増加させ(第三次山東出兵)中国の反日民族意識を決定的なものにした。国民革命へ武力干渉という意味で、日中十五年戦争の端緒になった銭湯といえる。



「歴史の回想・中先代の乱」電子書籍紹介。アマゾン・グーグル・楽天・BOOK★WALKER電子書籍

2020-03-15 12:33:09 | 温故知新


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北条高時の子、北条時行が1335年(建武2年)7月、建武政権に対抗して東国で起こした反乱。乱名は北条氏を先代、足利氏を後代、時行を中先代と称したことによる。同月初旬信濃の諏訪頼重ら北条旧臣が時行を擁して挙兵、鎌倉将軍府を運営していた足利直義を破り、鎌倉を占拠した。直義は拘禁中の護良親王を殺害を指示し、成良親王とともに鎌倉を退去したが、8月19日京都から下ってきた足利尊氏の軍勢鎌倉を奪回、時行は逃亡した。この反乱は鎌倉幕府と関係の深かった西園寺公宗の京都における建武政権転覆計画と絡み、北条残党の反乱の内で最も大規模で影響も大きかった。乱の鎮定後、尊氏は鎌倉で武家政権の債権の構想を練った。だが死んだはず時行が生きて再び挙兵し鎌倉を奪還した。それが後北条氏だという噂が未だ残っている。誰も時行の最期を知る者はいないという。


「歴史の回想・応永の乱」アマゾン電子書籍紹介。楽天・グーグル・楽天・角川・BOOK★WALKER電子書籍

2020-03-15 12:29:13 | 温故知新


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応永の乱、1399年(応永6)大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱。大内氏は室町幕府の全国統一に多大な貢献をしたため、周防・長門・石見・豊前・紀伊・和泉の6か国の守護に任じれられ、その地理的条件を浮かした対外貿易で巨利を上げていた。このため、より安定的な幕府財源の獲得めざし3代将軍足利義満はと対立し、他の足利一門以外の大氏内氏族同様討伐の対象になった。1396年渋川満頼が九州探題に就任したのを機に、九州地方では戦乱が頻発したが、幕府の満頼援助の命令を受けた義弘は弟満弘を派遣、満弘戦死後は自ら下向しこれを鎮圧した。しかし、幕府の対応に不信感を持った義弘は、その後容易に上京せず、義満に不満を持つ鎌倉公方足利満兼との連携を強めた。そして1399年10月、大軍を率いて和泉国堺に着任して籠城、これを機に各地に反幕府勢力が挙兵したが、悉く鎮圧され、義弘も12月21日戦死し、弟弘重は降伏した。


「歴史の回想・上杉禅秀の乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍

2020-03-15 08:44:00 | 温故知新


「歴史の回想・上杉禅秀の乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
上杉禅秀の乱は、1416年(応永23年)から翌年にかけて鎌倉で起こった内乱。首謀者は前関東管領上杉氏憲(禅秀)で鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲基を討とうとして持氏の叔父満隆を擁し、千葉・武田・大掾・岩松ら関東の多くの武家を誘い、10月2日に鎌倉で決起した。このクーデター一端は成功したが、持氏と憲基は逃走するが、将軍の継承を廻って対立していた弟の足利義嗣と氏憲の内通を知った将軍足利義嗣と氏憲の内通を知った将軍義持が持氏支持の姿勢を明示し、諸将に氏憲討伐を呼びかけると、各地の武士たちは挙兵し鎌倉に進み、結局氏憲は敗れて、よく1417年正月10日に自殺した。この乱は鎌倉府を二分にし、関東の武家のほとんどを巻き込んだ大規模なもので、この事件のきかっけに関東は混乱状況に入った。


「歴史の回想・奥羽仕置」アマゾン・楽天・グーグル。角川・電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書

2020-03-15 08:40:15 | 温故知新


「歴史の回想・奥羽仕置」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書
「奥州仕置の起因」(おうしゅうしおき)は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた、豊臣秀吉による奥羽地方に対する領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。
豊臣秀吉による奥羽両国の無事(和平・和睦)への関与は、天正13年の金山宗洗の奥羽への派遣から開始された。
宗洗は天正16年までに3度奥羽へ赴き、奥羽各領主と交渉を行った。
天正16年9月、最上義光に続いて伊達政宗も秀吉に恭順を示し、奥羽の無事実現へ大きく前進した。
秀吉は天正17年1月に政宗に書状を遣わし、天正17年前半の上洛を求めた。
しかし、その天正17年の前半である5月に政宗は蘆名領の会津へ侵攻したのだった。
秀吉は上洛要請を無視し、奥羽の無事を乱した政宗の行為に不信を抱き、政宗が会津から撤退しない場合は奥羽へ出兵する用意があることを明らかにした。
11月、北条氏が秀吉の沼田領裁定を覆し、真田領・名胡桃へ侵攻したことをきっかけに翌春に北条氏の征伐が行われることになり、東国に征討軍が派遣されることになった。
天正18年、秀吉は下野国の宇都宮国綱、常陸国の佐竹義重とともに小田原征伐を行い、天正18年7月11日、小田原城は開城し、北条氏政・北条氏照兄弟が切腹、北条氏直ら北条一門の多くが高野山に配流となった。
これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡した。




「歴史の回想・明徳の乱」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・BOOK★WALKER電子書籍

2020-03-15 08:35:58 | 温故知新


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明徳の乱は。1391年(明徳2)も山名氏清・満幸らが室町幕府に背いて挙兵し、討たれた戦乱。南北朝期、山名氏は一時足利直冬党に属して山陰地方に勢力を伸ばし、一族で11か国の守護を兼ねて六分の一殿と呼ばれた。将軍足利義満は惣領山名時義の死を機に強大な山氏一族の勢力の削減を図った。まず1390年山名氏清・道幸らに命じて同時煕・氏之を討たせたが、時煕らが降伏すると、逆に彼らを起用して満幸を退けた。そこで翌年末、満幸は氏清・義理らを誘って藩幕府の兵を起こし、京都に迫った。義満は自ら馬廻り(直属軍)3000騎余を率いて出陣するとともに細川・畠山・大内らの大名を集結し、洛西に反乱軍を迎え撃ってこれを破った。氏清は討ち死に、清幸は参院に逃れたが後に討たれた、義理は遁走して出家し、山名氏は時煕が但馬、氏之が因幡の守護を保つのみとなった。この乱の結果、幕府権力の強大さが明らかになり、余勢をかった義満は翌1392年南北統一を実現した。