静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

死後について

2011-07-03 20:25:50 | Weblog
実証的、科学的思考が私たちの生活にすっかり根付いてしまった今日、「死後」の実在を云々することは、なにかの宗教を妄信している人や、オカルト趣味の人のすること、という印象が強く、そんな人とは距離を置く、まともにとりあわないというのが、「健全な大人」の常識的対応と考えられます。

なるほど、体に何の異常もなく、明日という日を素直に信じられる間は、「死後」の問題は、知識欲から来る興味の対象ではあっても、切実な自己の問題ではないと思います。
東本願寺の人に言わせると、「自分の『現在』を問わないで『人は死んだらどうなるのか』と考えることは、私たちを出口のない路に迷わせる」のだそうですから、なおさらです。

それよりも原発事故による放射能汚染や、復興際策、失業対策、つまり「どう生きるか」という問題が、当面の重大事と受け止められるだろうと思います。

しかし人間、だれしも、遅かれ早かれ死なねばなりません。原発事故が収束しても、東北の町が復興してもです。

この死に直面した時、つまりどう生きるもこう生きるもない、「もう明日という日はない」という局面に立たされた時、心のなか一面に浮上してくるものは何でしょうか。

それは家族や、やり残した仕事のこと?
むろん、それもあるでしょう。
でもギリギリのところ、それらはむしろどうでもよくて、最後の最後は自分の行き先、つまり、死後が大問題となってくるのです。

釈尊は、「大命将に終わらんとして悔懼交々いたる」と説かれ、臨終には人生の目的を果たせなかった後悔と、死んだ後への恐れが代わる代わるやってくると教えておられます。

それまで、どうでもいいやと軽く思っていた死後の問題が、急に問題の質を変え、心の最も弱い部分に、突き刺さるように食い込んできます。


「死んだら死んだ時じゃ、わしゃあ、なんも怖ないで。 カッ、カッ、カッ!」
と豪語していた人が、臨終に、この問いの真の重さに気がついて、懊悩するのです。
私はそういう人たちを何人も見てきました。

その時、それまで仕入れた知識を総動員して、それらしい解答を出そうとしてもムダです。
ムダだというのは、本人が自分の出したその答えに納得しきれないということです。


ここに二人の人の意見をここに挙げておきます。一人は有名な学者、もう一人は無名の、仏法を熱心に聴いているある婦人です。

まず、以前ベストセラーになった養老猛氏の『死の壁』(新潮新書)に書かれてあったことを挙げておきましょう。

◆〈死について考えるといっても、自分の死について延々と悩んでも仕方が無いのです。そんなのは考えても答えがあるものではない。したがって「死の恐怖をいかに克服するか」などと言ったところでどうしようもない。(中略) 寝ている間に死んでしまったら、克服も何もあったもんじゃありません。意識がないんですから〉(165ページ)

◆〈死んだらどうなるのかは、死んでいないからわかりません。誰もがそうでしょう。しかし意識が無くなる状態というのは毎晩経験しているはずです。眠るようなものだと思うしかない。そんなわけで私自身は、自分の死で悩んだことがありません〉(167ページ)



 死ねば「死んだ」と意識する自分がいなくなるから、一人称の死は存在しない。だから死について悩む必要も、考えることもないと、この本には繰り返し述べられています。
 
 次に上げるのは、ガンの宣告を受け、実際に生死の境をさまよったUさんが、『死の壁』について語ったものです。

 *        *        *

◆医者からガンの告知をされた瞬間、耳元から冷たい清流がどっと頭の中に流れ込んできて、その時を境に、思考と感動を忘れてしまいました。
 途方もない孤独、それしかありません。これが死の宣告を受けた時の私の心です。
 養老さんは、「死んだらどうなるか分からない、考えても答えはない」と言いながら、「悩んでも仕方ない」という答えを出しています。
 しかし死に直面する時は、自分の今までの知識や経験などすべてをもってしても、「死んだらどうなるか、分からない」のです。結論が出せないのです。自分のすべてが間に合わない"分からなさ"なんです。本当に分からないとはそういうことです。だから、ものすごく困惑する。この人が言っている程度の「分からない」とは深刻さが全く違う。もっともっと奥から出てくる、「死んだらどうなるか分からない」心です。
 なにしろ、周りじゅう何もないんです。すべて消えてしまうのです。「空白」というときれいな感じがしますが、きれいでない。「空間」というと境界を考えますが、限りもない。ただ茫漠とした、何もないものが広がっている。それは、「暗い」としか言いようがありません。
何もないのに、どうにもならない私だけがある。「分からない」という自分だけがいるのです。
 私は今、健康を取り戻していますから、本当に死んでいく時の闇は、この程度ではないと思います。本の帯に〈逃げず、怖れず、考えた最終解答〉とありますが、本質的なところは「逃げて、怖れて」ごまかしたのでしょう。もう少し、人間の生に真摯であってほしい。
 この本の読者が、「死について悩まなくてもいいんだ」と思っても一時的なことで、養老さん本人も含めて、魂の叫びはごまかせないと思います。

 *        *        *


どちらが、人間の真実に迫った見解だろうか。
それは読者諸賢に委ねます。

コメント   この記事についてブログを書く
« 後生の一大事 | トップ | 人生論の必要ない人たち »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事