何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

静かなダンスが生み出す偉業

2016-08-08 12:51:51 | ニュース
この夏は、耳鳴りがするほど「あぁ~栄冠は君に輝く」を聞き、私の夏は終わった・・・と思っていた。

リトルリーグのメンバーは、甲子園の県予選(球場に)お得に入場できるとかで、「今日は〇〇君の兄ちゃんが出場する」「今日はチームの先輩の試合だ」と言い訳しながら、ほぼ毎日球場に通いつめ、帰ってくれば「く~もは、わ~き~光あふれて~」と気持ちよさそうに歌っている。私達の頃は、7回にエールの交換とそれぞれの校歌をがなったものだが、今はどうなのだろう?とにかくグランド整備の時に、あの「栄冠は君に輝く」が球場に流れるらしい。

応援していた野球小僧は、それぞれに夏が終わった。 「人生に生きる野球道を!」
R君は、絶対に勝てる試合と、負けが決定づけられてしまった試合にマウンドにあげてもらい、最後の夏を終えた。
J君は、最後の夏を終えた先輩の荷物が部室から片づけられるなり、秋の大会に向け自分の時代だとばかりに練習にも更に熱が入りだした。
いずれにせよ、二人のこの夏は終わり、私の野球の夏も終わったと思っていた、が。
アメリカでは、イチロー選手が暑い夏をクールに戦っていた。

<イチロー、史上30人目の3000安打達成! 16シーズンでの到達は史上最速タイ>
Full-Count 8月8日(月)7時37分配信より一部引用
米国出身者以外では4人目の偉業、チームメートと抱擁、ファンは総立ち
マーリンズのイチロー外野手は7日(日本時間8日)、敵地でのロッキーズ戦で「6番・中堅」で8試合ぶりにスタメンに名を連ね、7回の第4打席にフェンス直撃の三塁打を放った。メジャー史上30人目の3000安打に到達。ついに偉業を達成した。
3000安打&500盗塁は史上7人目の快挙
通算3000安打は、アレックス・ロドリゲスに続いてメジャー史上30人目。
また、イチローは現役最多の507盗塁をマークしており、3000安打&500盗塁は、MLB史上7人目。デビューから16シーズン目での達成はピート・ローズと並んで史上最速となった。
http://full-count.jp/2016/08/08/post41542/

6月15日の最多安打は、日米通算という計算の仕方が議論を呼び、イチロー自身「ピート・ローズが喜んでくれれば(自分の気持ちも)全然違う。でもそうではないと 聞いていた。だから僕も興味がない」と語っていたが、今回の偉業は誰が何と言おうが文句なしの’’偉業’’であり、これからイチローがヒットを重ねる度に、記録が更新されるという喜びもある。
その喜びを生み出す、あの’’構え’’

6月15日イチロー選手が最多安打を記録した日の「通過点としての偉業」に記した「Ichiro イチロー努力の天才バッター」(高橋寿夫)の1ページ目は、バッターボックスに立ったときのイチローのあの独特のフォームの写真と詩で飾られている。
写真出展 ウィキペディア https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ichiro3.jpg?uselang=ja

ゆうぜんとバッターボックスにはいったイチローに、観客の視線があつまる。
静かなダンスの始まりだ。
ゆっくり足場をならし、右手のバットを体の前で一回転させる。
投手に向かってピタリと右手がとまる。
左手で、ユニフォームの右そでを少し、ひきあげる。
ファンも、そしてピッチャーも イチローの世界にひきこまれていく。
― さあ、勝負だ。
「Ichiro イチロー努力の天才バッター」(高橋寿夫)より



「8点とって逆転だ」で取り上げた「ルーズヴェルト・ゲーム」(池井戸潤)にも、このイチロー独特の構えについて触れている場面がある。
社内の野球大会で、廃部寸前の(社会人)野球部と製造部チームが対戦した時、製造部のバッターがバッターボックスに入るなりイチローの構えを真似し、それを見た観客がやんやの喝采を送る、という場面だ。
『(投手に)バットの先端を向け』『右足を浮かし気味にしてタイミングを取りはじめ』『バットを大きく回しては、左手でユニフォームの袖に触れ、(投手の)顔面に向けて止める』 (『 』「ルーズヴェルト・ゲーム」より引用)

このポーズを見ただけで観客は、それがイチローのポーズだと気付いて喜び、読者は瞼の裏にイチローの構えを浮かべることができてしまう。
これこそが、ヒーローのヒーローたる所以かもしれない。

今日は、瞼に静かなダンスを浮かべながら、イチローの偉業ニュースを梯子しようと思っている。

おめでとう イチロー選手

偉業はつづく 
イチロー物語もつづく

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八点とって逆転だ

2016-08-07 14:01:00 | 
「もし女子マネがノックできる世になれば」よりつづき

一部の国にしか愛好者がいない、とかいう理由で一時期オリンピック競技から外されていた野球とソフトボールが復活する。

<IOCと連携、東京五輪で野球・ソフト復活  追加5競技採用決定> 2016/8/4 10:52日本経済新聞より一部引用
国際オリンピック委員会(IOC)は3日、総会で2020年東京五輪組織委員会から追加種目として提案された野球・ソフトボール、空手、サーフィン、スポーツクライミング、スケートボードの5競技18種目を承認した。野球・ソフトは08年北京以来の復活、他の4競技は初採用となる。

甲子園・五輪と野球の話題が続いたので、何か野球の話はないかと思い手に取ったのが、「ルーズヴェルト・ゲーム」(池井戸潤)だ。
云わずと知れたことだが、池井戸作品なので経済・経営が本題ではある。
技術力は業界トップだが営業力と資本規模に弱さを持つ中堅メーカー・青島製作所は、突然世界を襲った経済危機への対処が遅れ、経費削減・リストラの敢行をもってしても、経営の傾きは避けることができなかった。そこへアクドイ営業戦略には定評があるものの技術力に難のあるライバル会社・ミツワ電器が合併策を持ちかけ、乗っ取りを画策してくる。
この青島製作所のお荷物的存在で廃部の危機をささやかれるのが、成績低迷中の野球部だが、野球部にもミツワ電器には負けられないという男の意地があった。
青島製作所とその野球部の復活・逆転はあるのかを、これまた池井戸作品の特徴である「夢」論とあわせて爽やかに描いているのが「ルーズヴェルト・ゲーム」だが、今回は野球の話題を中心に記しておこうと思う。

マウンドを去る者、マウンドに復帰する者
景気が良ければ、ユニフォームを脱いだ後も社員として会社に残ることもできるだろうが、正社員をリストラしている不況の嵐では、肘をやられて投手生命を絶たれた者に、居場所はない。
潔く会社を去る決意をする選手に監督がかける言葉は、思うように事が運ばず軌道修正を繰り返す私には印象的な言葉だった。
『お前の人生だから、どう生きるかはお前が考えて決めろ。
 だが、これだけは言わせてくれ。野球をやめたことを終点にするな、通過点にしろ。
 今までの経験は、必ずこれから先の人生でも生きてくる。
 人生に無駄な経験なんかない。そう信じて生きていけ』

去る者がいる一方で、マウンドに復帰する者もいる。
かつて甲子園を目指して腕を鳴らしていたが、完全に野球をやめ、青島製作所で派遣社員として働いている元投手がいた。
自分を立てる為なら、他人を潰すことも陥れることも厭わない人間というのは、どんな世界にもいるもので、それは野球界も同様であり、熱闘甲子園が正々堂々爽やかな場所だと言い切るのは、奇麗ごとに過ぎる。
多感な高校時代に、スポーツ選手でありながら卑怯な人間とスポーツに打算と損得勘定を持ち込む大人の事情を目の当たりにし、人間不信に陥り野球を止めてしまった元投手に監督はいう。
『お前には、まだやり残したことがあるはずだ』
『このまま野球を止めたら、何も解決しない。
 お前を救えるのは、お前しかいない。―待ってるからな』

この監督、去る決意をする者に激励の言葉をかけるが、実は肘が治るのを待ってやりたいとも思っていた。待ちながらも、激励の言葉で見送り、新たな一歩を逡巡する者には、「待っているから来い」と声をかける、監督。
まだまだプレイヤーの気分が強く、躓いては嘆き壁にぶつかっては落ち込んで、支えてもらうことばかりの私だが、そろそろ次のプレーヤーへ、この監督のような言葉をかけることのできる人になりたいと思いつつ、読んでいた。

そして、監督と選手がそれぞれの人生をかけて戦う、「試合」。
青島製作所の会長にして、野球部を設立した青島は、ルーズヴェルト大統領の言葉を引用して、野球は「7対8の勝負が面白い」という。
炎天下、裸足でスタンドに立つ応援団にいたせいか、7対8のような試合はご遠慮願いたいというのが正直なところで、ちぎっては投げ・ちぎっては投げの息づまるような試合というか、二時間ちょっとの引き締まった勝負が個人的には好きなのだが、興業あるいは楽しんで見る分には、「7対8」は面白いのかもしれない。

ルーズヴェルトの「7対8」は兎も角、青島会長は点の取り方にも一家言もっている。
『一点ずつ取り合うシーソーゲームもいいが、私としては点差を追いつき逆転するところに醍醐味を感じるんだ。一点ずつそれぞれが加点して四対四になったのではなく、最初に四点取られて追い付いたから、この試合はこの試合は余計におもしろい。
 絶望と歓喜は紙一重さ。まるで、何かと同じだな』
このカリスマ的会長の言葉を聞いた現社長は、その「何か」を経営に当てはめる。
『青島製作所の経営が七対ゼロの劣勢なら、八点取ればいいじゃないか。
 自分を信じて。社員を信じて。その先にある勝利の歓喜を信じて―。』

「何か」は人にとって、それぞれ違うが、その心意気は全てに通じるところがある。
そして、この言葉を読み、かつて高校球児だったという野球部長の「スミ1の人生にするな」という言葉を思い出した。
スミ1どころか、七対ゼロのゼロ行進のような人生かもしれないが、自分を信じて、これから八点取りにいけばいいし、八点取る人を応援するのも、試合の一部だと思っている。
本書には「応援しに来たんですから信じましょう」「応援団が見放したら誰が応援するんですか」というセリフああるが、確かに、試合は何も選手だけで成り立っているわけではないのだ。

自分を信じて、頑張る人を応援する。

知性の声は小さく、自分の利益のためなら他者を追い落とし捻りつぶそうと手ぐすね引いている者が跋扈する世の中だが、正しく頑張る人を応援し続けたいと思っている。
そして、まっとうに頑張る人が、池井戸作品のように最後には勝利の歓喜に包まれると信じたいと思っている。

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もし女子マネがノックできる世になれば

2016-08-05 00:31:25 | ニュース
数日前、甲子園練習のためボール出しをしていた女子マネージャーがグランドから摘み出されたというニュースがあった。

<大分の女子マネが甲子園のグラウンドに 大会関係者慌てて制止> 
デイリースポーツ 8月2日(火)11時22分配信より一部引用(一部改編)
第98回全国高校野球選手権大会の甲子園練習が2日、甲子園球場で行われ、大分の女子マネジャーがユニホームを着てグラウンドに立ち、大会関係者から制止される一幕があった。
大会規定では危険防止のためグラウンドに立つのは男子のみと明記されている。甲子園練習も準じる形になるが、手引きには男女の明記がなく、ジャージーでの参加は禁止、ユニホーム着用とだけ書かれていた。そのため部長は「私が勘違いしていました。彼女は一生懸命頑張ってきたので、グラウンドに立たせてあげようと思って…。本当に申し訳ありません」と女子マネジャー(3年)のユニホームを新調し、甲子園練習に練習補助員として参加させた。
守備練習では慣れた手つきでノッカーへボールを渡し、約10分が経過した頃、大会関係者が気づいて制止。女子マネージャーさんは「やっぱりダメなんだと思いました。いつもやってるんですけど、甲子園ということで緊張して手が震えました」と言う。

女子マネージャーを摘み出した理由は、硬球が危険だからだそうだ。
確かに硬球は危険だとは思うが、それだけを理由にするのは無理がある。
グランド(ベンチ)に入るのは、硬球に慣れた監督と選手だけではない。
監督とコーチが不在でも公式試合は出来るが、この人がいなければ試合ができないというほど重要なのが、実は’’部長’’だ。
それほど重要なポジションで、ベンチ入りするにもかかわらず、この’’部長’’意外や意外、野球経験者でないことも多いのが実情だ。

私が応援団として校歌をがなっていた母校の部長も、なまっちろいお顔の国語の先生だった。
ご本人は、かつては高校球児だったと主張されていたが、ノックの一つもするでなし、長くバットにもボールにも触れていないことは誰の目にも明らかだったが、男性教師である部長は、それだけでグランドに立つ権利があるのだ。
翻り、この女子マネージャーはどうだろう。
日々選手の練習に付き合い、ノックのボールだしもお手の物だというが、硬球は女子には危険だという理由で、三年間ともに頑張ってきた仲間の甲子園練習にさえ立ちあわせてはもらえない。

安全面を配慮しての この規則ならば実情に合ってはいないし、男女の性差がその判断基準ならば(事実、男子に限るのが様式美という意見もあるようだ)そろそろ改められても良い時期だと思われる。

私は極端な男女平等主義には与しない。
熊谷達也氏のマタギ三部作「相克の森」「邂逅の森」を読めば、その(女性を排するという)伝統や風習を守ることが、命と安全を守ることに直結していると教えられるので、性別により向き不向きがあることも勿論理解している。
だが、男女が協力して行った方が効率が良かったり、協力し合う姿こそが様式美に叶うことも多く、それは時代に即して改められるべきであり、その変化に対応できないような偏執的で狂信的な様式美なら、いずれ廃れてしまうものだとも思っている。

このニュースを見ながら、そんなことを思っていた。

それは兎も角、話題が女子マネージャーだけに、ここで『もし高校野球の女子マネージャーがドラッガーの「マネジメント」を読んだら』(岩崎夏海)について書ければ良いのだが、あいにくと「もしドラ」は借りて読んだ本であり、しかもこの手の本は苦手なので、あまり印象に残っていない。
それでも甲子園は始まるし、何か野球の本をと探し求めて読んでいたところに、野球関連で嬉しいニュースが飛び込んできた、それについては、又つづく。


ところで、最近話題のニュースでいうと、日本の精神的支柱であり、対外的には’’象徴’’である皇室にして実情から乖離している。
7月25日 日本経済新聞より引用
皇室を巡っては、安定的な皇位継承や皇族の減少に対応するため、女性天皇や女性宮家を求める声がある。
これらに関し(1)女性天皇は検討すべきだ(2)女性宮家は検討すべきだ(3)どちらも検討すべきだ(4)どちらも検討すべきでない――の4択で聞いた。
「どちらも検討すべきだ」が最多で59%を占めた。続いて「女性天皇」が21%、「女性宮家」が5%で、何らかの検討を求める回答が85%に達した。「どちらも検討すべきでない」は8%にとどまった。

女性天皇を検討すべしという世論が女性宮家を検討すべしという世論の4倍あり、全体では80%の国民が女性天皇を検討すべしだと答えているのもかかららず、過去には存在された女性天皇の価値をないものとして、現在の世に女性天皇が誕生することを拒む一部の’’力’’がある。
つくづく「知性の声は小さい」と感じている。

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万の風がつれてくる「あの日」

2016-08-02 23:25:33 | 
「カメラとご意見番」からのつづき

「カメラとご意見番」で、「カメラマンと犬」(新井満)を今の私に打って付けと書いたが、それは私がワンコを想わない日がないことと、カメラの購入を考えていたからであって、内容は?というと、これが難しい。
スリリングな場面展開があるでなし、綺羅星の如く心を打つ言葉が散りばめられているわけでもなく、離婚によって何もかも失った中年カメラマンが残された犬ハナコと暮らす日常を淡々と描いているいるだけなので、読書備忘録に記すような名言はないのだが、その淡々とした筆致にむしろ味わいを感じるのかもしれない。

ただ、淡々と日常を綴っているからこそ目を引く、「あの日」がある。

主人公は、離婚で家も財産も身ぐるみ剥がされ、唯一の願いの「月に一度だけでも息子に会いたい」も却下されたうえに、会えない息子のために養育費と教育費は払い続けているという、中年カメラマン柊。
柊には、明確に「あの日」といえる「日」があった。
まだ全く無名だった頃に銀座のギャラリーで開いた写真展は、最終日にも人は集まらず閑古鳥が鳴いていた。
店じまいが早い最終日には、どしゃぶりの雨まで降ってきたのだが、この雨が、「あの日」を運んできたともいえる。
老人がギャラリーに入ったのは、もしかすると、雨宿りだったのかもしれない。
だが、ぼんやりとした表情で作品を見ていた老人の眼差しが、やがて真剣なものになり、主人公・柊に写真集の出版を持ちかけるのだ。
S出版社も経営する芸術全般に造詣が深い老人sの勧めに従い写真集を出版したが案の定、売れない。
出版社の赤字が相当に膨らんだ頃、誰もが予想もしなかったのだが、新人写真家の年間最優秀賞を受賞し、これを契機に写真集が売れ始め、その後のカメラマンとしての地位を築いていく、カメラマン柊。

柊にとって、「あの日」とは、どしゃぶりの雨の日、どしゃぶりの雨ゆえにSさんに出会えた日。

本書のもう一人の主人公である犬のハナコの「あの日」は、切ない。
ハナコと柊は、何についてもよく語り合う。
間違い電話から窺い知る男の不実から、自然食品にこだわった食事(エサではない)、人間よりも三年以上もはやく宇宙を飛んだライカ犬についてまで、何でも二人は語り合う。
二人は夢のなかでさえ語り合うのだが、今日二人とも死ぬという夢のなかで、ハナコは柊に「あの日」を語り、感謝する。
ハナコにとっての「あの日」は、柊に出会った「日」だった。

ペットショップに片隅におかれたケージのなかで、その日がくるのを覚悟して、うずくまっている犬がいた。
白くてきれいな犬を買うつもりの柊が、ふと目にした犬を見てペットショップの女主人に「この犬、不細工な顔してるねえ」と声をかける。
すると、女主人は『だから売れ残っちゃって・・・・・。明日が一歳の誕生日だっていうのに。この子ったら、かわいそうにねえ』 と言う。
「誕生日がきて、何故かわいそうなのか」と問う柊に、女主人は『生まれてから一年たっても売れない犬は、処分されることになっているんですよ』 と答える。
これを聞いた柊は、すぐさま白くてきれいな犬を止め、真っ黒けで不細工な犬を買うことを決意する、これがハナコだった。
ハナコは死を目前(夢のなかで)にして、その瞬間への感謝を伝える。
『あの時は、本当に嬉しかった。もし柊さんが来るのがあと一日遅かったら、私の命はなかったんです。
 あの日を境にして、私の世界は一変しました。
 生きることが、どんなに素敵なことなのか、痛いほど実感するようになりました。
 それは、みんな柊さんのおかげなのです。』

こんな場面を読むと、もういけない。
ワンコと私の、「あの日」を思い出して泣けてくる。
生後まだ一月で、耳も立ってないワンコが、まなじりに力をこめて(鼻水を垂らしながら・・・ごめんよ)「僕を選べ」と訴えた、「あの日」。
私にとっては、幸福な「あの日」だったが、ワンコにとってはどうだったのか?
人生において、「あの日」といえる「日」は数えるほどしかないと思うが、ワンコと出会えた「あの日」は間違いなく、私にとって最高の「あの日」だ。

淡々と過ぎる日々に突如訪れる「あの日」。
これからの人生で、「あの日」と云える瞬間が、あと何度あるかは分からないが、ワンコと出会えた「あの日」を大切にしながら、どの瞬間をも「あの日」にできるよう自分を磨きたいと思っている。

ところで、本書には、柊とハナコが亡くなった人を悼み、語り合う場面がある。
「亡くなった人は墓の中にいる」と言う柊に、ハナコは語る。
『あゆみさん(故人)はもう、お墓の中にはいません。
 あゆみさんは風になって、海辺の墓地の天上を吹きわたりながら、この光景を眺めているんです』と。

・・・・・思わず、最近流行りの例のものかと思ってしまったが、何のことはない、本家本元の作品だった。



「千の風になって」は、アメリカの詩『Do not stand at my grave and weep』を新井満氏が訳し、新井氏自身が曲をつけたもので、原詩の3行目 "I am a thousand winds that blow" を借りてタイトルがつけられたのだそうだ(by wikipedia)

ちなみに、週末ごとに家族の誰かがワンコ聖地をお参りしているが、ワンコは「あの日」から、「私の腹の上に乗って」寛いでいる。「星の宝物 ワンコ」

追記
本書には、読書備忘録に記した言葉がないと書いたが、一つ気になる言葉があったので、記録しておく。
新人写真家に送られる年間最優秀賞を受賞したときに、Sさんが柊に言った言葉。
『人のおだてには乗ってあげなさい。それが男の器量というものです。人のおだてに乗れないような奴は、男じゃない。おだてにはどんどん乗ってあげて、実力と才能をどんどん発揮して、せいぜいいい仕事をおやりなさい』

おだてられる事が、そもそも少ない私だが、人のおだてを胡散臭いと疑ってかかる癖があるから、私は器量なしなのだろうか。
どんどん乗るほどおだてられる事が、これからあるとも思えないが、その時にはおだての波に乗ってみようかと、おだてられる予定もないくせに考えている。

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カメラとご意見番

2016-08-01 12:30:00 | ひとりごと
暑い夏を忙しく過ごしているために本を読む時間がない、というのは不正確な表現で、暑さでボケているためミスを連発し訂正修正に追われて忙しく、本を読む時間がない。
自分の本ならば積読でもよいが、人様から借りているものは、そうはいかない、まして今の私に打ってつけの本なら尚更なので、ようやっと一冊読み終えることができた。。
「カメラマンと犬」(新井満)

基本的にアナログ人間であることと流行りモノに疎いということもあって、ほんの最近までフィルムのカメラを愛用していたのだが、デジカメをもつことがデジタル人間を意味するわけでも、ましてデジカメを流行りモノとする時代でもなくなった今頃になって、ようやっとデジカメを買う決心をした。
我家には、さほど写真を撮るわけではないのにカメラには凝る御大というウルサ型と、かつて(フィルム時代)写真部だったという自称ツウがいるためフィルム派で、以前カメラを購入するときも、揉めた。

御大の「RICOHーのGR1sにすべし」という意見に従いカメラ屋に行くと、店員さんが「写真に、よほど凝るタチですか?」と疑わしげに聞いてきた。
よほど私が写真に凝らない人間に見えたのだろう。
「いいえ、スナップ写真程度のものしか撮りません。ちょっとした風景が、それなりに奇麗に写れば満足です」とキッパリ答えると、そうだろうそうだろうと言わんばかりの顔で、「それならば、そんなカメラは必要ありません」と親切にも、もっと手ごろな値段のカメラを勧めてくれる。
それに大いに心動かされながらも念のために御大に店員さんの意見を伝えたのだが、「GR1sにすべし」と御大は頑なになるばかり。
家内平安を優先し御大の意見に従い購入したリコーのGR1s。

私のように「写るんです」でも良いような人間の目にも、GR1sの写りは抜群に良いのは理解できたし、引き延ばしたときなど、色や鮮明さに明らかに違いがあるのは分かった。。
だが、フィルムカメラで広角レンズ一辺倒という代物は、私のようなド素人には、無用の長物・豚に真珠だ。
隣でズームで撮っている人を見れば、広角レンズ一辺倒が物足りなく感じるし、広角レンズゆえに同じような写真ばかり現像されてくるのを見ていると、これがデジカメなら自分で削除でき現像代が省けるのに、と愚痴ばかり出てしまう。

こんな苦い過去があったので、今回デジカメを購入することは家族には秘密にしていた。
そして、何年たってもカメラ屋さんの目には、私は写真に凝らない人間にしか見えないようだ。
「ただ写れば良いだけのお客様には、こちらなどお勧めです」という、親切なんだか多少バカにしているのだか分からない意見に従い、SONYのCyber-shotを購入した。
ズームは20倍、連写もできる、大満足。

だが、私という人間は多分にへそ曲がりな人間で、こうなってくるとGR1sも懐かしくなってくる。
ワンコを撮った、GR1s。
初めて登った涸沢から前穂のコブを撮ったのも、GR1sだ。
御大が見込んだだけのことはあり、何年もたった今でも、GR1sの写りは変わらずきれいだ。

写しもしないくせに機器としてのカメラに凝る御大と、被写体の表情よりもピントが合う瞬間ばかりに拘る元写真部の意見をこれからも尊重しながら、二つのカメラを大切に使っていこうと思っている。

「カメラマンと犬」については、つづく

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