「もし女子マネがノックできる世になれば」よりつづき
一部の国にしか愛好者がいない、とかいう理由で一時期オリンピック競技から外されていた野球とソフトボールが復活する。
<IOCと連携、東京五輪で野球・ソフト復活 追加5競技採用決定> 2016/8/4 10:52日本経済新聞より一部引用
国際オリンピック委員会(IOC)は3日、総会で2020年東京五輪組織委員会から追加種目として提案された野球・ソフトボール、空手、サーフィン、スポーツクライミング、スケートボードの5競技18種目を承認した。野球・ソフトは08年北京以来の復活、他の4競技は初採用となる。
甲子園・五輪と野球の話題が続いたので、何か野球の話はないかと思い手に取ったのが、「ルーズヴェルト・ゲーム」(池井戸潤)だ。
云わずと知れたことだが、池井戸作品なので経済・経営が本題ではある。
技術力は業界トップだが営業力と資本規模に弱さを持つ中堅メーカー・青島製作所は、突然世界を襲った経済危機への対処が遅れ、経費削減・リストラの敢行をもってしても、経営の傾きは避けることができなかった。そこへアクドイ営業戦略には定評があるものの技術力に難のあるライバル会社・ミツワ電器が合併策を持ちかけ、乗っ取りを画策してくる。
この青島製作所のお荷物的存在で廃部の危機をささやかれるのが、成績低迷中の野球部だが、野球部にもミツワ電器には負けられないという男の意地があった。
青島製作所とその野球部の復活・逆転はあるのかを、これまた池井戸作品の特徴である「夢」論とあわせて爽やかに描いているのが「ルーズヴェルト・ゲーム」だが、今回は野球の話題を中心に記しておこうと思う。
マウンドを去る者、マウンドに復帰する者
景気が良ければ、ユニフォームを脱いだ後も社員として会社に残ることもできるだろうが、正社員をリストラしている不況の嵐では、肘をやられて投手生命を絶たれた者に、居場所はない。
潔く会社を去る決意をする選手に監督がかける言葉は、思うように事が運ばず軌道修正を繰り返す私には印象的な言葉だった。
『お前の人生だから、どう生きるかはお前が考えて決めろ。
だが、これだけは言わせてくれ。野球をやめたことを終点にするな、通過点にしろ。
今までの経験は、必ずこれから先の人生でも生きてくる。
人生に無駄な経験なんかない。そう信じて生きていけ』
去る者がいる一方で、マウンドに復帰する者もいる。
かつて甲子園を目指して腕を鳴らしていたが、完全に野球をやめ、青島製作所で派遣社員として働いている元投手がいた。
自分を立てる為なら、他人を潰すことも陥れることも厭わない人間というのは、どんな世界にもいるもので、それは野球界も同様であり、熱闘甲子園が正々堂々爽やかな場所だと言い切るのは、奇麗ごとに過ぎる。
多感な高校時代に、スポーツ選手でありながら卑怯な人間とスポーツに打算と損得勘定を持ち込む大人の事情を目の当たりにし、人間不信に陥り野球を止めてしまった元投手に監督はいう。
『お前には、まだやり残したことがあるはずだ』
『このまま野球を止めたら、何も解決しない。
お前を救えるのは、お前しかいない。―待ってるからな』
この監督、去る決意をする者に激励の言葉をかけるが、実は肘が治るのを待ってやりたいとも思っていた。待ちながらも、激励の言葉で見送り、新たな一歩を逡巡する者には、「待っているから来い」と声をかける、監督。
まだまだプレイヤーの気分が強く、躓いては嘆き壁にぶつかっては落ち込んで、支えてもらうことばかりの私だが、そろそろ次のプレーヤーへ、この監督のような言葉をかけることのできる人になりたいと思いつつ、読んでいた。
そして、監督と選手がそれぞれの人生をかけて戦う、「試合」。
青島製作所の会長にして、野球部を設立した青島は、ルーズヴェルト大統領の言葉を引用して、野球は「7対8の勝負が面白い」という。
炎天下、裸足でスタンドに立つ応援団にいたせいか、7対8のような試合はご遠慮願いたいというのが正直なところで、ちぎっては投げ・ちぎっては投げの息づまるような試合というか、二時間ちょっとの引き締まった勝負が個人的には好きなのだが、興業あるいは楽しんで見る分には、「7対8」は面白いのかもしれない。
ルーズヴェルトの「7対8」は兎も角、青島会長は点の取り方にも一家言もっている。
『一点ずつ取り合うシーソーゲームもいいが、私としては点差を追いつき逆転するところに醍醐味を感じるんだ。一点ずつそれぞれが加点して四対四になったのではなく、最初に四点取られて追い付いたから、この試合はこの試合は余計におもしろい。
絶望と歓喜は紙一重さ。まるで、何かと同じだな』
このカリスマ的会長の言葉を聞いた現社長は、その「何か」を経営に当てはめる。
『青島製作所の経営が七対ゼロの劣勢なら、八点取ればいいじゃないか。
自分を信じて。社員を信じて。その先にある勝利の歓喜を信じて―。』
「何か」は人にとって、それぞれ違うが、その心意気は全てに通じるところがある。
そして、この言葉を読み、かつて高校球児だったという野球部長の「スミ1の人生にするな」という言葉を思い出した。
スミ1どころか、七対ゼロのゼロ行進のような人生かもしれないが、自分を信じて、これから八点取りにいけばいいし、八点取る人を応援するのも、試合の一部だと思っている。
本書には「応援しに来たんですから信じましょう」「応援団が見放したら誰が応援するんですか」というセリフああるが、確かに、試合は何も選手だけで成り立っているわけではないのだ。
自分を信じて、頑張る人を応援する。
知性の声は小さく、自分の利益のためなら他者を追い落とし捻りつぶそうと手ぐすね引いている者が跋扈する世の中だが、正しく頑張る人を応援し続けたいと思っている。
そして、まっとうに頑張る人が、池井戸作品のように最後には勝利の歓喜に包まれると信じたいと思っている。
一部の国にしか愛好者がいない、とかいう理由で一時期オリンピック競技から外されていた野球とソフトボールが復活する。
<IOCと連携、東京五輪で野球・ソフト復活 追加5競技採用決定> 2016/8/4 10:52日本経済新聞より一部引用
国際オリンピック委員会(IOC)は3日、総会で2020年東京五輪組織委員会から追加種目として提案された野球・ソフトボール、空手、サーフィン、スポーツクライミング、スケートボードの5競技18種目を承認した。野球・ソフトは08年北京以来の復活、他の4競技は初採用となる。
甲子園・五輪と野球の話題が続いたので、何か野球の話はないかと思い手に取ったのが、「ルーズヴェルト・ゲーム」(池井戸潤)だ。
云わずと知れたことだが、池井戸作品なので経済・経営が本題ではある。
技術力は業界トップだが営業力と資本規模に弱さを持つ中堅メーカー・青島製作所は、突然世界を襲った経済危機への対処が遅れ、経費削減・リストラの敢行をもってしても、経営の傾きは避けることができなかった。そこへアクドイ営業戦略には定評があるものの技術力に難のあるライバル会社・ミツワ電器が合併策を持ちかけ、乗っ取りを画策してくる。
この青島製作所のお荷物的存在で廃部の危機をささやかれるのが、成績低迷中の野球部だが、野球部にもミツワ電器には負けられないという男の意地があった。
青島製作所とその野球部の復活・逆転はあるのかを、これまた池井戸作品の特徴である「夢」論とあわせて爽やかに描いているのが「ルーズヴェルト・ゲーム」だが、今回は野球の話題を中心に記しておこうと思う。
マウンドを去る者、マウンドに復帰する者
景気が良ければ、ユニフォームを脱いだ後も社員として会社に残ることもできるだろうが、正社員をリストラしている不況の嵐では、肘をやられて投手生命を絶たれた者に、居場所はない。
潔く会社を去る決意をする選手に監督がかける言葉は、思うように事が運ばず軌道修正を繰り返す私には印象的な言葉だった。
『お前の人生だから、どう生きるかはお前が考えて決めろ。
だが、これだけは言わせてくれ。野球をやめたことを終点にするな、通過点にしろ。
今までの経験は、必ずこれから先の人生でも生きてくる。
人生に無駄な経験なんかない。そう信じて生きていけ』
去る者がいる一方で、マウンドに復帰する者もいる。
かつて甲子園を目指して腕を鳴らしていたが、完全に野球をやめ、青島製作所で派遣社員として働いている元投手がいた。
自分を立てる為なら、他人を潰すことも陥れることも厭わない人間というのは、どんな世界にもいるもので、それは野球界も同様であり、熱闘甲子園が正々堂々爽やかな場所だと言い切るのは、奇麗ごとに過ぎる。
多感な高校時代に、スポーツ選手でありながら卑怯な人間とスポーツに打算と損得勘定を持ち込む大人の事情を目の当たりにし、人間不信に陥り野球を止めてしまった元投手に監督はいう。
『お前には、まだやり残したことがあるはずだ』
『このまま野球を止めたら、何も解決しない。
お前を救えるのは、お前しかいない。―待ってるからな』
この監督、去る決意をする者に激励の言葉をかけるが、実は肘が治るのを待ってやりたいとも思っていた。待ちながらも、激励の言葉で見送り、新たな一歩を逡巡する者には、「待っているから来い」と声をかける、監督。
まだまだプレイヤーの気分が強く、躓いては嘆き壁にぶつかっては落ち込んで、支えてもらうことばかりの私だが、そろそろ次のプレーヤーへ、この監督のような言葉をかけることのできる人になりたいと思いつつ、読んでいた。
そして、監督と選手がそれぞれの人生をかけて戦う、「試合」。
青島製作所の会長にして、野球部を設立した青島は、ルーズヴェルト大統領の言葉を引用して、野球は「7対8の勝負が面白い」という。
炎天下、裸足でスタンドに立つ応援団にいたせいか、7対8のような試合はご遠慮願いたいというのが正直なところで、ちぎっては投げ・ちぎっては投げの息づまるような試合というか、二時間ちょっとの引き締まった勝負が個人的には好きなのだが、興業あるいは楽しんで見る分には、「7対8」は面白いのかもしれない。
ルーズヴェルトの「7対8」は兎も角、青島会長は点の取り方にも一家言もっている。
『一点ずつ取り合うシーソーゲームもいいが、私としては点差を追いつき逆転するところに醍醐味を感じるんだ。一点ずつそれぞれが加点して四対四になったのではなく、最初に四点取られて追い付いたから、この試合はこの試合は余計におもしろい。
絶望と歓喜は紙一重さ。まるで、何かと同じだな』
このカリスマ的会長の言葉を聞いた現社長は、その「何か」を経営に当てはめる。
『青島製作所の経営が七対ゼロの劣勢なら、八点取ればいいじゃないか。
自分を信じて。社員を信じて。その先にある勝利の歓喜を信じて―。』
「何か」は人にとって、それぞれ違うが、その心意気は全てに通じるところがある。
そして、この言葉を読み、かつて高校球児だったという野球部長の「スミ1の人生にするな」という言葉を思い出した。
スミ1どころか、七対ゼロのゼロ行進のような人生かもしれないが、自分を信じて、これから八点取りにいけばいいし、八点取る人を応援するのも、試合の一部だと思っている。
本書には「応援しに来たんですから信じましょう」「応援団が見放したら誰が応援するんですか」というセリフああるが、確かに、試合は何も選手だけで成り立っているわけではないのだ。
自分を信じて、頑張る人を応援する。
知性の声は小さく、自分の利益のためなら他者を追い落とし捻りつぶそうと手ぐすね引いている者が跋扈する世の中だが、正しく頑張る人を応援し続けたいと思っている。
そして、まっとうに頑張る人が、池井戸作品のように最後には勝利の歓喜に包まれると信じたいと思っている。