図書館で、表紙と題名を見るなり借りることを決めた本だが、読み終わり、呆然とした。
「来たれ、野球部」(鹿島田真希)
一体この本は何なのだろうか?
表紙には、青空のもと今時の高校生(男女)が頬を寄せあおうとする瞬間と硬球が描かれている。
それは、本書の題名に合わせたものなのだろうが、そもそも本書の題名に「野球部」という文字を使う必要があったのか、一読した時、そればかりが気になった。
本の帯には『頭脳・容姿・運動神経の三拍子揃った「選ばれし」喜多義孝と、幼馴染みの目立たない「ふつうの」宮村奈緒。10年前に自殺した女子高生の一冊の日記をきっかけに学園のエースは異変をきたす。その時、彼女はーー!?』とあるので、作者にとって頭脳・容姿・運動神経と三拍子揃った男子高校生の必要条件は、野球部なのかもしれない。
だが、おそらく作者は高校野球というものを、と云うより野球をあまりご存知ないのかもしれない。
主人公の一人である喜多義孝は高校に入学するなりエースで三番、バッテリーを組む相手も、入学したてのクラスメート。高1の夏は不幸な出来事により地方大会出場を逃すが、二年の夏に甲子園出場を決定するところで終わる物語。
これが、朝から晩まで野球に明け暮れた高校生活を送 っている青春ドラマならば未だしも分かるが、朝練もなく、放課後の部活も暗くなる前には終わっていそうな練習で、’’来たれ、野球部!甲子園出場’’、そのうえエースは超進学校で学年1の秀才とくれば、あまりに出来過ぎである。
本書の作者が、眩いばかりの青春ものを書くつもりがなかったのは確かだろう。
作者は、この世代特有の根拠のない自信と その裏返しの卑屈さを、愛と生と死にからめて描きたかったのだろう、そしてその明と暗のギャップを際立たせる設定として高校球児というキャラが使い勝手が良かったのだと思う。
だが、作者自身が本の帯に記す『私は文学を高尚なものにはしたくはなくて、ドストエフスキーやバルザックのように三面記事を読んでネタにするような娯楽読みものでありたいと、この小説を書きました』という意図に偽りがないのであれば、三面記事とは日常に溢れているわけであるから尚更、その日常的記述はリアリティある設定にするべきであったと思うのだ。
こうまで厳しい感想を持つのは、リアル高校球児の日常を、今まさに心から応援しながらも胸を痛めてもいるからだ。
中学までの野球部とは違い、高校で野球を続けるのは、それが特に強豪校ならば、かなり厳しい練習となる。そのうえ、その高校が進学校ならば疲れ切った身体に鞭打ち机にも向かわねばならない。
そうして練習と勉強に明け暮れても、エースの座を守れるともかぎらない。
その辛さを、この数か月目の当たりにしてきただけに、小説という虚構の世界の話だとしても腹立たしく感じたのだが、それでも作者が敢えて「来たれ、野球部」とした意図を探りたいと再読すると、腹立ち紛れに読んだ時には気付かなかったものが、少しだけ見えてきた。
本書には、3つの自殺が書かれている。
理由なく命を絶つ人、傍目には幸せの絶頂と思われる状況にもかかわらず ふとしたことから変調をきたし死を選ぶ人、その二つの自殺に間接的に直接的にかかわり命を絶とうとする人。
そして、その三つの命の瀬戸際すべてを間近に見た教師もまた命を絶つことを、いつも考えていた。
安定剤を飲みながら教壇に立つ この教師が、今日こそ死んでしまおうと思う時に限って目に入ってくる野球部のノック。
野球部のノックを見続けたことで教師が発見したものこそが、作者が伝えたかったことなのだと思われる。
死にたいと思いながら、ノックを見つめる教師は考える。 (『 』「来たれ、野球部」より)
暑い日も寒い日も、どろどろに汚れて、わざわざ苦しんで、それにも拘らず敗北するかもしれない、そのことに意味があるのだろうか。
『生きるに値しない世界で、こんなことしていて、結果、どんなご褒美をもらえるのかしら』と考える。
だが、絶望のなかノックを見続けている教師は、大切なのはご褒美じゃないと思いはじめる。
『ご褒美なんかじゃない。苦しんだってその後、いいことがあるとも限らない。』
『人はしぶとい。人はしたたかだ。たとえ生きていて、いいことがなくても、何かを発見すると、取り敢えず絶望を延期して、明日一日生きてみようと思う』
精一杯頑張れば、試合で勝とうが負けようが、新たな発見がある。
精一杯生きていれば、いい事のなかにも悪い事のなかにも、新たな発見がある。
そんな発見こそが明日を生きる活力となるのだと、死にたい病の教師が気付いた時、野球人に『野球と人生を肯定していてほしい』と願うようになる。
本書の最後にある この場面を再読したとき、はじめて共感する気持ちを覚えていた。
そして、その共感は、本書により初めて知った鹿島田真希氏という作家への関心へと繋がっていった。
申し訳ないが、本書がドストエフスキーの「罪と罰」に匹敵するような作品なのか訝しいし、そもそも「罪と罰」が三面記事的な娯楽読みものとも思えないが、ひょんな事から強烈な印象を残してくれた作家さんなので、数々の受賞作をこれから少しずつ読んでいきたいと思っている。
追記
J君 昨年秋から勉強と部活のバランスに途惑っていたけれど、年明けには自分で答えを出し吹っ切れた顔をしてると安心していたのだが。
春先からまた何やら苛立っていると思っていたら、長年守ってきたマウンドを去らねばならなくなっていたんだね、春の大会後、はじめて知ったよ。
投手には投手の、外野には外野の発見があるよ、J君
どろどろになって汚れて、わざわざ苦しんで、それにも拘らずポジションを変わることも、試合に出られないこともあるよ。
でも、どのような時にも発見があるそうだよ J君
それを十分に味わい、野球と人生を肯定してほしいんだよ J君
頑張れ! J君
追記
高校野球の実情をあまりご存知ないにも拘らず、本書の主人公を野球部員にし、タイトルを「来たれ、野球部」とした鹿島田氏は、実は相当の野球好きではないかと、今では思っていたりする。
「来たれ、野球部」(鹿島田真希)
一体この本は何なのだろうか?
表紙には、青空のもと今時の高校生(男女)が頬を寄せあおうとする瞬間と硬球が描かれている。
それは、本書の題名に合わせたものなのだろうが、そもそも本書の題名に「野球部」という文字を使う必要があったのか、一読した時、そればかりが気になった。
本の帯には『頭脳・容姿・運動神経の三拍子揃った「選ばれし」喜多義孝と、幼馴染みの目立たない「ふつうの」宮村奈緒。10年前に自殺した女子高生の一冊の日記をきっかけに学園のエースは異変をきたす。その時、彼女はーー!?』とあるので、作者にとって頭脳・容姿・運動神経と三拍子揃った男子高校生の必要条件は、野球部なのかもしれない。
だが、おそらく作者は高校野球というものを、と云うより野球をあまりご存知ないのかもしれない。
主人公の一人である喜多義孝は高校に入学するなりエースで三番、バッテリーを組む相手も、入学したてのクラスメート。高1の夏は不幸な出来事により地方大会出場を逃すが、二年の夏に甲子園出場を決定するところで終わる物語。
これが、朝から晩まで野球に明け暮れた高校生活を送 っている青春ドラマならば未だしも分かるが、朝練もなく、放課後の部活も暗くなる前には終わっていそうな練習で、’’来たれ、野球部!甲子園出場’’、そのうえエースは超進学校で学年1の秀才とくれば、あまりに出来過ぎである。
本書の作者が、眩いばかりの青春ものを書くつもりがなかったのは確かだろう。
作者は、この世代特有の根拠のない自信と その裏返しの卑屈さを、愛と生と死にからめて描きたかったのだろう、そしてその明と暗のギャップを際立たせる設定として高校球児というキャラが使い勝手が良かったのだと思う。
だが、作者自身が本の帯に記す『私は文学を高尚なものにはしたくはなくて、ドストエフスキーやバルザックのように三面記事を読んでネタにするような娯楽読みものでありたいと、この小説を書きました』という意図に偽りがないのであれば、三面記事とは日常に溢れているわけであるから尚更、その日常的記述はリアリティある設定にするべきであったと思うのだ。
こうまで厳しい感想を持つのは、リアル高校球児の日常を、今まさに心から応援しながらも胸を痛めてもいるからだ。
中学までの野球部とは違い、高校で野球を続けるのは、それが特に強豪校ならば、かなり厳しい練習となる。そのうえ、その高校が進学校ならば疲れ切った身体に鞭打ち机にも向かわねばならない。
そうして練習と勉強に明け暮れても、エースの座を守れるともかぎらない。
その辛さを、この数か月目の当たりにしてきただけに、小説という虚構の世界の話だとしても腹立たしく感じたのだが、それでも作者が敢えて「来たれ、野球部」とした意図を探りたいと再読すると、腹立ち紛れに読んだ時には気付かなかったものが、少しだけ見えてきた。
本書には、3つの自殺が書かれている。
理由なく命を絶つ人、傍目には幸せの絶頂と思われる状況にもかかわらず ふとしたことから変調をきたし死を選ぶ人、その二つの自殺に間接的に直接的にかかわり命を絶とうとする人。
そして、その三つの命の瀬戸際すべてを間近に見た教師もまた命を絶つことを、いつも考えていた。
安定剤を飲みながら教壇に立つ この教師が、今日こそ死んでしまおうと思う時に限って目に入ってくる野球部のノック。
野球部のノックを見続けたことで教師が発見したものこそが、作者が伝えたかったことなのだと思われる。
死にたいと思いながら、ノックを見つめる教師は考える。 (『 』「来たれ、野球部」より)
暑い日も寒い日も、どろどろに汚れて、わざわざ苦しんで、それにも拘らず敗北するかもしれない、そのことに意味があるのだろうか。
『生きるに値しない世界で、こんなことしていて、結果、どんなご褒美をもらえるのかしら』と考える。
だが、絶望のなかノックを見続けている教師は、大切なのはご褒美じゃないと思いはじめる。
『ご褒美なんかじゃない。苦しんだってその後、いいことがあるとも限らない。』
『人はしぶとい。人はしたたかだ。たとえ生きていて、いいことがなくても、何かを発見すると、取り敢えず絶望を延期して、明日一日生きてみようと思う』
精一杯頑張れば、試合で勝とうが負けようが、新たな発見がある。
精一杯生きていれば、いい事のなかにも悪い事のなかにも、新たな発見がある。
そんな発見こそが明日を生きる活力となるのだと、死にたい病の教師が気付いた時、野球人に『野球と人生を肯定していてほしい』と願うようになる。
本書の最後にある この場面を再読したとき、はじめて共感する気持ちを覚えていた。
そして、その共感は、本書により初めて知った鹿島田真希氏という作家への関心へと繋がっていった。
申し訳ないが、本書がドストエフスキーの「罪と罰」に匹敵するような作品なのか訝しいし、そもそも「罪と罰」が三面記事的な娯楽読みものとも思えないが、ひょんな事から強烈な印象を残してくれた作家さんなので、数々の受賞作をこれから少しずつ読んでいきたいと思っている。
追記
J君 昨年秋から勉強と部活のバランスに途惑っていたけれど、年明けには自分で答えを出し吹っ切れた顔をしてると安心していたのだが。
春先からまた何やら苛立っていると思っていたら、長年守ってきたマウンドを去らねばならなくなっていたんだね、春の大会後、はじめて知ったよ。
投手には投手の、外野には外野の発見があるよ、J君
どろどろになって汚れて、わざわざ苦しんで、それにも拘らずポジションを変わることも、試合に出られないこともあるよ。
でも、どのような時にも発見があるそうだよ J君
それを十分に味わい、野球と人生を肯定してほしいんだよ J君
頑張れ! J君
追記
高校野球の実情をあまりご存知ないにも拘らず、本書の主人公を野球部員にし、タイトルを「来たれ、野球部」とした鹿島田氏は、実は相当の野球好きではないかと、今では思っていたりする。