「未来へ続く最後の武士道 その弐」より
親から子へと語られ伝わる物語もあれば、語られない物語もあるが、同じ家・郷土・風土のなかで過すことで、語られずとも伝わり受け継がれる大切なものがあるのだと思う。
雅子妃殿下の高祖父・田村寛一郎氏が「私草大日本憲法法案」を起草するにあたり、幕末維新前後の村上藩の混迷に思うところがなかったはずがない。それは、条文では「国安を妨害スルニ非ザレバ」という留保を付けながらも自由権を詳細に規定し、そのうえ財産権まで規定していることにも表れていると思うが、より概括的にみれば「法の支配」を求めていたように思えてならない。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」では、正義や大義がどこにあるのか分からない。
一県会議員であった寛一郎氏が憲法私擬を起草するとき、正しいとされるものが規定されていること、正しいとされる「法」のもとにあることを望んでいたように見えるのは、そこが賊軍の誹りを受けてしまった土地柄であることと無関係ではないのではないか。
そして、寛一郎氏の曾孫として育つ五人のうち四人までが法の執行や番人という職業を選んでいるのは、そこがかつて無法地帯となったため父祖の代が苦労に苦労を重ねたことを、語られずとも御存知だったからではないだろうか。
正しい法が、正しい手続きで制定され、それが適切に執行され、又それを見張る機関が存在することの重要性、そして、その基礎となる国民の遵法精神。
この法を守るという精神を雅子妃殿下が強く受け継がれ守られているため、今も苦しみ続けておられるように思えてならない。
長年お子様を授かる努力をされていた皇太子ご夫妻は、なんらかの治療をされていたと思われるが、性別を選択する産み分けはされなかった。これは法整備が遅れている分野でガイドラインに頼ってはいるが、日本産婦人科学会は明確に禁止しており、現時点では法的にも倫理的にも問題の多い手段である。
確かに命を授かりたいという想いは、愛のある夫婦にとっては痛切なものがあり、命を重んじるという意味において、進歩する科学技術の恩恵を受けるということは必要だし許されるべきだと思うが、性別を選択して子供を宿すという行為は、命を授かるという厳粛さからも尊さからも遠いところにある行為かもしれない。
倫理的にも法整備上も問題の多い男女の産み分けという手段。
皇太子様が憲法第一章第一条の御立場に求められる潔白さを理解されていることや、雅子妃殿下が父祖の代から受け継いだリーガルマインドを有しておられることから、その手段を良しとされなかったのではないだろうか。
もちろん、産み分け云々は私の独りよがりな感想であり、かなり我田引水が過ぎる考えであることは承知している。
しかし、法的にも倫理的にも正しい道を採られた皇太子ご夫妻が、授かったたったお一人のお姫様ともども、女子しかいない東宮という理由で苦しみ続けておられる御姿は、拝見するに忍びない。
また、「五郎治殿御始末」(浅田次郎)で賊軍(桑名藩)の御始末を読んだことから、同じく賊軍となった二本松藩や村上藩を思い出し、朝河貫一氏や小和田家について書いてきたが、本来、皇太子妃の御実家とはいえ民間人として暮らしておられる方の御先祖でもある事柄について、拙ブログなどで書き記すのは如何なものかということは、自分自身重々承知している。ただ、ネットではあまりに誤った情報が錯綜しており、それが「嘘も百回言えば本当になる」的手法で意図的に拡散され続けているので、一言言わずにはおれなかった。
最後にもう一度、本題に戻って、「最後の日本人~朝河貫一の生涯~」(安部善雄)の解説を読む。
二本松藩が戊辰戦役で死闘を戦い壊滅して朝敵の汚名を着たことを、その戦いの後に生まれた貫一に父は語らなかったかもしれないが、父から子に確実に伝わったものはあるのだろう。そして、それは同じ風土のなかで育った小和田家も同様であると思われる。
村上藩士の下級武士であった小和田家や高祖父が記した「私草大日本憲法法案」を通じて雅子妃殿下には、重い敗北の歴史や全き法を求め従う精神が受け継がれているのかもしれないが、それだけでは、ない。
武士道の何たるかを記した葉隠で有名な佐賀藩の藩士江頭家の子孫・江頭安太郎海軍中将(雅子妃殿下の曽祖父)は、1886年(明治19年)明治天皇に 「これからの日本人は、もっと外国に出て国際的にならなければいけない。皇室も積極的に外交に務められるべきだ」といった趣旨の話をされたそうだ。
これは、海軍兵学校の首席卒業者に許される「天皇陛下に拝謁し将来の抱負を述べる」という習わしに則り、全教科首席卒業の安太郎氏が述べた言葉だ。
その日から約100年後、外交官であった曾孫は皇室親善外交を期待され皇太子妃となられたのだ。
「繋がっている歴史から学ぶ」
まさに武士道の歴史は未来に繋がっているのだ
親から子へと語られ伝わる物語もあれば、語られない物語もあるが、同じ家・郷土・風土のなかで過すことで、語られずとも伝わり受け継がれる大切なものがあるのだと思う。
雅子妃殿下の高祖父・田村寛一郎氏が「私草大日本憲法法案」を起草するにあたり、幕末維新前後の村上藩の混迷に思うところがなかったはずがない。それは、条文では「国安を妨害スルニ非ザレバ」という留保を付けながらも自由権を詳細に規定し、そのうえ財産権まで規定していることにも表れていると思うが、より概括的にみれば「法の支配」を求めていたように思えてならない。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」では、正義や大義がどこにあるのか分からない。
一県会議員であった寛一郎氏が憲法私擬を起草するとき、正しいとされるものが規定されていること、正しいとされる「法」のもとにあることを望んでいたように見えるのは、そこが賊軍の誹りを受けてしまった土地柄であることと無関係ではないのではないか。
そして、寛一郎氏の曾孫として育つ五人のうち四人までが法の執行や番人という職業を選んでいるのは、そこがかつて無法地帯となったため父祖の代が苦労に苦労を重ねたことを、語られずとも御存知だったからではないだろうか。
正しい法が、正しい手続きで制定され、それが適切に執行され、又それを見張る機関が存在することの重要性、そして、その基礎となる国民の遵法精神。
この法を守るという精神を雅子妃殿下が強く受け継がれ守られているため、今も苦しみ続けておられるように思えてならない。
長年お子様を授かる努力をされていた皇太子ご夫妻は、なんらかの治療をされていたと思われるが、性別を選択する産み分けはされなかった。これは法整備が遅れている分野でガイドラインに頼ってはいるが、日本産婦人科学会は明確に禁止しており、現時点では法的にも倫理的にも問題の多い手段である。
確かに命を授かりたいという想いは、愛のある夫婦にとっては痛切なものがあり、命を重んじるという意味において、進歩する科学技術の恩恵を受けるということは必要だし許されるべきだと思うが、性別を選択して子供を宿すという行為は、命を授かるという厳粛さからも尊さからも遠いところにある行為かもしれない。
倫理的にも法整備上も問題の多い男女の産み分けという手段。
皇太子様が憲法第一章第一条の御立場に求められる潔白さを理解されていることや、雅子妃殿下が父祖の代から受け継いだリーガルマインドを有しておられることから、その手段を良しとされなかったのではないだろうか。
もちろん、産み分け云々は私の独りよがりな感想であり、かなり我田引水が過ぎる考えであることは承知している。
しかし、法的にも倫理的にも正しい道を採られた皇太子ご夫妻が、授かったたったお一人のお姫様ともども、女子しかいない東宮という理由で苦しみ続けておられる御姿は、拝見するに忍びない。
また、「五郎治殿御始末」(浅田次郎)で賊軍(桑名藩)の御始末を読んだことから、同じく賊軍となった二本松藩や村上藩を思い出し、朝河貫一氏や小和田家について書いてきたが、本来、皇太子妃の御実家とはいえ民間人として暮らしておられる方の御先祖でもある事柄について、拙ブログなどで書き記すのは如何なものかということは、自分自身重々承知している。ただ、ネットではあまりに誤った情報が錯綜しており、それが「嘘も百回言えば本当になる」的手法で意図的に拡散され続けているので、一言言わずにはおれなかった。
最後にもう一度、本題に戻って、「最後の日本人~朝河貫一の生涯~」(安部善雄)の解説を読む。
二本松藩が戊辰戦役で死闘を戦い壊滅して朝敵の汚名を着たことを、その戦いの後に生まれた貫一に父は語らなかったかもしれないが、父から子に確実に伝わったものはあるのだろう。そして、それは同じ風土のなかで育った小和田家も同様であると思われる。
村上藩士の下級武士であった小和田家や高祖父が記した「私草大日本憲法法案」を通じて雅子妃殿下には、重い敗北の歴史や全き法を求め従う精神が受け継がれているのかもしれないが、それだけでは、ない。
武士道の何たるかを記した葉隠で有名な佐賀藩の藩士江頭家の子孫・江頭安太郎海軍中将(雅子妃殿下の曽祖父)は、1886年(明治19年)明治天皇に 「これからの日本人は、もっと外国に出て国際的にならなければいけない。皇室も積極的に外交に務められるべきだ」といった趣旨の話をされたそうだ。
これは、海軍兵学校の首席卒業者に許される「天皇陛下に拝謁し将来の抱負を述べる」という習わしに則り、全教科首席卒業の安太郎氏が述べた言葉だ。
その日から約100年後、外交官であった曾孫は皇室親善外交を期待され皇太子妃となられたのだ。
「繋がっている歴史から学ぶ」
まさに武士道の歴史は未来に繋がっているのだ