何を見ても何かを思い出す

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未来へ繋がる最後の武士道 その参

2016-03-08 23:14:00 | ひとりごと
「未来へ続く最後の武士道 その弐」より

親から子へと語られ伝わる物語もあれば、語られない物語もあるが、同じ家・郷土・風土のなかで過すことで、語られずとも伝わり受け継がれる大切なものがあるのだと思う。

雅子妃殿下の高祖父・田村寛一郎氏が「私草大日本憲法法案」を起草するにあたり、幕末維新前後の村上藩の混迷に思うところがなかったはずがない。それは、条文では「国安を妨害スルニ非ザレバ」という留保を付けながらも自由権を詳細に規定し、そのうえ財産権まで規定していることにも表れていると思うが、より概括的にみれば「法の支配」を求めていたように思えてならない。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」では、正義や大義がどこにあるのか分からない。
一県会議員であった寛一郎氏が憲法私擬を起草するとき、正しいとされるものが規定されていること、正しいとされる「法」のもとにあることを望んでいたように見えるのは、そこが賊軍の誹りを受けてしまった土地柄であることと無関係ではないのではないか。
そして、寛一郎氏の曾孫として育つ五人のうち四人までが法の執行や番人という職業を選んでいるのは、そこがかつて無法地帯となったため父祖の代が苦労に苦労を重ねたことを、語られずとも御存知だったからではないだろうか。

正しい法が、正しい手続きで制定され、それが適切に執行され、又それを見張る機関が存在することの重要性、そして、その基礎となる国民の遵法精神。
この法を守るという精神を雅子妃殿下が強く受け継がれ守られているため、今も苦しみ続けておられるように思えてならない。
長年お子様を授かる努力をされていた皇太子ご夫妻は、なんらかの治療をされていたと思われるが、性別を選択する産み分けはされなかった。これは法整備が遅れている分野でガイドラインに頼ってはいるが、日本産婦人科学会は明確に禁止しており、現時点では法的にも倫理的にも問題の多い手段である。
確かに命を授かりたいという想いは、愛のある夫婦にとっては痛切なものがあり、命を重んじるという意味において、進歩する科学技術の恩恵を受けるということは必要だし許されるべきだと思うが、性別を選択して子供を宿すという行為は、命を授かるという厳粛さからも尊さからも遠いところにある行為かもしれない。
倫理的にも法整備上も問題の多い男女の産み分けという手段。
皇太子様が憲法第一章第一条の御立場に求められる潔白さを理解されていることや、雅子妃殿下が父祖の代から受け継いだリーガルマインドを有しておられることから、その手段を良しとされなかったのではないだろうか。

もちろん、産み分け云々は私の独りよがりな感想であり、かなり我田引水が過ぎる考えであることは承知している。
しかし、法的にも倫理的にも正しい道を採られた皇太子ご夫妻が、授かったたったお一人のお姫様ともども、女子しかいない東宮という理由で苦しみ続けておられる御姿は、拝見するに忍びない。

また、「五郎治殿御始末」(浅田次郎)で賊軍(桑名藩)の御始末を読んだことから、同じく賊軍となった二本松藩や村上藩を思い出し、朝河貫一氏や小和田家について書いてきたが、本来、皇太子妃の御実家とはいえ民間人として暮らしておられる方の御先祖でもある事柄について、拙ブログなどで書き記すのは如何なものかということは、自分自身重々承知している。ただ、ネットではあまりに誤った情報が錯綜しており、それが「嘘も百回言えば本当になる」的手法で意図的に拡散され続けているので、一言言わずにはおれなかった。

最後にもう一度、本題に戻って、「最後の日本人~朝河貫一の生涯~」(安部善雄)の解説を読む。
二本松藩が戊辰戦役で死闘を戦い壊滅して朝敵の汚名を着たことを、その戦いの後に生まれた貫一に父は語らなかったかもしれないが、父から子に確実に伝わったものはあるのだろう。そして、それは同じ風土のなかで育った小和田家も同様であると思われる。
村上藩士の下級武士であった小和田家や高祖父が記した「私草大日本憲法法案」を通じて雅子妃殿下には、重い敗北の歴史や全き法を求め従う精神が受け継がれているのかもしれないが、それだけでは、ない。

武士道の何たるかを記した葉隠で有名な佐賀藩の藩士江頭家の子孫・江頭安太郎海軍中将(雅子妃殿下の曽祖父)は、1886年(明治19年)明治天皇に 「これからの日本人は、もっと外国に出て国際的にならなければいけない。皇室も積極的に外交に務められるべきだ」といった趣旨の話をされたそうだ。
これは、海軍兵学校の首席卒業者に許される「天皇陛下に拝謁し将来の抱負を述べる」という習わしに則り、全教科首席卒業の安太郎氏が述べた言葉だ。
その日から約100年後、外交官であった曾孫は皇室親善外交を期待され皇太子妃となられたのだ。 
「繋がっている歴史から学ぶ」

まさに武士道の歴史は未来に繋がっているのだ

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未来に繋がる最後の武士道 その弐

2016-03-08 22:58:51 | ひとりごと
「未来へ繋がる最後の武士道 その壱」つづき

日本人で初めてアメリカの大学(イェール大学)で教授となった朝河貫一は、日露開戦時には「日露衝突―その若干の原因」という著書において、東アジアにおける国際的関係 -日本の台頭と南下政策を強めつロシアとの関係と清国でのヨーロッパの植民地政策 -を冷静に分析し、日本がロシアと戦端を開かずにはいられなかったと、日露戦争における日本の正当性を訴える活動もしたし、日米開戦を未発とするべくルーズベルトに天皇陛下宛ての親書を書くことも勧めていたという。

朝河貫一は、外国の封建制と日本のそれとを国際比較のなかにおきながら追及するとという歴史意識をもっていたが、その『原初的なモチーフは‘’武士道‘’の本質を見極めることにあった』と「最後の日本人~朝河貫一の生涯~」の筆者・安部善雄氏は記している。
「最後の日本人」の解説より 
『朝河貫一は1873年(明治6年)福島県二本松の城下に生まれた。朝河家は藩の砲術指南を勤める家柄だったというが、貫一の生まれるわずか五年前に、二本松藩は戊辰戦役で会津の先鋒として死闘を戦い、壊滅して朝敵の汚名を着たことを思えば、たとえ父親の口は重く敗北の歴史は子に語られなかったとしても、後にこの少年が歴史に目を開いていくその背後に、二本松の戦争の傷痕が翳をおとしていたのではないかと思わずにはいられない』

父の口は重く敗北の歴史は語られずとも、戦いには大義が必要であること、大義があれど負ければ通用せぬこと、負けてなお誇りを失わないことなどは、子に伝わっていたのだろう、世界に目を向け世界で活躍する貫一の胸にあったのは、大義と平和ではなかったか。

同じく朝敵の汚名をきた村上藩の空気のなかで育った小和田毅夫氏(雅子妃殿下の祖父)は五人のご子息が五人とも東大で学ぶという秀才一家で、そのうちの一人が雅子妃殿下の父・恒氏だ(外務事務次官退官後、国連大使や国際司法裁判所所長を歴任、現在は国際司法裁判所判事)。恒氏は貫一と同じく世界に目を向け活躍する機会を得たとはいえ、戦後外交は吉田ドクトリンを大原則に行われており、そこでは一外交官の思想が語られるわけでも、それにより外交政策が決まるわけでもないので、父祖の代から伝わるものは、ご兄弟それぞれの道から拝察してみたいと思う。

毅夫氏の妻・静さん(雅子妃殿下の祖母)は『越後塩沢(新潟県南魚沼郡塩沢)の名家・田村家の出身である』 塩沢は織物の名産地として名高いが 『明治時代の田村家は塩沢で富貴を誇った商家であった』 
静さんの父・田村又四郎氏(雅子妃殿下の曽祖父)は石高百石の村上藩士の嵩岡家の子孫であったが田村家に養子となり、新潟中学で国語漢文の教員を勤めていた。
この祖父・又四郎と父・毅夫の影響が大きかったのだろう、長男・顕氏は大学で漢文学の教鞭をとる以外にも優れた漢文の辞書を多数執筆されているが、顕氏以外の4人の兄弟が、最終的には法に携わる職業を選ばれているのが興味深い(次男・四男・五男が官僚、三男の隆氏は三井銀行に勤務された後に弁護士に転じる)。
これには、恒氏ら兄弟の曽祖父・田村寛一郎氏(雅子妃殿下の高祖父)の影響も伺えるのではないだろうか。

『田村寛一郎氏は新潟県議、塩沢町長の職に長く在籍し、地方自治に功績があったことで知られているが、もう一つ政治的面でも功績を残している。明治二十年七月一日、寛一郎氏は「私草大日本帝国憲法案」という「私擬憲法」を起草した。「私擬憲法」という擁護は現在では一般になじみのない用語といえるが、憲法・法律学や政治学、歴史学(日本近現代史)の研究者の間では頻繁に用いられる』 もので、日本歴史学会編「国史大辞典」(第六巻)の私擬憲法の項目のなかに、田村寛一朗の名も記されている。
寛一朗氏は、『「私草大日本憲法法案」の第八十六条で個人の信仰の自由を、第八十七条で演説・出版の自由を、さらに第八十八条で集会・陳情の自由をそれぞれ規定している』
『寛一朗氏はさらに、第九十五条で財産権の保護も規定している。信仰の自由、演説・出版の自由、集会・陳情の自由、財産権の保護などは、昭和二十一年制定の現行の日本国憲法に類似した規定である。日本国憲法の制定より六十年も前に、新潟県の一県会議員がこのような優れた内容を持つ「私擬憲法」を作成していた点には感銘を禁じ得ない』と「小和田家の歴史」の作者・川口素生氏は書いている。  (『 』は「小和田家の歴史」より)

田村家は富貴な商家であったというが、寛一郎氏が「私草大日本憲法法案」を起草するにあたり、幕末維新前後の村上藩の混迷に思うところがなかったはずがない。それは、条文では「国安を妨害スルニ非ザレバ」という留保を付けながらも自由権を詳細に規定し、そのうえ財産権まで規定していることにも表れていると思うが、より概括的にみれば「法の支配」を求めていたように思えてならない。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」では、正義や大義がどこにあるのか分からない。
一県会議員であった寛一朗氏が憲法私擬を起草するとき、正しいとされるものが規定されていること、正しいとされる「法」のもとにあることを望んでいたように見えるのは、そこが賊軍の誹りを受けてしまった土地柄であることと無関係ではないのではないか。
そして、寛一郎氏の曾孫として育つ五人のうち四人までが法の執行や番人という職業を選んでいるのは、そこがかつて無法地帯となったため父祖の代が苦労に苦労を重ねたことを、語られずとも御存知だったからではないだろうか。

そして、この法を守るという精神を雅子妃殿下も受け継がれ守られているため、今も苦しみ続けておられるように思えてならない。

つづく

注 ※ ☆
 高岡家の武家屋敷は、皇太子ご夫妻の御成婚を記念し、まいづる記念公園に移築され一般公開されている
http://www.sake3.com/spot176.html

 恒氏の兄弟五人と記しているのは職業を選択していかれる過程での「道」を書くためであり、奈良女子高等師範で学ばれた姉とお茶の水女子大学で学ばれた妹もおられる。

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