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He who laughs last laughs best

最後の武士道 その壱

2016-03-03 20:09:08 | 
「侍の御始末」で賊軍となってしまった桑名藩を書いたので、同じく辛酸を舐めながら語られることの少ない藩と藩士の身の振り方についても考えてみた。

五郎治殿御始末」(浅田次郎)に収録される「西を向く侍」は冒頭 『成瀬勘十郎は、算え齢三十歳、七十俵五人扶持の御徒士の身分ながら、世が世であれば必ずや出役出世を果たすにちがいない異能の俊才であった。しかし、世が世でなくなったのでから仕方がない。』 と書いている。

『世が世でなくなったのだから仕方がない』

長い日本の歴史のなかでも幕末維新ほど価値観が一変した時代は珍しいかもしれない。
御一新を境に「世は」、西洋との通商外交のために12月を突如二日間にしてしまうことも平気なら(「西を向く侍」)、畜産分野で西欧に追いつくめに日本原産の牡馬を根絶やしにする政策すら平気といった具合なので(「颶風の王」(河崎秋子)、千年続いた侍という職業がこの世から消えることや、職を失う侍の身の振り方を気にも掛けないような時代だったのかもしれない。

「西を向く侍」には、『御一新の後、旧幕府の御家人たちが選ぶ道には三通りがあった。その一は無禄を覚悟で将軍家とともに駿河へと移り住むことであり、その二は武士を捨て農商に帰することであり、その三は新政府に出仕する道であった。』とある。
御家人にしてこれなのだから、下々の武士たちは路頭に迷った。車引きになる者、軍人になる者、役人や警察官になる者、そして死に場所を求めてさすらうしかなかった者と、その後の人生はさまざまである。
「五郎治殿御始末」は、そんな元侍たちを描いた話であるが、殊に賊軍の汚名を被った藩と藩士のその後の苦労は筆舌に尽くしがたものがった。

五郎治が仕えた桑名藩主松平定敬が兄松平容保と「義・道」を同じゅうしているうちに、家老が新しい藩主をたて新政府に恭順の意を示してしまうという事態は、家臣に大混乱を与えたが、五郎治の息子が薩長との戦いで命を落とした越後の苦しみは、その比ではなかったかもしれない。(『 』は「小和田家の歴史」(川口素生)より引用)

『明治維新前後、村上藩は奥羽越列藩同盟に参加し、与板(新潟県与板町)や長岡(新潟県長岡市)で新政府軍と戦った。やがて、長岡藩が陥落。』
新政府軍の侵攻が迫ったことを悟った時の藩主・内藤信民は七月十一日に村上城内で自害する。
『こういった混乱のなかで、八月十一日には村上藩が陥落。これを前に、家老ら二百人は藩領を離れ、奥羽越列藩同盟の諸藩兵と合流して出羽方面で新政府軍に抗した』
『この結果、村上藩政は混迷の度を深めたが、奥羽越列藩同盟に属した諸藩が降伏したことから、九月末に家老らも降伏。』
前藩主が和泉岸和田藩(大阪府岸和田市)から養子を迎えることで、一応の収拾を図ったが、家老ら重臣は、処刑されたのだ。

藩主は敵を前にして自害して果て、家老ら重臣は藩領を離れて新政府と戦い最終的には処刑され、前藩主が突然大阪から養子を迎えることで事態の収拾を図るという大混乱で迎えた御一新を、元武士たちはどのように生きたのだろうか。

つづく

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