何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

こんにゃく思索

2015-06-18 18:39:37 | 
「悲嘆の門」(宮部みゆき)について書いていて思うのは、つくづく私はファンタジーが苦手だということ。
平易な言葉や例えに深い意味を持たせているらしきことは感じ取れるが、ではそれが何を意味しているかというと、今一つ分からない。

「物語の生まれる場所」では、「言葉という精霊が(すだま)が生まれ出ずる領域(リージョン)」と「この世界を包み込んでいる全ての物語が織りなしている世界である<輪(サークル)>」について書いたが、実のところ理解できているとは思えないので、この後に続く「言葉が先か物語が先か」については更に消化不良状態。
これより先は、いずれ「悲嘆の門」に再挑戦するまでの宿題として、気になる箇所と現在の感想を書いておく。

<宿題もしくは課題>
言葉が先か物語が先か?
物語の始原の地と言葉が生まれる領域は対を成している。
「物語と言葉、互いの尻尾を呑み込み合う二匹のヘビのように繋がっている」という。

聖書は「はじめに言葉ありき」と言ったはずだが、「悲嘆の門」は『言葉の始原についての語りは、物語でしょ。物語が先に存在してなかったら、誰も語れないわよね?』という。
つまりは、語りたい物語がなければ、言葉など生まれないということだろうか。

小説では、これ以後の会話を主人公自身「こんにゃく問答」と言っているので、私の理解は更に怪しいが、物語と言葉についての議論が「実在している、存在しているけど実在していない」という議論へと移行する。

例えば本書が例に引くファンタジー小説の「ナルシア国」
多くの人が、ナルシア国のことを知り、あの国の出来事や生き物に心を傾けているけれど、ナルシア国は<実在しない>、しかし<存在はしている>。
<実在>と<存在>の違いと意味について、異界の使者・友里子は語る。
『実在していないものには意味がないと言い切れる?実在していないものには、私達人間に何の影響も与えない?人間という<実在>にとって、<実在しない存在>はただの気晴らしや暇つぶし?好き勝手に消費するだけの幻だと切って捨ててしまっていいの?』

「ソフィーの世界」(ヨースタイン・ゴルデル)で書かれていた実存主義を思い出したので、時間を見付けて、この2冊をいずれ読み比べてみたいと思っているが今現在は、本書のなかでの<実在はしない>しかし<存在はしてる>を物語だと規定すると私的には理解が進むので、その方向で話を進める。

こんにゃく問答の答え手である異界の使者・友里子は、「物語のなかには、あまりに力が強すぎて、それに触れた人間を根底から変えてしまうようなものがあり、悪い方に変わると大きな悲劇が引き起こされるから、その物語を狩る役目が必要となる」とし、友里子はその役目を担っているという。

本書にある「言葉よりも物語が先にあり、物語は時に希望であり正義であるとしながらも、物語の悪影響を避けるために焚書ならぬ物語狩りが必要だ」という作者の意図は、主人公・孝太郎がサイバーパトロール会社でアルバイトをしている青年だという設定からも伺える。

ネットには悍ましい言葉と悍ましい感情が溢れている。
言葉が先か感情が先かというと、まず感情があって言葉がついてくるものだというのはネットを見れば容易に分かり、これが物語が言葉に先んずるという考えにつながるのだと思われる。

これについては印象的な箇所があるので、長くなるが記録しておきたい。

孝太郎がアルバイトをしているサイバーパトロール会社の社長・山科鮎子の言葉(上、p126~127)

『私の友達にもいるの。本人はすごく常識的な人で、仕事もできるし家庭も円満。それでもやっぱりストレスは溜まるでしょ。それを、ネット上でキツい発言をして発散してるっていうのよ』
『ネット人格は現実の自分とは違う。きちんと切り離してるから、ネット上ではどんなキツいことやえげつないこと、現実の生活では口にできないようなことを書き込んだって大丈夫だよって。彼女は笑ってる。そういうネットの使い方は、確かにあると思う』
『でも、私はそれ、間違いだと思うの。』
『私の友達みたいなスタンスで色々書き込んでる人は、自分は言葉を発信してるだけだと思ってる。匿名なんだし、遠くへ投げて、それっきり。誰かの目にとまったとしても一時的なものだって。それはとんでもない勘違いよ』

孝太郎が答える。
『ネットに発信した情報は、ほとんどの場合、どこかに残りますからね』

社長はキッパリ否定する。
『いいえ、そういう意味じゃない』
『書き込んだ言葉は、どんな些細な片言隻句でさえ、発信されると同時に、その人の内部にも残る。私が言ってるのは、そういう意味。つまり<蓄積する>』
『女性タレントの誰々なんか氏ね。そう書き込んだ本人は、その日のストレスを、虫の好かない女性タレントの悪口を書いて発散しただけだと思ってる。でも<氏ね>という言葉は、書き手のなかに残る。そう書いてかまわない、書いてやろうという感情と一緒に』・・・・・そして、それは溜まってゆく。
『溜まり、積もった言葉の重みは、いつか発信者を変えていく。言葉はそういうものなの。どんな形で発信しようと、本人と切り離すことなんか絶対にできない。本人に影響を与えずにはおれない。どれほどハンドルネームを使い分けようと、巧妙に正体を隠そうと、他の誰でもない発信者自身は、それが自分だって知ってる。誰も自分自身から逃げることはできないのよ』

孝太郎は思う
『うちの母親だったら、<やったことは身に返る>という言い回しをするだろう』と。

ネットを見るだけでなく、こうして何某か書くようになった自分にとっても、これは警句だと思っている。
自分のなかに残る負の感情の危険性を理解してなお、吐き出したくなる怒りの感情がある。
皇太子御一家へ向けられ続けている架空ネット世界の罵詈雑言・誹謗中傷と、それを架空空間に留まらせず現実社会へと橋渡ししているマスコミ。

「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
 おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」(ニーチェ)

ニーチェの言葉と山科社長の言葉を肝に銘じながらも、どうしてもモノ申さねばならない正当な怒りがあると思っている。

つづく

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