生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

悲哀かつ歓喜、のうちの、<枯れ葉、雪舞い>

2010年07月15日 11時02分07秒 | 音楽
2010年7月15日-2
悲哀かつ歓喜、のうちの、<枯れ葉、雪舞い>

 太宰治『人間失格』での台詞だったと思うが(台詞自体は少し違うかもしれない)、

  ただ、生きていればいいのよ。

に意味される(あるいは文脈から読み取れる)ことと、『カラマーゾフの兄弟』の最後の場面で「カラマーゾフ万歳!」が、「人類万歳!」と聞こえること(高校生のときに読んだときそう感じたが、数年前か、だれかが新聞だったかに同じことを書いていた)とから、導きだされる、生きていることの、悲哀かつ歓喜。

 ならば、下記を聴くと、「癒される者は、癒されるであろう」。

鯉杉光敏作曲/風間虹樹演奏:
<枯れ葉、雪舞い>(3分5秒; mp3)
http://www.k4.dion.ne.jp/~rainbow3/koisugimusic/leafsnow12.htm

関連して、「たびちゃん、ゆらゆら」のブログ:
http://tabicyanyurayura.blog108.fc2.com/blog-entry-166.html

美術修行2010年7月14日(水)

2010年07月15日 00時53分22秒 | 美術/絵画
2010年7月15日-1
美術修行2010年7月14日(水)

  水の惑星に、雨が降る。
  ふるふる。

当たり前じゃん。

  どうしてこのようにあたし、雨は降るのか……

      (鯉杉光敏詩集/小説『幻想』第三部より)


 土砂降り(プチ・ゲリラ豪雨?)の合間をねらって、出かけた。

■ 印象派とモダンアート/サントリーミュージアム[天保山]/1000円。

 展示目録あり。音声ガイド500円(ガイド目録は無し)。図録2000円。一時間毎に10分ほどのスライドによる紹介をしている。
 ピサロ「モンフーコーの冬の池、雪の効果」、いいね。つまりは、雪景色が好きだから。
 モネも数点。しかし、ピンとこない。
 ルドンはなぜ、くすんだ色使いなのか。
 ワイエスは、ガッシュでもすごい。この迫力は緻密さだけでは出てこないだろう。

■ HUBBLE 3D -ハッブル宇宙望遠鏡-/40分/IMAXシアター/1000円。

 展覧会と一緒に買えば、1600円。15時から見た。
 次回のゴッホの予告編では、縦20m幅28mの馬鹿でかいスクリーンに、絵が映されて、圧倒的。
 3Dなので、スクリーンから10数m離れていても、「シーモンスター 3D」予告編では、たとえばサメみたいなのが当方の0.5m手前まで迫ってくる。「アバター」3Dと同様、不自然で、反って現実感が無い。この3Dは左右に二重になっているのを眼鏡で立体的に見る方式だった。
 ハッブル宇宙望遠鏡、ということで期待したが、内容は普通。星団も、2Dのほうがきれいに見えたのでは、と思った。

 3D映像を見、食事をしてから、印象派とモダンアート、へと戻る。
 「第3章 色と形の実験 ー20世紀美術の新しい表現」が目当て。とりわけ、フォンタナ。
 ヴァシリィ・カンディンスキー1925「一つの斑点(褐色上の赤)」は、てっきり、クレーだと思った。影響し合っていた頃だからかも。

 フォンタナ(フォンターナ)作品が5つ並べられた凹んだ一角があった。いずれも初めて見た。大満足。
 左から順に、

85. 1960 空間概念    100x80cm  愛知県美術館所蔵 〔灰黒色、3本切り裂き〕
88. 1964 空間概念    80.5x64.5cm サントリー美術館所蔵 〔金色、丸穴〕
87. 1962 空間概念    129x97cm  豊田市美術館所蔵 〔桃色、縦細穴〕
86. 1961 空間概念 期待 81x100cm  東京国立近代美術館所蔵 〔黄緑色、5本切り裂き〕
89. 不明 空間概念 期待 72.5x60cm  サントリー美術館所蔵 〔青色(cerulean blue?)、4本切り裂き〕

と展示されている。いずれも、前面にガラスか透明アクリルがあって、反射して見づらい。いろいろと、見る距離と角度を変えて見る。

 黄緑色のは、図録よりも少し緑濃くて鮮やか。慣れてくると、なかなか良い。青色とともに少なくとも1.5m離れれば、布目は見えなくなって、きれいに見える。
 86と89は、どちらがより良いかあるいは好きかは、甲乙つけがたい。この二つは特に良い。わたしなら、左から、

  87、88、、86、85、89

と並べる。87と88は別の一角にしたい。要は、

  黄緑色、灰黒色、青色

と、真ん中に灰黒色(色無し)を置いて、左右に黄緑と青を対照させる。

 かねてから、切り裂いた後ろは黒いのだが、どうなっているのか、部屋の係の人を通して学芸員さんに訊いてもらった。すると、黒い布を貼付けているとのこと(thanks)。そこで、もう一度見ると、3点とも、切り裂かれた筋のところに確かに細かい布目が確認できた。穴状の2点では、2cmほど離れた板に黒く塗っているようである。

 Lucio Fontanaの作品は、他にこれまで、東京で2点(縦長楕円=「神の終焉」、と青)、軽井沢で数点、大阪で1点見た。
 滋賀県立近代美術館に1962年作があるなど、国内所蔵で見ていないのが10点くらいありそうだ。

ルーチョ・フォンタナの経歴と作品:
http://www.b-sou.com/palm-Fontana.htm


 歩いて、

■ 現代美術インディペンデントCASO展 2010/海岸通ギャラリー・CASO/無料
http://www5a.biglobe.ne.jp/~caso/lib/100630independent.htm

へ。
 小畑亮平作品が良い。正方形のパネルを4行4列に隙間ないように配置。大理石のような図柄。なかなか気品がある。斜めからの方向になるが、椅子に腰掛けて見るとまた、違った印象になる。これが全面的に動的になると面白いかも。あるいはそれは、なじまない?
 しわしわがうまくできているが、技法はわからない。わずかな隙間から推定すると、黄、緑、の上に青?、灰色?などの絵具を、ゆるゆるにしたものを面を平らにして、したたらせたのではないか。
 小畑亮平websiteは、
http://ryoheiobata.com/
 『抽象へのいざない展』2010.9.28[Tue]-10.5[Tue] ギャラリー菊 大阪市北区西天満4-9-2、を見る算段をしよう。


 風間虹樹作品は、照明が異なるのか、数日前に見たときはくすんだ感じだったが、そのときよりも銀と青が鮮やか。龍形は、特に下方はもっとばらけて、律動的にすべき。最上に振りかけた白墨をかなり削ったそうだが、まったく振りかけたままにするか、あるいはまったく振りかけなかったほうがよかったのではないか。偉大なる失敗作。


左から、間絵里、石田克、風間虹樹の作品。

日本産烏龍茶

2010年07月11日 23時51分45秒 | 生命生物生活哲学
2010年7月11日-3
日本産烏龍茶

 おいしい烏龍茶が好き。かねてから、凍頂山や阿里山のように高い山なら、富士山か。日本にもお茶の木はあるから半発酵させれば、烏龍茶になるのではないか、などと考えていた。
 すると、今回初めてということだが、二種類の日本産烏龍茶がデパ地下で売られていたのを、おとついあたりに発見した。安い方のを買った。わりといけるようだが、一味足らないような感じ。葉の量と抽出時間を変えて飲むことを課題としよう。

美術修行2010年7月11日(日)

2010年07月11日 23時15分12秒 | 美術/絵画
2010年7月11日-2
美術修行2010年7月11日(日)

 第56回全関西美術展/大阪市立美術館/700円。
 図録は無し。目録は100円。受賞作品一覧は無い。入選作の掲載は順不同で、現場で見てよい作品だなと、印をつけようにも、作者名順でもないし、県別でまとめているわけでもなく、役立てようの無い目録。また写真撮影禁止なので、メモるしかない。
 概して、ありきたり。工芸部門は技法も様々でそれなりに面白い。しかし表題札には、絵画でも技法も大きさも記載無し。
 洋画部門では、河合克典「あおの境界にいる」(S130?)が良かった。2段展示の上のほうで、見にくいのが残念。馬渕晃子「works 2000-5」は、下方の左右要素を削れば、構図的に見栄えがするかもしれない。
 日本画部門では、鍵谷節子「ヒスイ色の森に」が良かった。菱形。かなり遠く(たとえば隣の部屋)から見ると平板に見える。緑系の色彩変異を施したら、迫力が出るかもしれない。

 ART OSAKA 2010/堂島ホテル11階~8階/1000円。通常はエレベータですぐに11階へと向かうようになっている。エスカレータが見えた。このホテルの2階と3階の壁には、絵画は飾られていなかった。使用できませんという張り紙の無いほうのエレベータで3階から6階へ。そこまでしか行かない。出ると、係の人がいて、おそらく11階へ直行するエレベータを、6階で停めるよう連絡してくれた。他の階へは階段で降りる(上がってくる人もいる)。

 かなり人が多い。特に若い女性たちが多いが、美術系学生だろうか。
 4階分の客室を使っている。浴室と寝室との境はガラス張りの部屋が多かった。アートフェア京都とくらべて目新しい展示方法は無かった。絵画作品で出色のものは無かった。細目の麻カンヴァスにやわらかな色彩と形態の絵画があったが、小さくともなんらかの独創性を出す一工夫が欲しいところ。
 技法的に面白いのがあったが、それほどの効果は無い。スタンプの要素を変えるべきではないか。また、ステンシルでやって厚みをつければ、面白いかもしれない。思わぬ計算外の効果が生じるかもしれない。

 西梅田の方へ引き返す。或る書店で、赤い[おそらく、装幀の]本、という共通性質、ここではジャケット紙が赤系のインクを使っているという状態、で括った本が棚に並べられていた。そのなかに、

村山久美子.1988.6.視覚芸術の心理学.誠信書房.[y2,940] [B20100711]

を見つけた。
 また、近くにあった、「ダーウィンと進化論」という特集がある、

関西唯物論研究会(編).2010.7.唯物論と現代 No.44.[y1,470] [B20100711]

を買った。

美術修行2010年7月10日(土)

2010年07月11日 01時49分22秒 | 美術/絵画
2010年7月11日-1
美術修行2010年7月10日(土)

 束芋 断面の世代 展/国立国際美術館。
 本日初日は無料で入場できる。第1室は、暗闇で見えない。二、三分経って、黒い一人用ソファ的ふかふか椅子があることが見えてきた。天井に映写される白黒アニメ。マンションの断面が迫り出して、家具などの物体がすべて落下する。それが続く。巻き戻し的に、物体がマンション内に配置されていく。
 髪の毛がすだれのようになって、ゆれたり、はさみできられたりして、指が現われたりして、(何が?)展開される。なかなか面白い。これは四つのプロジェクタで、半円形のスクリーンに映写。
 三つの(断)面に映写されるのもあった。半分のトンネル形に鏡が配置されて、上下に同じものが投影されるトンネル。上は雲が流れたり、蛸やら炎やら。そして下の画面の展開をうけたかのように、切断面を見せる片腕やらが出てくる。
 どれも一見の価値あり。

林道郎.2004.7.絵画は二度死ぬ、あるいは死なない 2 Braice Marden.80pp.ART TRACE.[y1,260] [B20100710].

 図録『もの派-再考』は、完売にて入手できず。

 近くのホテルの画廊では、多くが月曜とは異なるや有名画家の絵画が展示されていた。飾り窓には今度はブラマンク。かなり明るい色調で花瓶の花。

 国際会議場の5階と12階の壁にいくつかの絵画。須田剋太のは全面黒いのではなく、明るい作品。わりとよい。一部のたとえば丸い形のものの色調を変えればもっと面白くなるかも。

 (朝抜きなので)12階のレストランでうなぎ弁当定食2100円。レジでどこの産のものかと聞くと、今日のものはコックに聞かないとわからないが、通常は琵琶湖産の天然ものを使っていると言う。皮が分厚かった。一塊のわさび、胡麻多数、およそ3mm直径のあられ多数がごはんにのっかっていて、お茶漬けにするのかと思ったが、お茶は出てこなかった。わさびはどう使うべきだったのか、聞くべきだった。(この項は味術修行)

成りゆき次第で結果次第

2010年07月09日 20時10分51秒 | 生命生物生活哲学
2010年7月9日-1
成りゆき次第〔で〕、結果次第

 2010年7月8日。
 ゆきがかりで、ひきずられて(意思薄弱)、科捜研の女につきあってしまった(なんでも、付き合いが大事。されど、ご利用は計画的に。それができないなら、ほどほどに)。時間とは、実在せず、虚妄(われわれの構築体)であるが、われわれの意識にとっては、記述枠組みにすぎないにもかかわらず、つい、実在的に感じてしまうので、要注意。時間とは時間軸であって、われわれ自身が運動すると錯覚するからこそ、(実在ではなく not real)実在的realisticだと、ついつい思ってしまうということを骨肉に沁みて反省するように日頃から心がけでいれば、ご利益が(金銭といった現世利益ではないが)あるかもしれません。
 で、科捜研の女は、のたまう。
  「でも、信じるしかないのね。万能ではない科学を、万能ではない人間が扱うことができると。」〔文言は多少は違っているかも〕。

 確かに、信じる者は救われる。少なくとも、主観がすべて的には。
 ただし、この台詞は、レトリック的な理想化のにおいがする(くん、くん)。万能ではない科学にしているのは、そして万能的にしつらえている(偽装している)のも人間であり、人間を離れて、科学的営為は、無い。

  「2007年の公表以降、一部氷河の後退速度の予測やオランダの低地の比率などに幾つかミスは発見されているが、いずれも報告書の結論に影響するものでは無いと指摘されている[5](#AR4 に見つかった誤りと訂正節を参照)。」(ウィキぺディア「IPCC第4次評価報告書」http://ja.wikipedia.org/wiki/IPCC%E7%AC%AC4%E6%AC%A1%E8%A9%95%E4%BE%A1%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8)

 なんて、書いているけど。ウィキぺディアのここの項目でも、熾烈な権力闘争があったりして(無いか? 無風状態?)。

  「地球の気候に関しては、時間的・空間的にさまざまなスケールで温暖化と寒冷化が起こってきた。この、「人為的・自然起源に関わらないすべての気候の時間的変動」を気候変動(climate change)という。後述のIPCCはこちらの意味を採用しているが、UNFCCCでは「人為的なものに起因する気候の変動」という意味で用いられ、非人為的なものは気候変化 (climate variability) と呼んで区別している。」(ウィキぺディア「地球温暖化」)
 気候「変動」 climate changeと気候「変化」 climate variability(!?)。

 今日(すでに=昨日)のテレビ(チャンネル数を忘れた)から抽出した、今日の言葉。
  「基本はモラルが低下しちゃっていることですね」(亀井靜香 前内閣府特命担当大臣(金融担当))。
  「弱肉強食の市場原理を、純ちゃんがやっちゃったからね」(亀井靜香 国民新党代表)。
 
 オチをつけるとすれば、直接的ではないが、基本は、
  <市場の力に従えば、(少数の)金持ちカラスの勝手にしかならない。>

 しかし、手間ひまかけず、(税金は)<取れるところから取る>。これも、<定説です>。
 国民の対抗手段は、(芸術活動用を含んで)生活必要物資の物物交換である。カラスの勝手でしょ。貨幣を無化すれば、数字は数字にしかならない。物が大事。ただし、物の過剰は、自由空間構築の妨げ。
 人はパンのみにて生きるにあらず。されど、食わなきゃ死ぬ。されど、パンのみにては、空しい。むむむむ、むなしい、(那珂太郎「透明な鳥籠」)。
 日本は金を国外に貸している。ならばやっぱ、鎖国だね。しかし、食料自給率がカロリーベースで4割ぐらいとか。これにも、異論があるようだが。これが大問題。コンビニの夜間営業を禁止して、もちろん会社の残業も禁止して、食料廃棄率40%程度かを、せめて10%に。

オオシモフリエダシャクの工業暗化 捏造? 1

2010年07月08日 12時01分18秒 | 生命生物生活哲学
2010年7月8日-3
オオシモフリエダシャクの工業暗化 捏造? 1

 どういうわけか、2010年7月4日から、

Majerus, M.E.N. 1998. Melanism: Evolution in Action. xiii+338pp. Oxford University Press. [W980716, y13860]

の、
第6章 The peppered moth story dissected(pp.116-156, color plates 1-8)
   [直訳:胡椒を降りかけられた蛾の物語を解剖する]
   [プログレッシブ和英中辞典では、霜降りの pepper-and-salt ((cloth))とあるので、
    やや意訳:霜降り蛾物語を解剖する〔むろん、解剖は比喩的に言っているので、著者がやっていることは、辞書訳語にもあるように、分析〕]

を(間欠的に)読んでいる。ようやく、鳥の視覚は人と違って四色型であることや紫外線領域での解像度は高いだろうといったことが述べられた後の、136頁からのOther factors pertinent to melanism in the peppred moth という節へ突入(むろん、本の中へ物理的に突入したわけではありません)。
 なお、本の第5章は The peppered moth story(pp.97-115)。

 この本の出版は1998年だから、その後の展開はどうなっているのだろうと思って、webcatで「Melanism」で検索すると、(Majerus (1998)の所蔵図書館数は7箇所(も?、しか?)あった。某大学図書館にも所蔵されているが、webcatには登録されていないということになる)、それより後の本は無く、1998年に直近の本は、

Kettlewell, Bernard. 1973. The evolution of melanism : The study of a recurring necessity; with special reference to industrial melanism in the Lepidoptera. xxiv+423 pp. Clarendon Press.

となっていた。

 で、
  「オオシモフリエダシャク 工業暗化」
でgoogleと、約 489 件 (0.09 秒)で、検索結果の一位は、「オオシモフリエダシャクのウソ」と題する記事であった。
http://www.sacra.com/bible/cre/creation/ooshimo.htm
というサイトの記事は、伊勢崎キリスト福音館が作ったものらしいが、「青年会で使ったプリントの一部抜粋・改変」とある。
 「高校の教科書では進化論の一つの証明として蛾のなかまのオオシモフリエダシャクの工業暗化が書かれています。……オオシモフリエダシャクの例を持ち出して来ることは多くの誤りを含んでいます」と言う。

  「一つはもともと黒いものと白いものと両方が生存していた、という事実です。つまり進化も何もしていないということです。ただ今まで多かったのが白いものだったのが黒いものに変化しただけということになります。」

 「もう一つの大きな誤りを紹介します」として、
Photo by David Fox/Oxford Scientific Films
を掲げ、「これが黒のオオシモフリエダシャク」、「これが白のオオシモフリエダシャク」と矢印で蛾の位置を示している。
 [進化論で一般にいわれていること]を、わたしによって簡略化すると、

  マンチェスターでのオオシモフリエダシャクの暗色型の割合
   1848年  わずかな割合
   1898年  95%
  原因:
   「煤煙などにより環境全体が黒っぽくなり、樹木にとまった場合に捕食者にみつかりにくくなった。そのため自然淘汰に有利な種となり急激に増加することになった。」

 「有利な種」と記載した文献は何だろうか? おそらく、「種」とはしていないと思う。もししていたら、間違った紹介と言うべきだろう。

 一方、[最近わかったこと]は、

  「オオシモフリエダシャクはこのように簡単に観察できるものではない。20年にわたってこの蛾のことを研究してきた科学者は20年間に野生のオオシモフリエダシャクを数匹しか観察していない。それではそうやってこの写真を撮ったかが問題である。当時この写真が公開されたとき、写真にはオオシモフリエダシャクが5匹ほど写っているものである。(教科書に載っているもの) 驚くべきことに、この写真は実験室で飼育されていたオオシモフリエダシャクの死骸を接着剤で木の幹に貼り付けたのを撮った。」

としている。

系列/系譜/系図

2010年07月08日 10時41分16秒 | 生命生物生活哲学
2010年7月8日-2
系列/系譜/系図

 一個体(一性生殖〔無性生殖と呼ぶ人もある〕)または二個体(二性生殖)あるいはn組からの2個体以上の親(n性生殖)から、親子関係(これはforceではない。親子関係とは、forcesの結果をわれわれの想像力によって構築したものである)によって繋がらせた生物体たちを指して、系譜 lineageと(仮に)呼ぶことにする。

 プログレッシブ和英中辞典には、「直系の」は、linealとある。また、
  直系の子孫 a direct descendant
  直系血族 a lineal relation
  直系尊[卑]属 a lineal ascendant [descendant]
とある。混乱を避けるために、

  系譜
   系譜の一部
  系列
   系列の一部
  部分系譜
   部分系譜の一部
  完全系譜
   完全系譜の一部

をきちんと定義しよう。
 たとえば種タクソンは、系列や系譜には、少なくとも直接的関係は無いから、やはり、これら無しで済ませるのが得策か。

生物学的周期性/タクソン学

2010年07月08日 09時49分35秒 | 生命生物生活哲学
2010年7月8日-1
生物学的周期性/タクソン学

 2010年7月7日、梅田で本を2冊買ってしまった。
 一つは、
[H]
本多久夫.2010.5.形の生物学.372pp.日本放送出版協会.
[ISBN 9784140911563 / y1,470] [B20100707]

 157頁からの3.1節は、「細胞は集まって自分たちだけで形をつくる」と題されている。
 自己集成self assemblyという概念が理解できないでいるので、手がかりがあるかもしれない。
  自己とは何か?(「自分たちだけで」)
  作用の(種類と程度の)分析(「集まって」)
  自己集成とは?(「自分たちだけで~をつくる」)
  発生と形態(「自分たちだけで形をつくる」)

 もう一つの本は、

リマ・デ・ファリア,アントニオ.1995.(土明文訳/松野孝一郎監訳 2010.3)生物への周期律:自然界のリズムと進化.442[+2]pp.工作舎.[ISBN 9784875024262 / B20100707=y5,040] [Lima-de-Faria, A. 1995. Biological Periodicity: Its Molecular Mechanism and Evolutionary Implications. JAI [Jai?] Press.]

 直訳すれば、「生物学的周期性:それの分子的メカニズム〔機構〕と進化的含意」。

  「リマ・デ・ファリアが周期律の考え方を生物に適用しようとしたのは、年代を隔てて現〔わ〕れることになる、同じような生物機能を指してのことである。」(松野孝一郎 440頁)。

 松野孝一郎氏の監訳者あとがき「積極的な欠如」(438-442頁)に、
  有翅昆虫の出現     3億1000万年前  一部生残
  プテロサウルスの出現  2億3000万年前  絶滅
  コウモリの出現       4000万年前  生残

と表化できるような記述がある。
 無脊椎動物、爬虫類、そして哺乳類というタクソン上での比較が公平でない。プテロサウルスの子孫は鳥となっているとすれば(タクソン学的には、鳥類+爬虫類として比較すると)、絶滅していない(もっとも、生命は一つなので、何者も絶滅していない。プテロサウルスの系列[狭義でのlineage=親子関係のみでいわば単線的に結んだ生物体たち(これは、実在するシステムreal systemではなく、親子関係という、諸作用の結果(種システムの産出メカニズムが作動した結果)を概念的に表現したもの、つまり概念であるから構築体である。実在物ではない)]が鳥にならなかったとしても、少し系列を時間的にさかのぼれば、鳥類となったどれかの系列に繋がるはず[繋がると前提するのが、そのような一つの仮定を設定した上での進化理論。それを前提としない進化理論を立てて、相互排除的な諸進化理論を網羅分類的に立てれば、いわゆるダーウィン的進化論(これはすでに過剰に鵺的だが)をテストできるだろう)。もっともタクソン上か、それとも種数で比較するかの問題もある。
 魚類のトビウオがいるな、と思った(大昔、青海島付近の海上を飛行するいつくかのトビウオを船上から見た。10mくらいはバタバタとしながら飛ぶことに感心した)。パラパラと本文をめくると、49頁に図6として、2枚翼のトビウオと4枚翼のトビウオの図があった(昆虫での翅の類推(双翅目Dipteraを考えよ)からすると、発生的には4枚翼のほうが先で、2枚翼は抑制的制御で出現した??)。

  「われわれの言語慣習の枠内では、因果律の適用に抗しがたい魅力を覚えながら、それを分析的に理解する限り、導かれるのは、結果は原因と恒等である、とすることのみである。」(松野孝一郎 442頁)。

 分析的って、総合的の反対の意味で?。
 「結果は原因と恒等である」とは? 法則の存在論的地位は? 法則性と契機との関係は? 縁起論。


[L]
Lima-de-Faria, A. 1988. Evolution Without Selection: Form and Function by Autoevolution. xxvi+372pp. Elsevier. [hb=y29664]
[リマ・デ・ファリア,A.1988.(池田正子・法橋 登訳,1993)選択なしの進化:形態と機能をめぐる自律進化.468pp.工作舎. [B19940704 y4,650*, y5,500]]

*Lima-de-Faria, A. 1995.12. Biological Periodicity: Its Molecular Mechanism and Evolutionary Implications. JAI [Jai?] Press. [ISBN 9781559384124]
[リマ・デ・ファリア,アントニオ.1995.(土明文訳/松野孝一郎監訳 2010.3)生物への周期律:自然界のリズムと進化.442[+2]pp.工作舎.[ISBN 9784875024262 / B20100707=y5,040]]

*Lima-de-Faria, A. 1997. The atomic basis of biological symmetry and periodicity. Biosystems 43: 115?135.

Bunge哲学辞典:理論

2010年07月06日 00時07分10秒 | 生命生物生活哲学
2010年7月6日-1
Bunge哲学辞典:理論

 Mario Bunge氏の立場として、システム主義と創発主義と科学主義が挙げられよう。それゆえか、主張が明快である。一つは、定義とともに、それが適用される例が掲げられているからである。
 理論という語についても、Bunge (2003)は明快に説く。ここでは、抽象的(形式的)と具体的(解釈的)といった軸が設定されている。

理論 theory [BungeDic2_theory]
 仮設演繹的体系[システム]。つまり、一組の前提〔仮定assumption〕とそれらからの論理的帰結から成るシステム。言い換えれば、或る理論のあらゆる式は、前提であるか、一つ以上の前提の妥当な帰結(定理)であるか、のどちらかである。つまり、_T_ ={t|_A_ |ー t}。再び言うと、或る理論は、演繹のもとに閉じた一組の前提である(つまり、公理の論理的帰結のすべてを含んでいる)。たいていの人々は、そして哲学者の何人かでさえも、理論を↑【仮説】と混同する。これは誤りである。なぜなら、理論は、単一の命題ではなくて、無限の組の命題だからである。したがってそれは、単一の仮説を確証したり、あるいは反証することよりも、はるかに困難である。(類推:網は、それを構成する糸のどれよりも強い。よって、作ることも引き裂くことも難しい。)もう一つの重大な混同は、理論と言語との混同である。それは誤りである。なぜなら、理論は主張を作るが、言語は中立だからである。この誤りは、↑【形式主義】の一部であり、形式主義は↑【唯名論】の数学的構成要素である。或る理論は、何とも言いようのないものであれしっかり定義されているものであれ、概念的であれ具体的であれ、なんらかの類kindの対象を指示するかもしれないし、その前提は、真であるか、部分的に真であるか、偽であるか、あるいはどれでもないかもしれない。最初の前提からの論理的な演繹可能性という条件は、理論に対して形式的(統語論的)統一性を授ける。これは、人が理論を(複雑な)個体〔個物〕として扱うことを可能にする。これらの個体は、それらの構成要素(命題)のどれもが持たない、整合性(無矛盾性)といった創発的性質を持つ。例1:集合論、グラフ理論、そしてブール代数は、抽象的な(解釈されない)理論である。例2:数論、ユークリッド幾何学、そして微積分学は、解釈された数学的理論である。例3:古典力学、自然淘汰の理論、そして新古典派のミクロ経済学は、事実的理論である。例ではないもの:『すべてのAはBである』と『すべてのCはDである』いう前提。そこでは、A、B、C、そしてDは、相互に定義可能ではなく、一つのシステムを構成していない。よって、仮説演繹的体系を生成しない。実際、それらを一緒にしても、何の帰結も出てこない。〔20100705試訳〕

タクソンの定義

2010年07月05日 00時36分54秒 | 生命生物生活哲学
2010年7月5日-1
タクソンの定義

 10年ほど前から積ん読状態だった本でtaxonの定義を昨日見て、びっくりした。

International Commision of Zoologcial Nomenclature. 1999. International Code of Zoologcial Nomenclature. The International Trust for Zoologcial Nomenclature / The Natural History Museum. [B19991105]

動物命名法国際審議会.(日本学術会議動物科学研究連絡委員会 日本語版監修,野田泰一・西川輝昭 日本語版編集 2000.10)国際動物命名規約 第4版 日本語版.日本動物分類学関連学会連合.[y3000, B20001113]

 規約条文中にタクソンの定義は無い。Glosarryにある。

  「taxon, (_pl_. taxa), n. A taxonomic unit, whether named or not: i.e. a population, or group of populations of organism which are usually inferred to be phylogenetically related and which have characters in common which differentiate the unit (e.g. a geographic population, a genus, a family, an order) an order from other such unit.」(p.118)

 分類学的単位というところで止めておけばよいところを、不要なことを書き連ねている。タクソンは、生物個体または個体群とは別個のものである。生物体は、或るタクソンに属するだけであって、どのような生物体を取り出しても、たとえば今現在存在する人をすべて指したところで、それが_Homo sapiens_というタクソンに等しくなるわけではない。あくまで、生物体とタクソンは、生物体は或るタクソンに属する、あるいは、或るタクソンの属員はしかじかの生物体であるという属員関係であって、(狭義の)部分全体関係ではない(Mahner & Bunge 1997を見よ)。

 英語は正文であるが、フランス語も(そして日本語も)正文である。フランス語での語彙集Glossaireでの、タクソンの定義は、

  「taxon, (_pl_. taxons ou taxa), s.m. Une unite' taxinomique, qu'elle ait ou non un nom, p. ex. une population ou un groupe de populations d' organismes, souvent ......」(p.254)

 p. ex.は、たとえばということらしい。『つまり』と『たとえば』では大違いだと思うが。どちらも、個体群を引き合いにしている。タクソンの実例とは、_Homo_とか_Homo sapiens_であって、これらは名称としては(タクソンを指示するので)タクソン名と呼ばれる。決して生物体や個体群を指すのではない。これまでに生きていた(そして死んだ)人、現在生きている人、そして未来に生まれるかもしれない人を全部集めても(むろん一部であっても)、それが_Homo sapiens_になるわけではない。
 国際動物命名規約は、どんどん非論理的になってるようだ。

モダンアート展2010 仙台展の様子

2010年07月02日 21時17分21秒 | 美術/絵画
2010年7月2日-1
モダンアート展2010 仙台展の様子

せんだいメディアテーク/仙台で開催された、モダンアート展2010 仙台展の模様の動画(You Tube)があった。

モダンアート展2010 仙台展
  Vol.1(10:09)
  Vol.2(10:01)
  Vol.3(7:34)
http://www21.ocn.ne.jp/~maa/senndai.html

7月20日~25日 モダンアート2010京都展/京都市美術館
8月24日~29日 モダンアート2010新人展/埼玉県立近代美術館

山田百合子 戯言集/非在死体病理解剖

2010年07月01日 22時53分04秒 | 詩 poetry

非在死体病理解剖


                 山田百合子



 あなたにおいて、あなたはありながら、そのうちにもあ



 なたはあり、しかり、あなたはついぞあらわれず、あな



 たにおいて、あなたはなく、なきあなたは、ひたすらに



 ありつづける、ありようもない、じょうたいでありなが



 ら、しかもけっしてありえないながらも、あるときには……



かきむしり、かきむしり、あなたはかきむしる、ところがかき



むしるものがない、またかきむしる、ところでとにかくかきむ



しられるものがない、ひとつもひっかからない、そこでとっか



かりをこしらえる、まさかとおもったがやはり、ころげおちて



しまう、こしらえたとおもっただけなのだ、いっそうはげしく



かきむしるなら、そこにざわめきがうつるとか、いっそあなた



がもえあがるとか、またまただめだった、あなたはますますつ



めたくなってかきむしる、しかしなにかがかたちをあらわすと



いうこともなく、あなたはなるほど、なるほど、そうなのかと



かきむしる、あなたはまっているのか。そうではない、あなた



はそんなふりをしながら、とおいところへ、ふかくもっともち



かいところへいこうとするらしい、そこでまたもやかきむしる



、さらにかきむしる、ぽろっ、となにかがはげおちた、という



のはきのくるい、あなたのむしりはいよいよはげしく、むしる



、あなたもはげしくなり、うつろにあつくなってくる、どこか



でなにかがひきつってくる、というようなことはまったくない



、しかもいぜんとしてなにもあらわれない、あなたはどこへい



ったのか。あなたはまだかきむしっている、とうとうそこに、



いじょうなきざしがあらわれて、とつぜんおどりでる、という



こともありえない、わかりきっている、あなたはしってかしら



ずか、なおもかきむしる、ぽうぜんとあなたはたちつくす、い



やそんなことはない、にわかにそこがふるえだす、いやいやそ



れもきのくるい、あなたはとめどなくかきむしりつづける、あ



なたはどこへいってしまったのか。ついにはそこへあなたがあ



らわれようとするのか。そうか、そうなのか、あなたはつぶや



く、やっとのことでそこへあなたがあらわれようとしている、



もちろんそんなことはありえない、なるほど、あなたはひっか



かりになろうとしているのか。それとも、あなたじしんになろ



うとするのか。しかし、なにごともおこらない、そのあなたは



とほうもなくかきむしっている、そうか、そうなのか、あなた



はあなたをそこにのこして、どこかへいってしまおうとするの



か、とあなたはつぶやく、そうか、そういうことなのか、そし



てとうとうついに、あらわれぬあなたのつぷやきから、あらわ



れぬかきむしりへもえうつるとか、ついでに、あらわれぬあな



たがあらぬところでひっそりともえあがるとか、あるいはそれ



とも、あらわれぬあなたをあらぬところへさておいて、ありえ



ぬあなたがあらわにもえあがるとか、けれどもきのくるい、そ



れもきのくるい、おそらくあなたはかきむしることはない、と



ころであなたはなにをしているのか。かきむしるあなたはかき



むしる、かきむしるあなたをかきむしる、いやはやそういうこ



ともありえない、つまり、そうか、そうなのか、なるほどそう



いうことなのか、かきむしる、そして、あなたはかきむしる、



かきむしりつづけて、なおさらかきむしり、どういうわけか、



かきむしり、さてそういうわけで、かきむしり、またひときわ



かきむしり、むむむむむしり、ただひたすらにかきむしり……


山田百合子 戯言集(1979)『死体病理解剖 × ・・・・・ノオト』より
http://www.k4.dion.ne.jp/~rainbow3/yamada/zaregoto.htm