生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

日本美術の特色

2011年04月26日 23時54分22秒 | 美術/絵画
2011年4月26日-10
日本美術の特色

 日本美術の特色として、河北倫明『日本美術入門』は、

  「1 日本美術は変化に富んでいる。
   2 日本美術は適応性がゆたかである。
   3 日本美術は複雑なものを簡潔に要約する性質がつよい。
   4 日本美術は流動的であり装飾的である。
   5 日本美術は自然親和的である。
   6 日本美術は情的性格がつよい。
   7 日本美術は機敏で一発的な集中度をもちやすい。
   またさらにこれを、要約していえば、日本美術はとくに自然親和的で〔略〕日本の複雑微妙な風土の性格が大きくこれに反映している」(河北 1966: 24頁)。

としている。 そして、「自然の微妙さを感覚的に深く知っている」というが、現在ではどうだろうか。東山魁夷は消え行く自然に危機感をもったらしいが、……。(日本画美術書の或る巻の解説で、河北倫明氏は日本画の特徴をいくつか挙げていた。入力したのに、紛失した。出所に行き当たらず。)

 これを、意趣と製作において、最小的、臨機応変、繊細かつ大胆、一発勝負的、抽象的、象徴表現的、へと変更しよう。

 また、マリオ・ペドロッサ氏の感想を引いて、日本人の在り方は、

  「適応力がゆたかで、現在のシチュエイションに身をまかせ、自然の中にとけこんで、予見をさけながら、突発変化にも対応する姿勢をきずいている」

という。そしてこのような「プランの精神」とは反対の立場からは、

  「知性的文化や意欲的文化は発達しにくい」

とも言う。
 科学技術 technologyが進んだ日本の現在では、突発的災難がいつ降りかかるかわからない。健康な生活を送るには、それに見合った対処能力をつけたほうがよいだろう。そのような状況で、美術製作はどのようにあり得るのか?

 
[K]
河北倫明.1966.3.日本美術入門.217pp.社会思想社[現代教養文庫556].

鯉杉光敏:飛び跳ね砂漠

2011年04月26日 23時09分49秒 | 音楽
2011年4月26日-9
鯉杉光敏:飛び跳ね砂漠(無窮結晶中)
Mitsutoshi Koisugi: Jumping desert (umcompleted, eternally crystallizing)

      駱駝が風紋を蹴散らしていく
      沙漠は飛び跳ねる     

 
□ 飛び跳ね砂漠 第一楽章 (9分12秒; 1996.9.24-)
   使用音色 (timbres used): Acoustic Guitar, Harp, Strings Emsmbl, Trombone, Oboe, Fantasia, Sitar.

□ 飛び跳ね砂漠 間奏曲2(1分49秒; 1996.10.25-1998.7.19)
   使用音色 (timbres used): #Marinba, Whistle.

http://www.k4.dion.ne.jp/~rainbow3/koisugimusic/jumpdes7.htm


鯉杉光敏:鉄鈴、 の鳴る 、風、の

2011年04月26日 22時47分14秒 | 詩 poetry
2011年4月26日-9
鯉杉光敏:鉄鈴、 の鳴る 、風、の

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鉄鈴、 の鳴る 、風、の


湿地帯、を青白、い野火、が連なる。深い

捏造、の末に産み出された琴の音、が表層

に染み渡る。親子亀が転ぶ。赫赫、たる華

、は浮草の集まりのように。煮花の残菊、

と苦々しい顔、そこに、一対の哲学がある
                   けらく
。ぼくらは斜面、に生きるのである。快楽


を敬慕崇拝し暁には死ぬ形、に刻まれた汗

。ぼくらが焦土、の如くに接吻したのはそ

の頃だ、った。浜辺、の砂の熱愛、に打ち

負かされて脈絡もなく深夜の霧巻く斜面を

伝って弔歌、のうづくまっている広場に出

た。蝉時雨、の記憶は、救いの術、となり

ぼくらは過潮の海峡を流れてゆく。憂愁の
     かぶ
波、を身に被って地の果て、を旅する。貝
             あてど
、を焼き魚、を干しながら。当所もない歩
    おわり            ちぎ
みは世の終焉を告げる落陽を身に引き断切

られる重みを感じ見る。こんな時

   は痛切だ。墜落が肝心。みゃ。瞑想

に纒わりつく欺瞞、を押し潰し嗄、れた窪

みへ凍てついてしまった夢を捨てにゆく。

ぼくらはやっと光る泉、に辿り着き


      を喜ぶのだった。

 
_________________
 鯉杉光敏(1971)詩組曲『記号列遊び』の「鉄鈴、 の鳴る 、風、の」全文:
http://www.k4.dion.ne.jp/~rainbow3/kigou/teture.htm



福島原発事故104:原発リスクと地球温暖化リスク(8)

2011年04月26日 22時26分47秒 | 生命生物生活哲学
2011年4月26日-7
福島原発事故104:原発リスクと地球温暖化リスク(8)

 飯田哲也氏は、「緊急会議 飯田哲也×小林武史 (2) 「なぜ原子力を選んだのか?」
http://www.eco-reso.jp/feature/love_checkenergy/20110408_5008.php

で、自然エネルギー発電が推進されず、(核分裂型)原子力発電が推進された事情を語っている(ようだ)。

  「原子力はコスト以前にリスクが問題なのです。これは安全性のリスクよりもむしろ、金融投資リスクなんです。実は世界的には、特に金融機関が原子力には怖くて投資や融資ができないというトレンドがはっきりあります。」
http://www.eco-reso.jp/feature/love_checkenergy/20110408_5008.php

と述べている。原子力発電所の建設に膨大な金がかかるかららしい。しかし安くても、放射性物質の処理はできないに等しいのだから、原子力発電所は、運転中のも止めるべきである。

 また、

  「スウェーデンやデンマークやドイツ、オーストリアでは、実はチェルノブイリではなくてスリーマイルの事故によって、原子力政策が死んだんです。そのあと日本で唯一、国全体の大きな議論に原子力が上がりかけたのがチェルノブイリ原発事故(1986年)です。それも、その後の地球温暖化の議論のなかで、原子力が有効だという話に掻き消されてしまった、というのが大きな流れかなという感じですね。」
http://www.eco-reso.jp/feature/love_checkenergy/20110408_5008.php

と述べている。地球温暖化脅威論の影響力あるいは利用価値は大きかったようだ。
 日本での生活環境全体の安全を考えれば、地球温暖化対策よりも、原発を止めることが優先するべきだと思うのだが、日本での原発リスクは計算されたのだろうか?
 放射性物質はそれ自体が毒物であり、核種もたくさんある。原発による温排水のよる直接の温暖化と、海水温上昇による二酸化炭素の放出量はどれくらいなのか? IPCC報告書に見積もりはあるのだろうか?

 検索すると、
 「地球温暖化対策には、原子力エネルギーの平和利用の拡大が不可欠」という主旨の委員会決定を見て、「原子力発電は、直接人為的に地球を温暖化すると考え」て、「地球環境保全・エネルギー安定供給のための原子力のビジョンを考える懇談会報告(案)」への意見または質問を寄せたものに対して、

  「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)第4次評価報告書によれば、現時点で温室効果ガスとして蓄積された二酸化炭素による温暖化効果(放射強制力)は 1.66W/平方メートルとされており、地球全体では約846,600GWとなります。これに対して、合計約370GWeの世界の原子力発電所が発生する熱は、効率を33%と仮定すると最大でも約1110GWであり、二酸化炭素による温暖化効果の約0.13%となります。
したがって、原子力発電所が発生する熱による地球温暖化への影響は、温暖化効果ガスの影響に比して、無視しうるほど小さいものと評価できます。
一方、合計370GWeの世界の原子力発電所の代わりに火力発電を利用したとすれば、最も温室効果ガス排出量が少ないLNG 複合サイクル発電を用いた場合でも、世界の二酸化炭素排出量は、年間11 億トン(2005 年の世界総排出量の4%)増大することにとなり、原子力エネルギーの利用が温暖化防止に貢献していると言えます。」(内閣府原子力委員会)
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/qa/iken/iken-q94.htm

と回答されていた。原発周辺の海水温上昇による空中への二酸化炭素放出はどれくらいなのだろうか?
 IPCC報告書の主張の妥当性はわからないが、環境問題を温室効果ガス排出、とりわけ二酸化炭素だけを問題とするという他の危険性を考慮しないという構えのように思える(部分知)。
 環境保護団体は、温室効果ガス排出よりも、日本での原発運転のほうが、今そこにある危険だとは思わなかったのだろうか? 今も、有毒廃棄物をどんどん製造しているのである。予防原則の適用の優先順位は、評価しなかったのだろうか? 
 中西準子『環境リスク学-不安の海の羅針盤』では、タバコの健康(発癌?)リスク〔危険性〕が、取り上げられたなかでは最も高かったと思う。放射性物質のポロニウムを肺に吸い込むことにもなっているらしい。

 The New York Timesの2006年12月1日の「Puffing on Polonium」と題する、
http://www.nytimes.com/2006/12/01/opinion/01proctor.html?ex=1322629200&en=4ee500d84a3216dc&ei=5089&partner=rssyahoo&emc=rss

を紹介している
http://blog.goo.ne.jp/cancerit_tips/e/d35d5b67239f5909513171c38899e275

によれば、

  「ウラニウムは土壌に自然に存在しており、それが選択的にタバコの木に吸収され、そこで崩壊して放射性ポロニウムとなる。高濃度のリン酸を含む肥料は、ウラニウムがリン酸と結びつくことからさらに事態を悪化させる。
  1968年、〔略〕タバコ1本平均0.04ピコキュリーのポロニウム210を喫煙者が吸引していると判明した。
  〔略〕ポロニウム210の半減期は138日で、初期の原爆の核燃料より何千倍も強い放射性物質なのだ。」
http://blog.goo.ne.jp/cancerit_tips/e/d35d5b67239f5909513171c38899e275

 歩行喫煙の副流煙によって、われわれが歩いている生活空間にも放射性物質をまき散らしていることになる。実際、副流煙による発癌率も大きい。

 http://www.rist.or.jp/atomica/data/pict/09/09010403/02.gif
によれば、生の魚製品1kg中のポロニウム210の放射能濃度は、2000 mBqである。米ソの核実験と原発からの放出によって、地球は汚染されてしまっているということだろう。

 
 さて、飯田哲也氏は、

  「「経産省は、建前は再処理推進を装いながら、実質的には差し止めろ」と部下に命じて、経産省の経済合理派の役人は、六ヶ所再処理工場を止めるほうにまわった〔略〕。〔略〕「六ヶ所があまりにも経済合理性に合わないから、あんなものを作っていたら日本の原子力は逆にダメになる」という、日本で初めて生じた経済合理性をめぐる対立だったのです。しかし、それも結局は原子力ムラの人たちにつぶされてしまった。あれが2004年なので、そこからの7年間は、日本では原子力政策に関して、まっとうな理論がまるでできない、本当に歯止めのない期間でした。
   〔略〕
   電力の既得権益には大きく分けて2つのセクターがあるんです。独占を守りたい人たちと、原子力に思い入れがある人たち。この両方にとって、自然エネルギーのような小規模で分散型なエネルギーが広がっていくというのは、非常に面白くない。」

と述べている。
 では、自然エネルギーの問題点は何か、それが過渡的なものだとすれば、早急にどのような電力源を開発し利用すべきか?


福島原発事故103:原発リスクと地球温暖化リスク(7)、擬似科学または偽科学(2)

2011年04月26日 10時44分27秒 | 生命生物生活哲学
2011年4月26日-6
福島原発事故103:原発リスクと地球温暖化リスク(7)、擬似科学または偽科学(2)

 さきほどまで積ん読本だった、フリードランダー『きわどい科学』を、つまみ食い(いや、つまみ読み)する。

  「ありとあらゆる人の要求にかなっていて、どんな批判にも耐えることのできる科学の定義などどこにもない。同様に、科学とそのまがいものの境界を画定しようという試みも繰り返しなされてきたが、すべての人の意見を満足させたことは一度としてなかった。」(フリードランダー 1995: 322頁)。

 「ラングミュアが彼の標的としたなかには、N線、ESP、空飛ぶ円盤(UFO)が含まれていた」らしいが、ラングミュアによる「「病的科学の症状」を見きわめる次のような「特徴的なルール」とは、

  1.観測される最大の効果は、ほとんど検出できないくらいの強さの原因から生まれ、その効果の大きさは本質的に原因の強さには依存しない。
  2.その効果の大きさは検出限界ぎりぎりのところにとどまる。あるいは、得られた結果が統計的にはほとんど意味をもたないために、数多くの測定が必要になる。
  3.きわめて精度が高いと主張する。
  4.経験と矛盾する夢のような理論である。
  5.批判すると、とっさに思いついたその場かぎりの言い逃れをする。
  6.反対者に対する支持者の割合は五〇パーセント近くまで上がるが、その後は次第に下がっていってやがて忘れ去られてしまう」(フリードランダー 1995: 323頁)。

 ぴんとこない。たとえば、経験と矛盾する、とか、その場かぎりの言い逃れ、というのは決定的なものとは思えない。緩めて、特徴的と言っても、役に立たない。これは、すでに偽科学のカテゴリーに入る事例について、その『特徴』を考えついたものだろう。では、その偽科学事例とする根拠は何か? ラングミュアがしたことは、N線、ESP、空飛ぶ円盤などについて、教師有りの分類をしたのではなかろうか。そうではなく、われわれができるのは、せいぜいのところ、教師無しの同時分類である。

 
 「理論物理学者で科学哲学者のマリオ・ブンゲ〔→ブーンゲ。Bungeのuは、のばして発音するらしい〕による」、「疑似科学を見分ける有益なチェックリスト〔照合目録〕」(掲載は、Skeptical Inquirer 9(1): 36)を、フリードランダー「なりに言い換えた形で示し」たものは、

  「1.新しい理論は融通性に乏しく、一般に新たな研究の妨げになる。
   2.一般に、支持者は研究していない信奉者からなっている。
   3.場合によっては、商業的な関心から支持を得ることもある。
   4.疑似科学の現象のほとんどは信奉者にしか証明できず、その多くが超自然的効果をほのめかしている。
   5.拠りどころとする議論の多くは時代遅れだったり信頼できない文献から引かれるか、証明不可能である。そうした立論には明確さと首尾一貫性が欠けている。
   6.数学が使われることはめったになく、論理的な議論も欠けていることが多い。
   7.主張される現象の多くは非常に古くからあるものだが、そのアイデアにはほとんど、あるいはまったく進展が見られない。(これと対照的に、科学の本流では知識が累積されていく。)」(フリードランダー 1995: 323-324頁)

 また、独特の特徴として、ブーンゲは、

  1. 新たな仮説を歓迎したがらない。
  2. 好ましくないデータはそのほうが数のうえではるかに勝っている場合ですら隠蔽したり歪曲してしまう。

などを、挙げている(フリードランダー 1995: 324頁)とのことである。

 
[F]
マイケル・W. フリードランダー.1995.(田中嘉津夫・久保田裕訳 1997.4)きわどい科学:ウソとマコトの境域を探る.370+xvii pp.白揚社.[Friedlander, Michael W. 1995. At the Fringes of Science.]


福島原発事故102:原発リスクと地球温暖化リスク(6)、擬似科学または偽科学

2011年04月26日 09時54分42秒 | 生命生物生活哲学
2011年4月26日-4
福島原発事故102:原発リスクと地球温暖化リスク(6)、擬似科学または偽科学

 pseudoscienceは、擬似科学または偽科学と訳し得る。擬似と偽とでは、かなり印象が異なるように思う。擬似は異なっているが似ている、と受け取れる。偽は、本物ではない、である。
 大辞泉によれば、

  「ぎじ【疑似・擬似】
   1 本物によく似ていてまぎらわしいこと。また、そのもの。
   2 そっくりまねをすること。」(大辞泉)

である。ここで、『真似をする』という行為的意味のほうが根源的である、あるいは先立っていると解釈し、その結果として、或る物体が、『或る物に或る程度似ている(つまり、或る程度異なっている)』と考えることができる。また、「擬似」という語を、『異なっているが似ている』と受け取ることができる。

 さて、類似性は、どのような測り方をするか、そしてどのような尺度を取るかで、類似度は違ってくる。取り上げる(諸)性質が異なれば、異なる結果となるという当然の話である。すると、同一の対象について言ってい(るつもりでい)ても、人によって判断基準は異なり、したがって評価は異なり、論争が収束しないことになる(場合が多い)。
 複雑な物体または構築体にまったく同一のものは無い(と、物質的構成から、考えられる)。似ている点に強調点がいけば(重視)、同一とみなすことになるし、異なる点に強調点がいけば、似ているが擬い物(まがいもの)ということになる。『本物』とくらべて(較べることとは、類似性を調べることである)機能的に少し劣っていても、安いからいい、ともなる。

 では、或る物体が本物かどうか、あるいは或る事柄が本当または真実かどうか。これは、主観的な価値的判断である。そもそも、どれが本物だと決定できるのか? そして、客観的な同定というのも、結局は、たとえば人間が行なう限り、主観的なものである。実際、客観的とは間主観的として解釈されよう。すると或る科学者共同体が(世間的に)権威的とみなされるようにし、かつ、その共同体のなかで指導的とみなされるようにすると、或る意見は通りやすい。(いわゆる科学的)根拠、そしてまたデータなるものもまた、人間が作り出すものである。むろんこのことは、何も(「正しい」ではなく)役立つ認識はできない、と言っているのではない。

 さて、

  「pseudoscience
   偽科学:星占い念力など、科学的根拠がないとされる理論法則など」(プログレッシブ英和中辞典)

とある。或ることが『科学的根拠』となるのはどういう場合か、これもいわば同定合戦である。
 また、大きな問題は、或る理論ならば、その定式化がどのような種類と程度のものについて、判断するかである。新しく芽生えた理論は、初期段階では、多々不十分であろう。そして批判によって、整備されることもあるし、されないこともある。
 大きな点は、研究費である。


福島原発事故101:原発リスクと地球温暖化リスク(5)、科学技術のリスク

2011年04月26日 01時31分46秒 | 生命生物生活哲学
2011年4月26日-3
福島原発事故101:原発リスクと地球温暖化リスク(5)、科学技術のリスク

 内部被曝は大きな問題であろう。福島のような状況のために、下記のECRR リスクモデルは開発されたという。

「2011年3月19日 ECRRアドバイス・ノート
ECRR リスクモデルと福島からの放射線
クリス・バスビー
欧州放射線リスク委員会 科学委員長

情報源:ECRR Risk Model and radiation from Fukushima
Chris Busby, Scientific Secretary
European Committee on Radiation Risk
http://www.nirs.org/reactorwatch/accidents/ecrrriskmodelandradiationfromfukushima.pdf

訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会)
掲載日:2011年3月25日」

は、

http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/nuclear/articles/110319_ECRR_Risk_Model.html

に掲載されている。

  「当局によって発表された線量を使用する。それを600倍する。これが福島原発から放出された放射性核種の内部混合の概略 ECRR 線量である。次にこの数値に0.1をかける。これが、ECRR 2010 のガンリスクである。」
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/nuclear/articles/110319_ECRR_Risk_Model.html

  「公衆と日本及びその他の国の当局は、これらの概算に基づき曝露リスクを計算し、公衆を保護しない ICRP モデルはやめた方がよい。これは、2009年レスボス宣言に署名した国際的専門家のグループの結論であった。」
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/nuclear/articles/110319_ECRR_Risk_Model.html

という。


福島原発事故100:原発リスクと地球温暖化リスク(4)、科学技術のリスク

2011年04月26日 00時58分00秒 | 生命生物生活哲学
2011年4月26日-2
福島原発事故100:原発リスクと地球温暖化リスク(4)、科学技術のリスク

 今中哲治氏による、「チェルノブイリ事故による死者の数」
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/tyt2004/imanaka-2.pdf

が、公開されている。
 IAEAは原発被害を過小評価しようとしたことがわかる。

  「IAEAの専門家らは、放射能汚染よりも「精神的ストレス」の方が健康に悪い」

と言っているらしいが、放射能風評被害?による精神的ストレスも、原発被害に入れるべきだろう。


福島原発事故99:原発リスクと地球温暖化リスク(3)、科学技術のリスク

2011年04月26日 00時38分42秒 | 生命生物生活哲学
2011年4月26日-1
福島原発事故99:原発リスクと地球温暖化リスク(3)、科学技術のリスク

 ド・ジェンヌ & バドス『科学は冒険!』は、大型コンピュータを使ったシミュレーションを、「現代における重大な災厄のひとつ」になる場合があると言っている。

  「ショックを与えることを意図した恐怖のイメージからは、明断な判断をする余地など生まれません。大多数の人々は、規模を概算すること、現象の相対的および絶対的重要性を評価すること、そして代わりの解決にかかる費用を算定することについて学んでいません。
 〔略〕
   環境の問題というのは、しばしばシミュレーションの専門家、つまり科学的なデータを解釈するというよりもむしろ、コンピュータ・プログラミングを得意とするような人々によって扱われています。大型コンピュータというのは、その入力する数値が不十分な場合でさえも、もっともらしい予測を生み出すことができます。これは現代における重大な災厄のひとつです。」(ド・ジェンヌ & バドス 1999: 215頁)。

  「一例として、温室効果について考えましょう。実際、地球の大気の温度は上昇しています。炭酸ガスの濃度の増加は人間の活動によるものであるということは考えられることです。この炭酸ガス濃度の増加が、大気中に太陽の放射を閉じこめ、大気を暖めます。したがって、地球表面も暖まり、気象に変化をもたらします。おまけに、南極、北極の氷が溶け、海洋の水の体積が増加し、海抜が低い陸地を水没させてしまいます。
 実際には、この予言はどう見積もってもそのまま信じるのは難しいのです。
 第一に、おもな温室効果は水によるものです。炭酸ガスにあるのは、水が及ぼすものを補正する程度のわずかな効果です。
 第二に、〔略〕海洋には多量の炭酸ガスが溶け込んでいることは知られていますが、気体と海洋の平衡の性質、つまり炭酸ガスの吸収と放出サイクルの時間の長さ〔略〕についてほとんど知られていないのです。
 第三に、〔略〕一九九四年に未来の気候を予言するために用いられたモデルは、現在の気候でさえも正しく説明できていないのです!
 このシミュレーションをした人たちは、この欠陥を大気と海洋の間のガス交換速度を調整することによって修正しました。このような操作によって、外見上は信用できそうな結果が得られたのです。しかし、このような操作は、マサチューセッツ工科大学でなされた最新の研究が示したように、あらゆる予言の問題を危うくするかもしれないのです。アメリカの有力誌『サイエンス』のコメンテーターはこう言っています。「気象予報のモデルについては、誰でも(ちょっと)ごまかしているのです」」
 〔略〕自称専門家がたびたびマスコミに登場し、世界の最期が近づいていると警鐘を鳴らすようなことはよくないでしょう。」(ド・ジェンヌ & バドス 1999: 216-217頁)。

 予測が当たるであろうと信頼できる根拠となるのは、モデルの予測が当たるかどうかである(確証または反確証)。そして一度当たったくらいのときは、たまたまであるかもしれないから、何度かあたるならば、おそらく肝心なところは現象を捉えているだろうと思う。
 もしそれが、メカニズム的なモデルであるほど、信頼したくなるかもしれない。しかしまた、それも経験的な試験(テスト)をして、確証または反確証されなければならない。そしてパラメータの値などを修正した場合は、修正前のモデルとは異なるものとなり、まったく試験を受けていないものとなる。
 変数やパラメータの数を増やすと、過去の値の「再現」の程度は挙げることができる。しかし、そのことは、モデルの信頼性を高めることはない。なお、確証の度合いは、赤池の情報量基準とは関係がない。
 渡辺慧は確証度をベイズ的に定式化したが、はたしてどうなのだろうか? そのことで、なにかがわかったことになるのか?
 
 地球温暖化脅威論は、政治経済的に利用されてしまったようである。あるいは、いろんな段階で原発推進論に利用できるようにされてきたようなも思える。
 どうであれ、予防原則の名のもとに、二酸化炭素などの温暖化ガスを減らさなければ、大変なことになると考えられているためか(あるいは環境ビジネスのためか、お人好し的に排出権取引詐欺に利用されたいためか)、日本政府は、地球温暖化対策関連の予算として年間3兆円を組んだらしいが、それで二酸化炭素排出量は減るどころか、増えたのではなかろうか? その予算を今年以降は、震災復興費用に使うべきだろう。
 
 
[D]
ド・ジェンヌ,ピエール=ジル・バドス,ジャック.1994.(西成勝好・大江秀房訳 1999.11).科学は冒険!:科学者の成功と失敗、喜びと苦しみ.285pp.講談社[新書:ブルーバックス].[Pierre Gilles De Gennes & Jacques Badoz]