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福島原発事故102:原発リスクと地球温暖化リスク(6)、擬似科学または偽科学

2011年04月26日 09時54分42秒 | 生命生物生活哲学
2011年4月26日-4
福島原発事故102:原発リスクと地球温暖化リスク(6)、擬似科学または偽科学

 pseudoscienceは、擬似科学または偽科学と訳し得る。擬似と偽とでは、かなり印象が異なるように思う。擬似は異なっているが似ている、と受け取れる。偽は、本物ではない、である。
 大辞泉によれば、

  「ぎじ【疑似・擬似】
   1 本物によく似ていてまぎらわしいこと。また、そのもの。
   2 そっくりまねをすること。」(大辞泉)

である。ここで、『真似をする』という行為的意味のほうが根源的である、あるいは先立っていると解釈し、その結果として、或る物体が、『或る物に或る程度似ている(つまり、或る程度異なっている)』と考えることができる。また、「擬似」という語を、『異なっているが似ている』と受け取ることができる。

 さて、類似性は、どのような測り方をするか、そしてどのような尺度を取るかで、類似度は違ってくる。取り上げる(諸)性質が異なれば、異なる結果となるという当然の話である。すると、同一の対象について言ってい(るつもりでい)ても、人によって判断基準は異なり、したがって評価は異なり、論争が収束しないことになる(場合が多い)。
 複雑な物体または構築体にまったく同一のものは無い(と、物質的構成から、考えられる)。似ている点に強調点がいけば(重視)、同一とみなすことになるし、異なる点に強調点がいけば、似ているが擬い物(まがいもの)ということになる。『本物』とくらべて(較べることとは、類似性を調べることである)機能的に少し劣っていても、安いからいい、ともなる。

 では、或る物体が本物かどうか、あるいは或る事柄が本当または真実かどうか。これは、主観的な価値的判断である。そもそも、どれが本物だと決定できるのか? そして、客観的な同定というのも、結局は、たとえば人間が行なう限り、主観的なものである。実際、客観的とは間主観的として解釈されよう。すると或る科学者共同体が(世間的に)権威的とみなされるようにし、かつ、その共同体のなかで指導的とみなされるようにすると、或る意見は通りやすい。(いわゆる科学的)根拠、そしてまたデータなるものもまた、人間が作り出すものである。むろんこのことは、何も(「正しい」ではなく)役立つ認識はできない、と言っているのではない。

 さて、

  「pseudoscience
   偽科学:星占い念力など、科学的根拠がないとされる理論法則など」(プログレッシブ英和中辞典)

とある。或ることが『科学的根拠』となるのはどういう場合か、これもいわば同定合戦である。
 また、大きな問題は、或る理論ならば、その定式化がどのような種類と程度のものについて、判断するかである。新しく芽生えた理論は、初期段階では、多々不十分であろう。そして批判によって、整備されることもあるし、されないこともある。
 大きな点は、研究費である。