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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

生ける神の印 デビット・カン講演34

2013年01月31日 | 日記


    ひまわりさんより(1月31日)

新しい仕事をはじめてしばらくは、湧き上がってくるつぶやきたくなる心と必死で戦い、何とか口に出さないようにしてきました。そして、「我が主よ心に入らせたまえ」を歌い、「イエス様、どうぞ私のうちに宿ってください」と祈っていくと、半日ぐらいすれば、心が穏やかになってきました。でも、半日後に平安になるぐらいではいけないと思って、こんどは、デビット・カン先生が教えておられる、「イエス様の動機と希望をお与えください」という祈りを、朝、問題が起きる前にしていたところ、全然イライラしなくなってきました。まだ、活気があるとか感謝があふれるというレベルではありませんが、淡々としていて、黙々とひたすら仕事をこなしてけるようになってきました。つぶやきや不満は、すごいマイナスの感情で疲れ果てさせられるのですが、それがなくなってきて、心が穏やかになってきました。

    アブラハムの信仰(デビット・カン講演34)

ある日、神様がアブラハムの前に現れました。そして、こう言われました。「あなたのひとり息子イサクを、生贄として捧げなさい」と。「燔祭として捧げなさい」 アブラハムは理解できませんでした。なぜだかわかりません。それでも、神様に信頼をおきました。息子を連れて、モリヤ山に行きました。そして、今にも殺そうとしたときです。これは、見せかけではなく、本当にそうしようとしていたのです。神様が、「わかった、わかった、やめなさい」と言われました。「あなたが、私を恐れる者であることが、今、わかりました」
「第1天使の使命」とは何でしょう。「神を恐れ、神に栄光を帰せよ」とあります。 それはどういうことですか。神様の戒めを守るということです。安息日を守るということはどういうことでしょう。私たちが、神様のすべての戒めに従っていることの、外見に、外に現れたものなのです。




生ける神の印 デビット・カン講演33

2013年01月30日 | 日記


    ひまわりさんより(1月30日)
 昨日の日課の言葉をご紹介します。「キリストは人間が天から力を受けてはじめて、けがれのない生涯が送られるのだということを示すために、この世においでになったのである。そして不屈の忍耐と同情をもって人々を助け、彼らの必要を満たされた。彼は優しい手をもって人の心から不安や疑惑を一掃し、敵意を愛に、不信を信頼にお変えになった。・・・
 彼のみ声が発せられると、この世の魅力は打ち破られ、貪欲と野心的な精神は彼らの心から逃げ去った。こうして人々は自由の身となり、救い主に従うために立ち上がった」(ミニストリーオブ・ヒーリングより)
 ここで言われている、「人間が天から力を受けて、敵意を愛に、不信を信頼に」変えられる、という経験を、デビット・カン先生は、外庭の経験だとはっきり教えておられます。私が今まで教会で学んできたことでは、このような経験は、遠い将来の経験とか、聖化の終わり近くの経験、至聖所のあたりで経験するようなことと、何となく考えてきたように思います。しかし、この経験は、信仰の最終目標ではなくて、スタートなのだということを、感じさせられました。

   神様に従う(デビット・カン講演33)
私たちが、お互いに接するとき、そして、いろんなことを語ったり、行ったりするとき、私たちは、イエス・キリストを反映すべきであります。それをする時、私たちは本当の意味での安息日遵守者となるのです。これこそが、「生ける神の印」なのです。
私たちは、なぜ第7日安息日に、教会にやってくるのでしょうか。神様がそうしなさいと言われたからです。私たちは、神様の云われるとおりに生きる者なのです。時にはその理由がわからないこともあるでしょう。しかし、神様に自らをあけ渡すとき、神様の言われることが何であれ、それに従うべきです。




生ける神の印 デビット・カン講演32

2013年01月29日 | 日記


ひまわりさんより(1月29日)
この前の日曜日、私の人生でも最大級の悲劇(?)に見舞われました。私の家には、大きな蔵があって、その中に、ジョイのエサや、畑仕事の道具、自転車などをしまっています。冬になって、タイヤを冬用に取り替えたので、今までの普通車用と軽用計8本のタイヤをここにしまうことにしました。その時、この蔵では、以前ジョイのエサがネズミに荒らされたことがあったので、もしかしたらタイヤもかじられるかもしれないと思ったのです。それで、ホームセンターで、プロが認めるという強力粘着ネズミ取りを買ってきて設置することにしました。そして、・・・そうなんです。お察しの通り、この強力なネズミ取りに、わたし自身が引っかかってしまったのです。夕方だったので、懐中電灯の光の中で、蔵の隅に5枚セットで並べていたら、粘着部に右の手首が少し触ってしまい、あわてて取ろうとしたら、はがれなくてますます強くくっついてしまいました。その拍子に左手もくっついてしまい、もうどうすることもできません。本当に強力で、無理にはがそうとしたら、表皮剥離してしまいました。私は、泣きながら少しづつはがし続けました。全部はがし終わった時には、右手首はあざだらけ、見るもむざんな姿になってしまいました。夫や子供には、「人間がネズミ取りにかかるなんて、前代未聞だね」と言って笑われ、みじめなものでした。やっと、今日になって少し気を取り直したところです。ええ、でも私はこんなことにめげないで、信仰による義の体験を求めていくつもりです。「信仰による義とは自分の栄光を塵に伏させる」経験なのですから・・・。(写真の後ろに少し見えているのが蔵です)

ストラディバリウスを受け取る(デビット・カン講演32)
ものすごく高価なバイオリンなんですけど、ただでもらったのですね。この物語を本で読みました。そして、あることに気づいたのです。『私は神様に属する者である。私という人間は私のものではない、自分のために、自分を自分のものにしようとしている限り、私がやることは、この世の中からほこりをかき集めるだけである、しかし、私自身をイエス様にあけ渡して屈服するとき、イエス様が私を調律して下さって、イエス様の音楽をかなでて下さる。
私たちは、神様の御名を讃えるために造られた存在なのです。これが創造の目的なのです。それゆえに神様は私たちをお造りになったのです。神様の御名を讃えて、神様に栄光を帰するために・・・。




生ける神の印 デビット・カン講演31

2013年01月28日 | 日記



    ひまわりさんより(1月28日)

デビット・カン先生は、「二つの契約」の中で、私たちは、古い契約のもとにある生き方から、新しい契約のもとにある生き方へと変わらなければならないことを教えておられます。古い契約のもとでは、クリスチャンは、聖書に書いてあるから従わなければならないという心で、しかも自分の力で従おうとします。それに対して、新しい契約では、愛の神様の教えに喜んで従おうとします。そして、イエス様の力によって従うことができるようにされます。また、古い契約は石の板に律法が書き記されましたが、新しい契約では、心に律法が書き記されるのです。では、心に律法が書き記されるとはどういう経験かというと、カン先生は、「罪を憎んで義を愛する」心になることだと教えておられます。それは、心に律法の基準が入っているので、これが罪だということを見抜いて、それに従わないようになることだと思います。古い契約でも、それが罪だということは分かるのですが、罪を憎んでいないので、嘆くだけでそこから抜け出すことができませんでした。罪を憎んでいくようになってくると、何とかしてそこから離れようとして、イエス様に必死ですがり勝利できるようにさせられていきます。このことから、創世記で、神様が「わたしは恨みをおく、おまえのすえと女のすえとの間に」と言われたことも少しわかってきました。ここの「恨み」とは、「敵意」ということだそうです。罪に対する敵意、それが心に植え付けられたときに、罪への勝利という真の福音が始まるのだと思います。

    ストラディバリウス3(デビット・カン講演31)

「この音楽はどこから聞こえてくるんだろうか」「どこから流れてくるんだろうか。ラジオじゃないし・・・。じゃあどこだ」 「あの老人の家だ。行ってみよう」いろんな人たちが押しかけてきました。勝手に入ってきて、いすに座り始めました。家の外にも、立ち見客が増えてきました。そして、一曲弾き終わったあと、ものすごい拍手、喝さいが起きました。「もう一曲お願いします」「こんな美しい音楽、聞いたことがありません」「もう一曲お願いします」 結局、五曲演奏しました。演奏し終わった後、バイオリンを注意深くケースにしまいました。そして、その老人に戻したわけです。驚いたことに、その老人は目から涙を流していたのです。「何か悪いことをしたのでしょうか」と尋ねました。「いや、何も悪いことをしてないよ。あなたの音楽を聴いているうちに、一つのことに気づきました。このバイオリンは、私に属すべきものではなくて、あなたに属すべきものであることがわかりました。私がこのバイオリンを持っていた間、だだもうほこりをかぶせていただけでした。それでは何にもなりません。ところがそれがあなたの手に渡った瞬間、バイオリンが本来の作られた目的を果たしてくれました。バイオリンというのは、音楽で人の心を喜ばせ、慰めるために作られているのです。そして、あなたの手の内にあった時、美しい音楽をかなでました。だから、これをあなたに差し上げます」と言いました。「売ってくださるということですね。お値段を言って下さい。お支払い致しますから」「これは売り物ではないと言ったでしょう。あなたにあげます」






後の雨に備える(デビット・カン講演30)

2013年01月27日 | 日記



    ひまわりさんより(1月27日)

ペテロ第2の手紙1章5,6節には、「ペテロのはしご」と呼ばれるクリスチャン経験の成長の階段が書かれています。「それだから、あなたがたは、力の限りをつくしてあなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい」。私はここの、「信仰」と「信心」の違いが良くわかりませんでした。カン先生は、信心の奥義は、罪に勝利する経験だと言っておられます。それは人間にはできないけれども、イエス様が心のうちに住んで下さる時に可能になることです。そのような、聖書に対する信仰によって、罪に勝利できるとの確信を持った人が、徳、知識、節制を身につけていくときに、実際に罪に勝利する体験をしていくことが「信心」なのだということを考えさせられました。

   ストラディバリウス2(デビット・カン講演30)

「わかった。では入りなさい」ということになりました。それから、押し入れをあけまして、そこにバイオリンのケースがありましたが、その上にはホコリがたまっている状態でした。それを下して、フッ フッとほこりを落として、そのバイオリン奏者に渡しました。ケースを注意深く開けました。バイオリンを手に取って、「これ、見せていただきましたが、弦に触ってもよろしいですか」「ああ、いいよ、急いでやりなさい」。弦を触ってみたのですね。「弦を触ったついでに、これ弾いてもいいでしょうか」 「まあ、ずうずうしいなあ」と言いました。「まあ、いいだろう」ほんとうに古いバイオリンでした。塗装も剥げている所がありました。注意深く音を調律してから、バイオリンの弓を弦にあてて弾き始めたのです。きれいな音楽を演奏しました。その音楽が家の外にも漏れていって、町の人たちに聞こえて行ったわけです。