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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されることがあるのか?第17回

2017年07月31日 | 日記

6、枝は切り取られることがある

 ローマ人への手紙11章で、パウロは血縁によるイスラエルの子孫の中で、多くの者が神のみ子を拒んで失われていくことについて論じています。彼はオリブの木を用いてたとえました。17節から20節によると、元木の枝はイスラエルの子らを意味しますが、彼らの不従順のゆえに切り取られてしまいました。その後、野生のオリブの枝がつがれますが、それは、異邦人からキリスト教に改宗した人々を表します。では、次の勧告を注意してみましょう。「もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう」(ローマ11:21、22)。

 枝の安全は、全的に幹とつながっていることであることに注意してください。永遠の命に対する安全と保証は条件付きです。ペテロもこのようなパウロの考えに同意しています。「これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものとしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない」(Ⅱペテロ1:9、10)。これは確実に、クリスチャンたちが恵みから離れていくことがあるという事実を指摘しています。

人が救われたと公然と話した後にも、キリストから離れるなら、滅ぼされることがあるという事実を教える聖書の最も重要な聖句は、ペテロの第二の手紙2章20~22節です。「彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。ことわざに、『犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く』とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである」。この言葉が与えている教訓は余りにも明白です。

 「無条件的な救いの保証」という立場をとる人々は、神様の子供たちが、犬や豚にたとえられることはないと言います。しかしこの聖句が与える教訓は明白です。彼らは、神様と救い主イエス・キリストを知る知識を通して、この世の汚れから逃れました。彼らは悔い改めました。彼らはキリストの味方になりました。彼らは彼らの生涯を主にゆだねました。しかし彼らは世俗や罪の『穴』を再び思い出しました。エジプトから出た昔のイスラエルの民のように、彼らは「肉のなべのかたわら」と「にらとにんにく」を懐かしがりました。彼らは罪の楽しみを思い出し、あたかも、豚が洗われてもまた泥の中に転がるように、キリストを離れて再びこの世へ戻ってしまいました。どんなクリスチャンも、豚のように過ごしてはいけません。しかしペテロの教訓は、そのようなことが、あらゆるクリスチャンに起きる可能性があることを教えています。


救いは取り消されることがあるのか?第16回  

2017年07月30日 | 日記

ところで、「一度救われたら永遠に救われる」という立場を主張する人々が、よく親と子の関係をたとえにして、自分たちの立場を説明することがあります。「私の子供は私の家族として生まれて来たのだから、常に私の子供である。彼らは私の家に生まれてきた以上、親子の関係をなくすことは出来ない。子供が従順であっても、不従順であっても、それにかかわらず常に私の子供であることには変わりがない」。

この説明はもっともなものですが、重大な点を一つ見逃しています。問題は、子供が病気で死んだり、家出をしたあげく、家に帰ることもなく死んでしまうことがあるということです。その時には、親子の関係も断たれてしまいます。子供が死ぬことなく健康で生きられるようにするために、医者や親は様々な健康原則や生活上の注意をします。しかし、もし子供が病気になって食事を食べなくなったら、その子は死ぬことになります。同じようにイエス様は、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(ヨハネ6:53)と言われました。

 

今や私たちは、最終的な救いのためには、継続的な従順が必要であることについて、明確に理解することができました。パウロは「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである」(ローマ6:16)と言いました。人がキリストに従わないことを選び、自我の思いとサタンに従うようになる時、その人はサタンの僕に属することになります。「子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである」(Ⅰヨハネ3:7,8)。

へブル人への手紙の著者は、救われた者が、信仰から離れていくことについて特別な警告を繰り返しています。へブル人への手紙10章23節からの聖句は、「一度救われたらその救いは永久に続くもので、誰もその救いをくつがえすことができない」と主張する人たちの立場を混乱させます。そこでは、「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け」るべきことについて警告しています。その後に、クリスチャンの集まりから離れて誘惑に陥る人たちについて勧告が与えられています。これは明確に、信仰から離れていく者たちに対する警告です。そして、この手紙の著者は、この警告の対象に自分自身も含んでいるのです。

彼は「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう」(へブル10:26~29)。ここで描写されているのは、真理に対する理解と知識を持っていたのに、故意に罪を犯し続け、背信した人々です。救われた人でも、滅亡に陥る可能性がないのなら、神様の偉大な使徒がなぜこのような警告をはっきりと残したのでしょうか?

 

へブル人への手紙6章4~6節で、私たちは別の恐るべき言葉を見ることができます。「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である」。

新しく生まれる経験をした後に、神様に逆らい、キリストを否定して聖霊を捨てた者たちを、植物にたとえて「無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう」(ヘブル6:8)と言いました。これほど激しい描写があるでしょうか。この聖句で警告されている人は、自分の選択と決定に従って、神様の影響力の外側に自分自身を置いた者です。従ってそのような人は、不従順を繰り返し、キリストを十字架に釘付け続ける限り、救われることはできません。


救いは取り消されることがあるのか?第15回  

2017年07月29日 | 日記

5、捨てられる危険

 使徒パウロは、肉体的な罪の性向を征服出来ないのであれば、結局神様のみ前に立つことができないという事実を、確実に悟っていました。「すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」(Ⅰコリント9:27)。パウロがここで用いた「失格者」という言葉はとても興味ある言葉です。それはギリシヤ語で『アドキモス』と言って、他の箇所では、「見捨てられる」という意味で用いられています。

第Ⅱコリント13章5節。「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる」。イエス・キリストが見捨てられる(アドキモス)者の心には、キリストがおられないのです。

テトス1章16節。「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者(アドキモス)である」。神様を信じているといっても、行いが伴わない者たちは忌み嫌われてしまうのです。使徒パウロは、一度救われても、再び罪に捕らわれることを許容してしまうなら、滅びるほかないことを教えています。

 

同じようにパウロは、新生(聖霊による生まれ変わり)の経験をした信者たちが、破滅する可能性があることについても語っています。それは彼らが、主の体をわきまえないで飲み食いするためであると言いました。「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」(Ⅰコリント11:29)。この人々は教会員であり、救いの経験を共に分かち合ったクリスチャンであったことは確かです。しかしそのような人たちが、どうして裁かれて滅びに直面するのでしょうか?テモテへの第一の手紙5章12節に、それに対する答えがあります。「初めの誓いを無視したという非難を受けねばならないからである」。クリスチャンが「初めの誓いを無視」するなら最後の時に裁かれることがあるというのは、聖書的な、疑う余地のない明白な事実なのです。


救いは取り消されることがあるのか?第14回   

2017年07月28日 | 日記

4、救いは失うことがある!

 別のキリストのたとえ話でも、信者たちに対する赦しは条件付きであるという事実が確認できます。それはマタイによる福音書18章21~35節の話です。この物語は、神様の赦しの性質について教えられたものです。ある王様が、自分の僕の哀願に応じて、莫大な借金を帳消しにしてあげました。ところがこの僕が、自分にわずかな借金のある同労者に会うと、自分から借りた金を返さないことを怒って、無慈悲にも彼を牢屋に閉じ込めてしまいました。このことを聞いた王様は怒りました。そして、以前その僕に対して行った巨額の借金の免除を取り消して、その僕がお金をすべて返すまで牢屋に閉じ込めたという話です。

誰であれ、このたとえ話が伝えようとしている明白な教えを否定することはできません。神様は赦しを求める全ての人をお赦しになりますが、その赦しは条件なしに与えられるものではありません。私たちが他人を無慈悲に扱うなら、すでに受けていた赦しを失うことがあるのです。これはエゼキエル書33章13節の言葉と一致する内容です。「わたしが義人に、彼は必ず生きると言っても、もし彼が自分の義をたのんで、罪を犯すなら、彼のすべての義は覚えられない。彼はみずから犯した罪のために死ぬ」。この原則は18節で再び繰り返されています。「義人がその義を離れて、罪を犯すならば、彼はこれがために死ぬ」。

 永遠の救いの秘訣は、救いの源であるキリストと、いつも正しい関係を維持することにあります。イエス様は「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24:13)と言われました。試みと誘惑を受ける時、神様のみ力に頼って、それを退けない者は、結局救われないでしょう。最後まで耐え忍ばない者は、彼らの名前が命の書から除去されることになります。永遠の命に関して、無条件の、永久的な救いを主張する人たちは、ある種の罪や弱さを持っていても、イエス様の救いを信じているなら救われると言います。しかし、ヨハネの黙示録3章5節は、真実なクリスチャンは、罪に対して完全に勝利できるということを明白にしています。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう」このみ言葉が教える意味は明白です。勝利できない者、つまり、最後まで耐え忍ばなかった者は、彼らの名前が、いのちの書から消されるという言葉です。

 

これから引用するすべての聖句は、同じ真理について語っています。故意に罪を犯し続けるなら、永遠の命を得ることができる関係を断絶させてしまいます。永遠の命には、常に条件が伴うという事実を忘れてはなりません。

「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(Ⅰヨハネ1:7)「初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる」

(Ⅰヨハネ2:24)

「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」

(へブル10:38)

「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」(ヨハネ15:6)

「よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」(ヨハネ8:51)。

「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう」

(ローマ11:22)

「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない」(Ⅱペテロ1:10)

「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう」(ローマ8:13)


救いは取り消されることがあるのか?第13回

2017年07月27日 | 日記

3、絶えずキリストとつながる生活

 枝がぶどうの木から切り離された時、命の補給はなくなり、その結果は死だけになります。同じように、私たちがクリスチャンとして生きるためには、命の源であるキリストに絶えずつながっていなければなりません。人がキリストのうちにとどまるのでなければ、彼はやがてしおれて死に、結局は火に焼かれてしまいます。このことは、キリストとクリスチャンの関係は、単に過去のある時、キリストにつながったことがあるという経験に基づいたものではないということを教えています。「わたしたちのいのちなるキリスト」(コロサイ3:4)から流れる命を、クリスチャンが絶えず受け続けている時だけ、人は生きているということが出来るのです。

 キリストが語られたぶどうの木のたとえ(ヨハネ15:1~12)は、とてもわかりやすく、誰もがはっきりと理解できます。生きたぶどうの木であるキリストと、それにつながる真実なクリスチャンであっても、つながることを願わなくなればぶどうの木から分離されます。その瞬間から彼らの霊的な命は死ぬことになり、やがて火に投げ込まれて焼き尽くされる運命となります。以前生きていたものが、今はしおれて死ぬことになるのです。永遠の命の保証は、ただ彼らの信仰がキリストに固定され、彼らの心が「わたしたちのいのちなるキリスト」とつながれている時だけ、得ることが出来ます。ですから、私たちが過去にどれほど素晴らしい救いを体験したとしても、今現在キリストと正しい関係にないなら、滅びることもあるのです。

イエス様は種まきのたとえで、一度救われた者でも、永遠の命を失う場合があることを教えられました(ルカ8:4~15)。このたとえでイエス様は、道ばたや岩の上、いばらの中に落ちた種について、このように説明されました。「道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである」(ルカ8:12~14)

 このたとえで、私たちが注目しなければならないことは、ここで語られた4種類の人々のうち、よい地に落ちた人たちだけしか最終的に救いを受けることができないという点です。豊かな実を結ぶ者だけが、救いを受けることになります。道ばたと岩の上、いばらの中に落ちた種にたとえられた人たちは、決して救いを得ることはできないのです。ある時までは真実であり、ある時までは救われた人であったとしても、誘惑の時に信仰から離れていってしまうなら、彼らは結局失われた者になります。このたとえは、人がある期間救いの信仰を持っていたとしても、後に信仰をなくすなら、滅亡するという主の明白な教えです。