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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

現代のイスラエル 13

2013年04月30日 | 日記

 

  もう罪を犯してはいけない 15 あなたのために

火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。(民数記21章8節)

宿営の端から端まで、老若男女にかかわらず、すべての人が願えばいつでも眺められるように、高く高く十字架は掲げられている。「サタンの欺きで罪に噛まれ、嘆き悲しむ私の民よ、私を仰ぎ見なさい、そして生きなさい!」

わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう。(ヨハネによる福音書12章32節) 

尊い神のみ子が十字架に架けられた。その方の身体は打たれ傷つけられ砕かれた。人々を祝福するために広げられたそのみ手には太い釘が打たれた。愛の奉仕で疲れることのなかった足には鉄釘が打たれ、十字架に固定された。その方の貴い頭はいばらの冠で刺し通された。人々を慰め励ましたその唇は、苦痛にゆがめられた。

その方の手と足から流れ出す血潮と全身を襲う激痛、そして、全人類の罪の重荷、さらに、父なる神からさえ見捨てられたかのように見える魂の苦悩、その苦しみの十字架の上から、キリストは全人類に向かってこう言われる。 

「私が罪の重荷を背負うことに同意したのは、すべてあなたのためだ。あなたのために私は死の力を打ち破って、楽園の門を開いた」 

嵐の海をしずめ、波の上を歩き、悪霊を震えおののかせ、病を追い出し、盲人の目を開き、死者を生き返らせたそのお方が、ご自身を十字架に捧げて下さった。その方は、罪そのものになって、聖なる神の義の怒りを受けられた。それは、あなたを愛しておられるからだ。

 

現代のイスラエル 13 教会として聖霊の声を拒むとき 

 

ここでステパノは結論をいそぎました。イスラエルの目的は、メシヤの誕生をもたらすものであったということ、これは私たちの目的でもあります。にもかかわらず、その義なる方をあなた方は殺すのか。そう指摘を受けて彼らは怒り狂いました。そのことが分かりますか。よく見てとれますよね。その結果彼らは、歯ぎしりをするほど怒って彼の首根っこを掴んで外へ引きずり出して、石で打ち殺しました。この時、彼らはついに教会として聖霊の声を拒絶するという行為に至ったのです。これは本当に悲しむべき光景でした。しかし皆さん、この地上歴史の最後の時代になって、私たちが神の教会として同じような歴史を繰り返そうとしているのです。そのことを思うとき、私は泣きそうになります。本当に悲しくなります。しかし何ができるでしょうか。なぜ神様はこのアドベンチスト教会を設立なさったのでしょうか。ダニエル書の2300日の預言研究の結果、大再臨運動が起こりましたが、大失望に終わりました。けれども、その後にアドベンチスト、再臨信徒たちが理解したのは何だったのでしょうか。彼らは何を理解しましたか。イエス・キリストが天の至聖所にお入りになったという真理を理解したのです。何のために入られたのですか。最後の贖いのためでした。罪の除去のためでした。罪の問題に永久に終わりを来たらせるためでした。そして、永遠の義をもたらすためでした。これこそ神様がこの教会を起こされた目的だったのです。このようにして、永遠の福音、福音の目的を理解するようになっていったのです。

 

 

 


現代のイスラエル 12

2013年04月29日 | 日記

  

 もう罪を犯してはいけない 14 キリストのように生きる

彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。(マタイによる福音書1章21節)

 

イエス様は、この地上におられる間、私たちと全く同じ立場で試練と誘惑を受けられた。しかしイエス様は、聖霊の力と、毎日祈られることで罪に勝利することができるという完全な手本を見せて下さった。

信仰の兄弟姉妹の皆さん。キリストにある品性の標準を人に求めないで、聖書と、聖書が証するキリストの生き方に求め、キリストのように生きることを求めなければならない。

「彼におる」という者は、彼が歩まれたように、その人自身も歩くべきである。(ヨハネ第一の手紙2章6節)

私たちは自分の薄弱な意志で罪に勝利することは絶対にできない。それは100%不可能だ。私たちはすでに、数えきれないほど罪を犯してきた。だから私たちは毎朝、静かな時間に私たちの心の中に聖霊の神様を受け、神様の臨在を毎日体験しなければならない。このような体験なしに生きるクリスチャンはにせ物だ。

 

   現代のイスラエル 12 ユダヤ教会の真の目的と私たち                   

神様は、聖所の儀式の様々な働きを通して、務めを通して、ご自分の品性をお示しになろうとされました。 神様は、人間をどのようにして罪の奴隷状態から救い出すかというご計画を、聖所の働きを通して示そうとなさったわけです。テモテ第1の手紙によると、教会は神の真理の基礎、真理の柱であると述べられております(3章15節)。しかし、教会自体が神となることはできないということ、従って教会は権威を直接振りかざすことはできないのです。そういった神の権威を振りかざそうとするならば、神の教会であっても反キリストに変わってしまいます。では、教会とは何でしょう。教会とは神の民のことです。教会とは神の光、真理がおさめられる所であります。教会というのは、真理、聖書の真理、神の真理を支持するための機関なのですね。

そしてステパノがここで指摘していたのは、イスラエルという神の教会であったはずの機関が、キリストの王座でなくて別の存在の王座にとって代ってしまったと、言っていたわけです。あなたがた神の教会が、神の教会でなくなり、かえって神の義を擁護する人たちを迫害する側に回ってしまったということをステパノは指摘していました。これは本当に力強い証であります。そのことを理解した時に、私の心は強く打たれました。涙があふれて来ました。なぜなら、ステパノは私たちの教会、私たちの霊的状態について述べている、指摘しているのだということが分かったからです。神の教会は、神の真理を擁護する立場にあります。福音、ご自分の義を全世界に述べ伝えるという目的を果たすために教会をお建てになったわけです。その結果、罪に終わりをきたらせることができるということでした。そして永遠の義が示されるようになる、これこそ、イエス様がこの世界にご自分の教会をお建てになった理由だったのです。このメッセージを、まず私たちは、世界に対して宣布しなければなりません。これこそが永遠の福音なのです。これこそが私たちの教会の目的なのであります。神様が、私たちをどのように罪からお救いになるのか、世の人々に説明するようになっていたのです。ところが、当時のユダヤ教会は、その働きに携わっていませんでした。かえってその働きを妨害し、壊していたのです。さらに、義人たちを罰するという、自分たちがあたかも神のようになって、権力をふるっていたわけです。そして、教会に対する神様の目的を曲解し、この地上の一時的な王国を打ち立てるのが、神様の目的であるかのように彼らはふるまっていたわけです。


現代のイスラエル 11

2013年04月28日 | 日記


   「もう罪を犯してはいけない」 13

  どうして青銅の蛇がイエス様の象徴なのか?

神様はイスラエルの民が蛇に噛まれて死んでいくとき、どうして青銅の蛇を作るように言われたのか? この象徴は、私たちにどんな意味を与えるのだろうか? これは、私たちのために、私たちと全く同じ罪ある姿で来られたイエス・キリストを眺めるという意味がある。

律法が肉により無力となっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。(ローマ人への手紙8章3節)

「罪の肉の様で」つかわされた、というみ言葉の意味は次のようだ。

この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないような方ではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。(ヘブル人への手紙4章15節)

イエス様は、試練に負ける可能性をもつ人間の性質を取っておられた。私たちの受ける試練で、この方が受けられなかった試練は一つもない。だから、わたしたちが罪を犯すことに対して、何一つ言い訳をすることはできない。イエス様は、過去の罪を赦すだけでなく、現在私たちが日々に遭遇する罪に完全に勝利することができるために十字架にお架かりになられたのだ。

 

   「現代のイスラエル」 11 権力をふるう教会

何という力強い証でしょうか。もう、44節から51節の部分まで語った時にステパノは、ユダヤの指導者たちが怒りの極みに達しているということを見ることができました。これ以上長く話すことはできないだろうと悟ったのです。そこでステパノは結論を急いで52節、53節の言葉を語りました。このような理論立てをしていけば、もう少し語ることができたはずなのですが、しかし、もう自分は間もなく彼らに殺されるであろうということを悟ったステパノは、結論を急いでまとめてしまいました。

ここで彼が言わんとしていたことは何でしたか?この44節から51節までで、彼は何を言っていたのでしょうか。教会の権威について述べていたのです。この、当時のユダヤ教会に於いて王のような権力をふるっていた権威についてのべていました。自らを神の側に置いて、あたかも自分が神であるかのように、王のように権力をふるっていた、教会の指導者たちを譴責していたのです。つまり、自分たちの権力を誤用していた。誤って用いていたんですね。

ダビデとソロモンによって建てられた聖所、神殿について述べていますけれども、これは神様の王的な権力、力の、権勢の象徴である、外面的な象徴であるということをステパノは述べました。実際には人間が建てたどんな立派な建物も、神様をそこに入れることはできないわけですね。ところが地上の当時の教会は神様を自分たちのカラの中に、箱の中に閉じ込めようと試みたわけです。しかし神様は全天をもってもおさめることはできないお方です。そして、地上の教会も宮も神様の足台ともならないわけです。神のご臨在と比べるならば地上の教会、地上の神の民、宮、神殿などは無に等しいものであったわけです。


現代のイスラエル 11

2013年04月28日 | 日記


   「もう罪を犯してはいけない」 13

  どうして青銅の蛇がイエス様の象徴なのか?

神様はイスラエルの民が蛇に噛まれて死んでいくとき、どうして青銅の蛇を作るように言われたのか? この象徴は、私たちにどんな意味を与えるのだろうか? これは、私たちのために、私たちと全く同じ罪ある姿で来られたイエス・キリストを眺めるという意味がある。

律法が肉により無力となっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。(ローマ人への手紙8章3節)

「罪の肉の様で」つかわされた、というみ言葉の意味は次のようだ。

この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないような方ではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。(ヘブル人への手紙4章15節)

イエス様は、試練に負ける可能性をもつ人間の性質を取っておられた。私たちの受ける試練で、この方が受けられなかった試練は一つもない。だから、わたしたちが罪を犯すことに対して、何一つ言い訳をすることはできない。イエス様は、過去の罪を赦すだけでなく、現在私たちが日々に遭遇する罪に完全に勝利することができるために十字架にお架かりになられたのだ。

 

   「現代のイスラエル」 11 権力をふるう教会

何という力強い証でしょうか。もう、44節から51節の部分まで語った時にステパノは、ユダヤの指導者たちが怒りの極みに達しているということを見ることができました。これ以上長く話すことはできないだろうと悟ったのです。そこでステパノは結論を急いで52節、53節の言葉を語りました。このような理論立てをしていけば、もう少し語ることができたはずなのですが、しかし、もう自分は間もなく彼らに殺されるであろうということを悟ったステパノは、結論を急いでまとめてしまいました。

ここで彼が言わんとしていたことは何でしたか?この44節から51節までで、彼は何を言っていたのでしょうか。教会の権威について述べていたのです。この、当時のユダヤ教会に於いて王のような権力をふるっていた権威についてのべていました。自らを神の側に置いて、あたかも自分が神であるかのように、王のように権力をふるっていた、教会の指導者たちを譴責していたのです。つまり、自分たちの権力を誤用していた。誤って用いていたんですね。

ダビデとソロモンによって建てられた聖所、神殿について述べていますけれども、これは神様の王的な権力、力の、権勢の象徴である、外面的な象徴であるということをステパノは述べました。実際には人間が建てたどんな立派な建物も、神様をそこに入れることはできないわけですね。ところが地上の当時の教会は神様を自分たちのカラの中に、箱の中に閉じ込めようと試みたわけです。しかし神様は全天をもってもおさめることはできないお方です。そして、地上の教会も宮も神様の足台ともならないわけです。神のご臨在と比べるならば地上の教会、地上の神の民、宮、神殿などは無に等しいものであったわけです。


現代のイスラエル 10

2013年04月27日 | 日記

 

   

「もう罪を犯してはいけない」12 魂を癒す十字架

青銅の蛇を眺める者は、その信仰によって癒された。そのように私たちの罪のために苦しめられたキリスト・イエス様を、信仰によって眺める時に、罪に対する癒しがある。十字架を真に崇める者には変化が起きる。心の中にある自分を高める思いが、神様を高める思いに変えられ、傲慢と利己的な心が、神様を愛し他の人を愛する心に変えられるのだ。これが十字架の力なのである。

十字架は、私たちの過去の罪を赦すだけでなく、現在の私を、善悪の闘いの中で勝利できるようにする力を与える。十字架が、魂を癒す力となったら、それがあなたにとって本当の十字架なのである。

永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、私たちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。(ヘブル人への手紙9章14節)

 

 

 

 

「現代のイスラエル」 10 現代の我々へのメッセージ

 

ステパノはイスラエルの歴史を引用して、当時の教会指導者たちの罪を譴責していました。古代イスラエルの歴史が、ステパノの時代の人たちの鏡となったわけです。そしてさらに、過去の時代よりも今日の時代の私たちのために聖書は書かれているのだということを、すでに申し上げましたよね。ですから、この箇所を私たちが読むときに、このステパノのメセージは現在の私たちの状態をも写し出しているということを認めることができるわけです。さらに読み進めて44節から53節までを見てみましょう。ここは是非とも読む必要があります。ここを読んだあと質問しますから注意深く見ていただきたいと思います。この部分でステパノが押さえようとしていた点が、何であったかということをしっかり考えてみてください。お読みします。「私達の先祖には、荒野にあかしの幕屋があった。それは、見たままの型にしたがって造るようにと、モーセに語ったかたのご命令どおりに造ったものである。この幕屋は、わたしたちの先祖が、ヨシュアに率いられ、神によって諸民族を彼らの前から追い払い、その所領をのり取った時に、そこに持ちこまれ、次々に受け継がれて、ダビデの時代に及んだものである。ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。けれども、実際にその宮を建てたのはソロモンであった。しかし、いと高き者は、手で造った宮の内にはお住みにならない。預言者が言っている通りである、『主が仰せられる、どんな家を私の為に建てるのか。私のいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地は私の足台である。これは皆私の手が造ったものではないか』ああ、強情で心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それはあなた方の先祖たちと同じである。いったいあなた方の先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。あなたがたは、御使いたちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった』