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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

屈服の意味 第4回

2015年06月30日 | 日記

私は高校生の時や大学生の時、卓球をよくやりました。卓球、ピンポンですね。それでその当時、私は卓球すると、周りにいた人たちにはほとんど勝つことが出来ました。周りの人たちとか友達も、みんなに勝つことが出来て、私が一番上手でした。

ところが私は軍隊に3年間いたのですけれど、軍隊が終わって二十何才になった時、友だちに久々に会ったんです。その友だちが「僕、卓球が上手になったんだよ」と言いました。「何言ってるの」。「じゃあやってみようか」ということになりました。実はその友達は、「僕、国の代表の卓球選手といつも卓球していたんだよ。だからすごく上手になったよ」と言いました。その時私は、「まぁ、いくら上手になったと言っても、君はそのままじゃないか。昔は10回やれば僕がほとんど勝ったじゃないか」、と笑ってそう考えていたんですね。「じゃあ、卓球やってみるかい」。「いいよ」。それで私たちは卓球を始めたのです。ところが、もうびっくりしました。この世にこんな事があるのだろうか?以前は私が本気でやればすぐに勝つことが出来た友だちに、どんなにやっても勝てないのですね。もうものすごい変化球が、スピンが返ってくるんですね。サーブも、落ちたら本当に飛び跳ねてくるすごいサーブを打ち込んできます。どうやって返したらいいか分からないくらいに強烈なサーブなのです。もう驚くばかりでした。そしてもう完璧に打ち負かされてしまいました。話にならないほどやられてしまいました。あんまり口惜しかったので、2回、3回、いやもう1回・・・。私は「最近やってなかったから、もうちょっとしたら感覚が戻ってくるから」、そう言って4回、5回、6回、もう7回やったんです。7回やって負けたら本当に負けでしょう。私はもう手を挙げて降参したのです。「あぁ分かった。僕はもう屈伏するよ。君の勝ちだ。君の方が私よりずっと上手だよ」。

その時初めて私は屈伏したんですね。私は、やっても、やっても、負けを認めませんでした。負けても、負けても認めようとしませんでした。自分が本当にダメだ、私は負けた、そのように認識した時に屈服が始まります。私自分がどんなに力を尽くしても、罪に勝つことは出来ない。私がどんなに努力して力を尽くしても、神様の御言葉と十戒を守ることが出来ない。その事実の前に、もう打ちのめされてぺしゃんこになった時、私はダメですと、そのような心と体験になった時、私は負けです、私、サタンに負けました、私は罪に負けました、ダメです、それが屈服なんです。


屈服の意味 第3回

2015年06月29日 | 日記

  屈服とは

私は先週、ドイツに行って集会をしてみ言葉を伝えました。350人ぐらいの方が出席しておられました。集会が終わった後で、青年たちと対話をする時間があったのですが、一人の責任者の青年がこのように言いました。その人が手を上げて「牧師先生、ちょっと質問があります。屈伏、これどういう意味でしょうか。私がどうすることが屈服なのでしょうか、屈伏とはどういうことを意味しているのでしょうか」。とても重要な質問ですね。主の前に屈服する、これどういうことなのでしょうか。何のことを言っているのでしょうか。屈伏とは何でしょうか。これ抽象的な言葉ですね。でも、とても重要な質問です。私はこの質問に対してその場で少し答えましたが、今日の礼拝のメッセージは、この大切な質問に対する答えとして、これを知ることが必要だと思って準備しました。

皆さん、私たちが屈服する、屈伏とはいつするのでしょうか。皆さん、屈伏とは皆さんが、自分自身が一生懸命努力して、力を尽くして、自分でもよくやっていると、そのように感じている時は屈伏しないのです。私もそのような時は屈服しませんでした。私はあの人より勝っている、勝利していると思っている時に屈服しますか?そうではありません。負けたなら屈服するのです。

聖書で屈服ということは、度々教えられているんですけれど、屈伏とはどういうものかちょっと調べてみましょう。聖書は、私たちが使っている私たちの概念を用いて、私たちの単語を用いて表現しています。イエス様が、「もわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て」(マタイ16:24)なさい、私たちのすべてを屈服させて従ってきなさい、とおっしゃる時、私たちはこの屈服ということをどう理解したらいいのかを、きちんと知ることがとても大事なんですね。

 


屈服の意味 第2回 

2015年06月28日 | 日記

私たちがイエス様の上に落ちて砕かれるならば」、この言葉は、クリスチャンがよく使う言葉かもしれません。ですが抽象的な内容ですね。これは実際にどういう意味なのか、もう少しはっきり理解する必要があります。

皆さん、ロイヤル シナゴクの話を聞いたことがありますか。ロイヤル シナゴグというユダヤ人の大きな会堂を造る時の話です。お金持ちのユダヤ人が援助して、本当に大きなきれいな会堂を造ったのですが、その時に、イタリアから特別な宝石のようにきれいな大理石を持ってきました。すごく高価な石材を使って、宝石のような光る石でモニュメントを造ろうとしていました。とても高価な、ものすごい額のする大理石でした。その時空港から石材を車で運んでいたのです。ところがその車の前の車が滑ってグルグル回り始めたんです。運転ミスがあって滑ってしまったのです。後ろの車がそれを避けようとして急ハンドルを切ったので、荷台にあった石材が、もう本当にきれいな石材がひっくり返って、道路わきに落ちてバラバラに砕けてしまったのです。それで警察がやって来まして、それを見て、この石材を注文した人に連絡したのです。「あなたの石材が砕け散っています」。「ちょっと待って下さい。そのまま待っていて下さい」。会社の人が車に乗ってやってきました。「分かりました」と、その砕け散った石材を全部集めて持って帰りました。

とても高価な石材だったので、彼らはその砕け散った石材を集めてモザイクを作りました。砕けていない部分はそのままで、砕けた部分をうまくモザイクのように、ぶどうの絵を描いてくっ付けたのですね。砕けたものを全部うまく使って、モザイクを作って一つのモニュメントとして壁画に作りあげました。ちょうどその壁画の所に、天窓があって、その窓を開けたんです。そしたら光がモニュメントに当たって、ものすごく光り輝いたんですね。その光景を教会の人々が見ました。「わー、砕け散ったほうが素晴らしい作品になった!」と。これはとても有名な話です。その壁画の下にはこのように書いてあります。「ブロークン・ツー・ビー・ビューテフル(美しくなるために壊れた)」。そう書かれてあるんですね。私はそれを読んだ時とても感動しました。私たちがイエス様の内に、イエス様の上に砕け散るならば、美しくなるのです。砕けなければ私たちはそのままです。私たちは光を放つ前にイエス様の上に落ちて砕ける必要があります。


屈服の意味  第1回 

2015年06月27日 | 日記

  屈服の意味  第1回    デイビット・カン

  

    美しくなるために壊される

マタイによる福音書21章43節44節をお読みします。まず43節です。「それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう」(21:43)。最初神様の御言葉は、ユダヤ人に与えられたのですけれども、それが取り上げられると言われました。そしてこの原則は、各時代の人々、全世界の老若男女すべてに当てはまるものです。イエス様は「あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられ」ると言われました。神の国は、ふさわしい実を結ぶ人々に与えられると書いてあるのですね。では、どういう人々がふさわしい実を結ぶ人々なのか、それが44節に短く説明してあります。「またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」(マタイ21:44)。

 ここで言われていることは、43節の、「あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられ」るというのと同じことを言っているんですね。石の上に、イエス・キリストである石の上に落ちて打ち砕かれる人は、真理であるイエス・キリストの上に落ちて打ち砕かれる人にふさわしい実を、御国にふさわしい実を結ぶと、ここで言っているのですね。反対に、もしふさわしい実を結ばない人があるならば、その人はその石によって粉みじんにされるだろうと、聖書は述べているのです。

 


人を自分より優れた者としなさい 最終回

2015年06月26日 | 日記

 kれはもちろん小説ではありますが、ジャンバルジャンは、この事件をきっかけに、新しい人になります。 

「私たちが何を信じるか」。はい、これはとても重要です。しかし、「どのように生きるか」は、さらに重要です。皆さんは、このような愛を持っているでしょうか?コンパスが南北を指すように罪は罪と明らかに言うべきですね。 「この人泥棒しています。捕まえて下さい」。「恩を仇で返すようなこんな人は、もっと苦労する必要があります」。それが正義を貫くことでしょうか?「皆さんやめてください!私たちももうやめましょう」。愛は多くの罪を覆うとあります。堅い律法主義者にならないように。原則を立てることは良いことですが、すべてのことは、愛によってしましょう。

私たちはもっと柔らかい人になりましょう。人々が私を馬鹿にして、無視するとしても、避けられたい人になるよりは、永遠の命のために自分を低く、しもべの姿になりましょう。それがイエス様の生き方でしたね。

  どうすれば人を自分よりも優れた者と思えるでしょうか?私たちの生来の性質としては、全く困難です。上から降りてくる働きがなければなりません。私たちの中にある鋭いナイフをとかし出すには、聖霊の火が必要です。今、その火の働きを経験しないなら、後で神様の火にかけられます。私たちは自分の本当の姿を明らかに見ること、自分自身の品性の弱さを見て後悔する涙、聖霊の光によって自分が罪人の頭であることを教えていただく必要があります。

私たちは、イエスが速やかに来られることを熱心に待っている人々です。イエス様に早く来ていただくためには、私たちは変わる必要があります! 

  今日、いろいろな話をしましたが、一つだけの話なのです。今日の話を全て忘れてしまったとしても、一言だけ覚えてください。「他人を自分より優れたものとしなさい」