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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

生ける神の印 デビット・カン講演22

2013年01月18日 | 日記


     ひまわりさんより(1月18日)

今日は、お昼御飯も食べないで仕事をして、午後3時には仕事を終わり、家の近くのスーパーに買い物に行きました。おなかがぺこぺこだったので、何か食べたいと思いました。こんな時、私はだいたい、体に悪いスナック菓子がむしょうに食べたくなります。スーパーの棚から、あっという間に、「○○スナック・バーベキュー味」というのを取ってかごに入れていました。その瞬間、私の頭に、「飲むにも食べるにも主の栄光のためにすべきである」という言葉が浮かびました。私は思わず、「ハハーッ」という感じで、スナックの袋をもとに戻していました。でも、おなかはすいているし、家には食べるものは何もないし、どうしようと思って、スーパーの中を歩いていたら、ノンオイルで無塩のミックスナッツを売っていました。私にとっては、一番欲しい、必要なものが備えられていたのです。神様がダメと言われるときには、もっと良いものを用意してくださるのだということを感じました。そして、イエス様が心のうちに住んでくださるというのは、み言葉を心のうちに蓄えておくことではないかと思いました。


    安息日は救いのしるし(デビット・カン講演22)

なぜ終末において、安息日を守ることが神の印となるのか、わかっていないのです。なぜ世のすべての人のテストとなるのか、安息日を守るということがわかっていないのです。安息日を守るということは、外見上のしるしで、それは、内部の経験が外に現れたものです。割礼のようなものですね。神様は、アブラハムの子孫に、割礼を受けるようにと指示されました。割礼を受けていなければ、天使たちによって殺されたのです。割礼というのは外側のしるしに過ぎなかったのに、なぜそのように大事にされたのでしょう。
なぜならそれは、福音の内部の経験を外に表したものだったからなのです。つまり、心に割礼を受けるということを表したものだったです。魂から罪を切り落とすということを意味していたのです。
世俗的なもの、偶像を心から切り出すこと、しめ出すことを表していたのです。そういったことを象徴していたのですね。そのために、生まれた男の子は、全員割礼を受けなければなりませんでした。割礼は痛みを伴うものです。本来、あまり好ましくはないものですね。安息日もそのようなものなのです。安息日を清く守るということには、痛みと苦しみを伴います。犠牲も伴います。あまり好ましいものではないのです。本来は心の経験が外に現れた、外見上のしるしですね。