SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

これが真の福音です ソン・ケムン 第15回

2017年11月30日 | 日記

キリストの勝利と従順

皆さん、キリストの勝利と従順は、真の人間としての性質の中でなされたということを肝に銘じてください。 私たちはイエス様の人性についての誤った見解のために、多くの過ちを犯します。 もし私たちがイエス様を、人がサタンとの戦いで持つことができないような能力を持っておられた方と見るなら、私たちは受肉というこの尊い真理を破壊する反キリストと手をつなぐことになります。

イエス様の人性についての理解がどうしてそれほど重要なのでしょうか。

イエス様は私たちに模範を見せてくださるためだけではなく、人間は神様の戒めを守れないというサタンの嘘を否定するために、地上で純潔な生涯を生きられました。

これはアダムが罪を犯した後、サタンが「神様は人間が守ることのできない法を与えた。 守れない法だから当然守らない」と主張してきたこの訴えに、正解を与えなければならなかったのです。

天の父なる神様が純潔な生涯を生きられるのは難しいことですか。簡単なことですか? それはあまりにも当然なことです。しかし、イエス様は遺伝の法則が及ぼしてきた結果を受け継がれました。キリストはそのような、遺伝法則の結果を受けて生きなければならない立場だったのです 。

もしキリストが、人間が持つことのできない特別な能力を持ったら、サタンはそれを利用して「あなたは神様だから可能だったのだ」と反論するのです。イエス様は人間になられ、人間として試練を受け、人間ができる従順によってサタンを沈黙させられました。

しかし、戦いはここで終わったわけではありません。 サタンは再び告訴します。「あなたが神様としての力を本当に使わなかったのか誰にも分かりません。あなたにはできても、人間はそうすることはできません」。

イエス様はあがないの犠牲になられるためだけではなく、人が神様の戒めどおりに生きられることを証明する模範になるために来られました。多くの人たちは犠牲としてのイエス様だけを愛します。しかし、イエス様は実際的な模範を通して、私たちが従わなければならない確かな道を残されました。言葉を通して、私たちが神様に服従できることを教え、行動で、私たちがどのように神様に服従するかを見せてくださいました。キリストはすべての人間が神様の戒めに従うことができることを、私たちに見せるためにこの世に来られたのです。

しかも私たちは、イエス様よりもさらに有利な立場にいるのです。「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」 (ヨハネ12:32)。神様が私たちをどれほど愛しておられるか、私たちは見てきました。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである」(1ヨハネ3:1)。ですから、このたくさんの愛を味わった私たちは、イエス様が勝利されたように勝利することができます! 


これが真の福音です ソン・ケムン 第14回

2017年11月29日 | 日記

生まれ変わったから罪のない本性になったという主張が、1900年代初め、インディアナ州で起きた「聖なる肉体運動」<Holy flesh movement> です。 しかし生まれ変わっても私たちには、依然として罪の本性はあります。

そこで、イエス様に勝つことができなかったサタンは、「イエスは人間たちのように罪の本性を持った肉体をとらなかった。 彼は有利な立場にいた」と攻撃しているのです。

私たち自身の力で、堕落した本性の欲求を打ち破ることができますか? できません。 サタンは肉の欲を通して私たちに試練をもたらします。しかしイエス様は、人が歩むべき道を先に歩まれ、私たちが罪に勝利する道を設けてくださいました。 サタンとの闘争で、私たちがイエス様よりも不利な立場に置かれることは神の計画ではありません。

イエス様は持っておられた神性の力で、罪に勝たれたのではありません。ですから、私たちも勝利することができます。イエス様を見つめてください。イエス様がどのように生きられたのか黙想してください。

私たちを罪の中で救ってくださるために来られただけでなく、罪自体から救うためて来られました。イエス様は実際、私たちが犯した罪だけではなく、私たちを罪に導く潜在的な傾向からも救うために来られました。イエス様は悪に傾きやすい遺伝的、後天的性向を含めたすべての性質から私たちを救うため来られました。 いつですか。 最後のラッパが聞こえる時?再臨の時?いいえ、まさに今です!


これが真の福音です ソン・ケムン 第13回

2017年11月28日 | 日記

 聖霊による誕生

キリストは堕落した私たちの本性をそのまま取られましたが、聖霊によって生まれました。つまり神様の霊に満たされて生まれたのです。「そうであれば、我々とは違うのではないですか?」と言うかもしれません。たしかに、肉の勢力の支配下にいる、生まれ変わっていない人たちとは違います。

□ローマ人への手紙8章7-9 節

「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない」。

□「肉にある者」とは生まれ変わる前の状態です。すなわち、意志が肉の勢力に屈服した状態を意味します。この状態では人は神様に服従することができません。「 神の御霊が宿っている」人は誰ですか? 「人の欲によらず、神様によって」生まれた人です。

皆さんの中で生まれてから今までずっと聖霊に満たされている人はいますか? いませんね。では、これからずっと聖霊に満たされることはできますか? できます。しかし、「聖霊に満たされて」いたとしても「生まれ変わった」としても、私たちの本性そのものは変わりません。それらは私たちの本性に関係する問題ではなく、品性に関係するものです。 それで、イエス様と人間の違いは本性にあるのではなく、品性にあるのです。この地に人間として生まれたすべての人類は同一の本性、つまりこれまで話してきたように、罪の弱さを持つ感情や考え方、理性、良心、意志、本能を持っています。それはイエス様も例外ではありません。イエス様も遺伝の法則が及ぼしている罪の結果を受けられました。

生まれ変わったのは私たちの本性ではなく、品性の部分と関係があるのです。では生まれ変わったらこれ以上の誘惑はなく、試練はありませんか? 違います。誘惑と試練は私たちの本性から来るものなので、あります。いくら人格が立派で品性が成長してイエス様に似たとしても、私たちの本性は消えません。私たちの本性はイエスが再臨される時、最後のラッパで瞬く間に変化するとコリント人への第一の手紙15章で使徒パウロは言いました。 その時まで私たちは罪を犯す本性と戦わなければなりません。それで使徒パウロは「わたしは日々死んでいる」と言いました。私たちは過去には誘惑と試練に屈服し、罪を犯しましたが、生まれ変わった人は罪に屈服するのではなく、神様に屈服するので勝利の生涯を生きることができます。

 

 


これが真の福音です ソン・ケムン 第12回

2017年11月27日 | 日記

イエス様と私たちの違い

ところで、私たちがイエス様の人性について学ぶ時、注意しなければならないことがあります。イエス様は私たちと同じ人性を取られましたが、違う部分が一つあります。 イエス様をこの世のすべての人間と全く同じに見てはいけないのです。

□ヨハネによる福音書1章12、13節

「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」。

ここを見ると「人の欲に」よって生まれた人と「神によって生れ」た人がいます。「人の欲に」よって生まれた人は誰ですか? 「神によって生れ」た人は誰ですか? 私たちは「人の欲に」よって生まれた者ですが、キリストを心に受け入れて生まれ変わる道が教えられています。 その後に続く言葉に驚かされます。

□ヨハネによる福音書1章14 節

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」。

これは12、13節とつながっている言葉です。言い換えれば、キリストは人間の肉体を取られましたが、私たちが新生によって「神様の霊が宿る」人になるように、キリストも肉体となってこの地に来られた時、「神様の霊が宿る」、つまり聖霊に満たされた状態で生まれたということです。もっと簡単に表現するとキリストは、「新生した人間の状態」として生まれたと言えます。この表現も適切ではないかもしれませんが、これ以上人間の言語で説明する、ふさわしい言葉を見つけられません。

□ヘブル人への手紙2章11節

「実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」。

「きよめるかた」は誰ですか? イエス様です。「きよめられる者たち」は誰ですか?それは「生まれ変わった人たち」です。イエス様が兄弟たちと同じだということは、生まれ変わった人たちと同じ性格、つまり、新しい目的、新しい動機、新しい心を持っておられたと理解することができます。しかし、だからと言って、イエス様が生まれ変わった人たちと全く同じ品性を持っておられたとは言えません。なぜなら、イエス様はいつも聖霊によって満たされ、一瞬も罪で汚されなかっただけでなく、すべての面で模範とするべき完全無欠な品性の極致に達した方です。人間は生まれ変わったとしても、過去に犯した罪への傾向と後天的欠陥を除去する必要があり、成長しなければならない段階があります。


これが真の福音です ソン・ケムン 第11回

2017年11月26日 | 日記

    


試練とは何か

≪□○×クイズ≫ ではイエス様がどんな人として来られたのか想像してみましょう。   

 写真を見ると、子供のイエス様が頭に何かを乗せて歩いていくのを、友達がからかっています。イエス様はその中で黙って歩いています。

次の絵は、幼いイエス様が父親を助けて大工の仕事をしています。

イエス様の幼年時代を考えてみましょう。

質問をします。

①.子供のイエス様は「聖なる者」だったので(ルカ1:35)ほかの子供のように駄々をこねたり、いらだったりするような誘惑を受けなかった。 ○ですか×ですか?

質問を変えてみます。

②.子供であったイエス様は「聖なる者」だったので普通の子供たちのように駄々をこねたり、いらだったりするような誘惑が来たとき、神様に祈ったり賛美したりして誘惑を乗り越えられた。  ○ですか×ですか?

多くの人が、キリストは神様の子だから今の子供たちのような誘惑は受けられなかったと思うかもしれません。もちろん、イエス様がテレビの前に座ってアニメを見ることはなかったですね。また、ネットカフェに行ってゲームに陥る誘惑もありませんでした。

いつか私が、イエス様は現代の子供たちと同様に試練を受けたと話したら、当時はゲームのようなものはなかったから同じ試練は受けなかったと言われました。人は信じたくなければ本当に幼稚になるようです。

すべての試練は、私たちの意志を神様に屈服させるか、サタンに屈服させるかという問題です。結局、誰にひれ伏すかという問題です。聖書はイエス様があらゆる面で、幼い時から血気盛んな青年時代まで、 私たちと同様の試練を受けられたと言います。

世界を創造された神様が、母の膝に座って聖書や自然について学ばれました。

「お母さんここにきれいに糸を張っているものは何ですか?」「それはクモというのよ」。