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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

 生ける神の印  デビット・カン講演10

2013年01月06日 | 日記



    ひまわりさんより(1月6日)

私は、デビット・カン先生のDVDやCDは、何回も聞いて、内容を覚えるようにしていますが、例話の部分はよく知っているので、例話が出てくると、飛ばしてもっと福音の確信的なところの方へ早送りしたりしていました。でも、それも肉の思いかもしれない、先生が語っておられるところをしっかり聞こう、と思って聞いていたら、先生は、福音を、理論としてではなく、神様との生きた関係をあらわす、その実例として例話を語っておられるのだということがだんだんわかってきました。たとえば、私は、祈りということが、今一つよくわからなかったのですが、カン先生は祈りを、お孫さんが、「じいちゃんと離れたくない」と言って叫ぶようなものだと説明しておられました(『主はわれらの義』参照)。「祈りとは、目を閉じて、手を組んでこういう風にして…」というような、祈りを概念、知識としてではなく、「神様と離れたくない」という、心の叫びが祈りだと言われるのです。先生が伝えようとしておられるのは、真理の概念ではなく、神様に対する私たちの心の状態なのだということが少しわかってきたと思います。

     真の謙遜とは(デビット・カン講演10)

私は、自分の教会員に、このような教えをします。「謙遜とはどのようなものでしょうか」と尋ねます。優しくて柔和で、そのような態度が謙遜ですか。アメリカ人に謙遜を教える時に、もし、それが謙遜と言うならば、日本や韓国の航空会社のスチュワーデスが、世界で一番謙遜だという事になるでしょう。ある時、機内でスチュワーデスを呼んだら、私のそばに来て、ひざまずいて「何か御用でしょうか」と言ってくれました。それが謙遜なのでしょうか。そうではありません。真の謙遜は、心から来るものなのです。誇るものが何もない時、イエス様の前では土くれ以外の何ものでもないと感じる時、その時、本当の意味で謙虚になることができるのです。謙遜になろうと努力しなくてもいいのです。もう、自然に謙遜にいきます。神様のみ前では、何ものでもないからです。すべて、神様の恵みによるものだからです