SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

人はなぜ苦しむのか 第1回

2014年08月31日 | 日記

    

 人はなぜ苦しむのか?

    苦難には意味や目的があるのだろうか?

 

  第一部:苦難について聖書はどう教えているか

この世になぜ苦しみがあるのでしょうか?戦争、犯罪、自然災害、家庭崩壊、自殺など、周囲を見回せば、どこからでもうめきと悲しみの声が聞こえてきます。いや、まさしく私たち自身が苦痛によって、涙の乾く日がないほどなのです。 

なぜ、この世には苦難があるのでしょうか?なぜ、時には神様を真実に信じている人にさえ、苦難がやって来ることがあるのでしょうか?神様は私たち人類の苦しみについて、関心を持っておられないのでしょうか?私たちが痛む時、神様はいったいどこで、何をしておられるのでしょうか?私たちの苦難を、神様は本当に理解しておられるのでしょうか?このような疑問は、苦難と向き合う多くの人々が心の中で上げる叫びではないでしょうか。私たちには、このような質問に対する確実な答えが必要です。

このメッセージが、人類の苦しみの意味と理由について、聖書が教える正しい解答を与えるものとなり、あなたの人生が、様々な苦難の中にあって、平安と希望に満ちたものとなることを願っています。

     絶望から希望へ 第3回

これは誰の姿ですか。もしかして皆さん一人ひとりの姿ではありませんか。「私は願わない悪だけを行っている。願っているのは善であるのに・・・。なんとみじめな人間だろう。この死の体から、私はどうやって救われるだろう」。『ローマ人への手紙』7章ではこのように嘆いています。しかし、多くの人は、自分はそれほど悪いものとは思っていないかもしれません。すごい詐欺を働いて人をだましたこともないし、自分だったら人の模範とまでは行かないけれども、まあまあの人生ではないかと・・・、そう思っている人いませんか?

私たちが犯す罪というと、少しのやきもち、ねたみ、高慢、怒り、人に対する悪口批判、そういう心だと思っているかもしれません。自分がやったらロマンスで他人がやれば不倫。私たちがやるとしたらその程度のことだと思っていませんか。時には教会に嫌な人がいて、教会に行くのはいやだなという心が起きるかもしれませんが、だからといって腹いせにその人の車をパンクさせたこともないし、その人を殴ったこともないし、少しはいじめたことはあるけれども・・・、だからといってそれほど大きなことではないでしょう。もちろん時には、「これ、罪ではではないかな」という咎めを感じることはあるけれども、イエス様の恵みがあるから、それは全部イエス様が赦して下さるものだから、と考えていませんか。

しかし、私たちの心にひとたび聖霊が臨む時、私たちは自分の心の奥深くに、罪の恐ろしい姿があることに気づかされるのです。表面には見えていなくても、心の底には、激しい怒りやねたみ、利己心、高慢、どん欲など、ありとあらゆる罪がしっかりと根付いていることを教えられます。そして私たちもパウロと同じように、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから救ってくれるだろうか」(ローマ7:24)と叫ぶのです。


十字架に対する大きな誤解 第12回

2014年08月30日 | 日記

  

   十字架に対する大きな誤解 最終回 

こうして十字架は、私たちを戒めから解放したのではなく、戒めを心の内に書きしるし(ヘブル10:16)、自由な感謝の心で戒めに従う者とさせるのです(エゼキエル11:19,20;36:27)。

十字架を賛美しましょう!それは私たちの救いの象徴です。十字架を感謝しましょう!それは父なる神様の、大いなる愛の表象です。しかし、十字架の真の目的を忘れないようにしましょう!今日、十字架に対する大きな誤解が氾濫しています。それは、悪魔が蒔いた種なのです。十字架は人間の罪を赦すだけではなく、罪人の心を変えて、神の命令に従って生きる、善良な麗しいクリスチャンを創造します。十字架は罪人を、天におられる聖なる御使たちと一緒に暮らしても安全な者として造り替える力があります。イエス様は私たちを、聖なる清い者として造り上げるために、十字架にかかられました。

十字架には力があります。十字架は私たちに、罪を犯す許可証ではなく、罪に勝利するクリスチャンになるための権利書を与えてくださいます。十字架は律法を廃するのではなく、天のお父様の律法を確立させるものです。イエス・キリストの十字架は、罪人の心を、素直な従順な者として造り替えてくれるものです。この恵みを経験される人こそ、真のクリスチャンと言えるでしょう。

      絶望から希望へ  第2回  

今教会には多くの教えがありますが、時には、「皆さん、イエス様を信じますか。イエス様を信じる人は手を上げて下さい。はい、皆さん救われましたね」というようなことを言われることがありませんか?手を上げればそれが救いだと、それは違います。私がこのようなことを言いますと、すぐに「皆さん心配入りませんよ。皆さんはイエス様を信じているから、みんな救われて新しく生まれた人ですよ」と言う人がいます。しかし、神様は、クリスチャンの中にも生まれ変わった者と、生まれ変わっていない者とがいるから、新しく生まれていなければ救われないと、はっきりと言っておられます。『ローマ人への手紙』7章です。

「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲することは行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしはなんと言うみじめな人間なのだろう。誰が、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7:14、15、19、23、24)    


十字架に対する大きな誤解 第11回

2014年08月29日 | 日記

   

   十字架に対する大きな誤解  第11回 

十字架の死は、人類の罪の身代わりの死であり、それによって、戒めの要求は満たされ、罪の刑罰は終わりました。しかし、そのことで戒めが不要になったのではありません。十字架は戒めを廃したのではなく、むしろ、戒めを高め、戒めが永遠に存続するものであり、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)ことを証明したのです。

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マタイ5:17)。「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ3:31)。

使徒パウロは、「わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた」(コロサイ2:14-16)と言いました。ここで言われている証書とは、神様の十戒のことではなく、ユダヤ人たちが守っていたモーセの律法、つまり食物や飲み物や、あるいは祭や新月などの宗教的な儀式の手続きなどを指していました。

     絶望から希望へ 第1回   孫 継文(ソン ケムン)

  みじめな人間

 お会い出来て感謝いたします。皆さんは立派なクリスチャンですね。そして天のお父様が、皆さん一人ひとりをここにまで導いてくださった摂理があると思います。主を愛し、主のみ心に従って生きたいと願う皆さんですね。しかし、これだけがすべてではありません。この状態から皆さんは、一段階上らなければなりません。イエス様はヨハネの福音書3章3節で、「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。「新しく生まれなければ」。これは私たちのことです。教会に行っているから、通っているからといって、生まれ変わった者でしょうか。献金をささげているから新しく生まれた者でしょうか。牧師だからといって新しく生まれた者でしょうか。それらとは異なるものです。

 ちょっと深刻になりましたね(笑)。『ローマ人への手紙』7章を見てみると、一人の人が登場します。この人は新しく生まれた人なのかどうかを確認するべきです。なぜならこの人と私の姿を比較すれば、私が今どの状態でいるかがわかるからです。


十字架に対する大きな誤解  第10回

2014年08月28日 | 日記

  

  十字架に対する大きな誤解 第10回

十字架の血潮には力があります。罪を赦す力だけでなく、罪人をその罪から解放して、二度とその罪を繰り返さないようにする力があるのです。十字架には、罪人の心を変えて、神様の戒めと、み言葉に従って生きる者として造り上げる、超自然的な力があります。「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、私たちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」(へブル9:14)。

ある人たちは、十字架で戒めは廃され、十字架を信じるなら、人は十戒を守る必要は無くなったと主張します。もし神様が、十字架で戒めを廃されたとするなら、イエス様の十字架は何だったのでしょうか。人間の裁判でも、もし誰かが身代わりになったとして、その人が刑罰を受けたら、法律は必要なくなるでしょうか。刑罰は、法律が正当なものであり、法律に従って生きなければ罰が待っていることが教えられ、法が高められるのです。

        

  再臨を待ち望んでんでおられますか 最終回

 神様のみ言葉は、必ず成し遂げられるのです。「わたしは御使の手からその小さな巻物を受け取って食べてしまった。すると、わたしの口には蜜のように甘かったが、それを食べたら、腹が苦くなった」(黙示録10:10)。しかし、苦くなったことで終わりませんでした。「その時、『あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない』と言う声がした」(黙示録10:11)。

 この予言は成就しました。再臨運動のわずかな人たちが、ガリラヤの漁師たちのように立ち上がりました。それから、170余年の時間が経ちました。そして私たちがここに座っています。黙示録の次の預言が、まだ残っています。「この後、わたしは、もうひとりの御使が、大いなる権威を持って、天から降りて来るのを見た。地は彼の栄光によって明るくされた」(黙示録18:1)。これは何のことですか?聖霊の後の雨のことです。誰がこの後の雨の聖霊を受けるのでしょうか?それは、弟子たちや、初期の再臨信徒たちのような燃える心で働く人々です。寝ても覚めても、立っても座っても、魂の救いのために嘆き祈る人々です。たとえ、自分の評判や、名誉、地位、すべてが失われても、異端者、狂信者と悪口を言われても、命を終えるまで、イエス様の再臨使命を宣べ伝え、人々を清めに導き、再臨に備えさせる働きをする人たちに下るのです。

今、皆さんが、その働きに参加して下さることを心から願います。

 

 

 


十字架に対する大きな誤解 第9回

2014年08月27日 | 日記

      

  十字架に対する大きな誤解 第9回

彼はクリスチャンたちが、十字架について説教したり、賛美したり、カルバリについて語ることには、少しも恐れおののきません。むしろサタンは、クリスチャンたちが、感情的に十字架についてたくさん語り、賛美し、説教することを願っています。十字架の真の意味を理解しない限り、クリスチャンたちが行う礼拝と賛美は、サタンにとって何の支障もないのです。

サタンは、今日、クリスチャンたちが、十字架によって律法が廃されたと考えるように仕向け、それを信じさせています。十字架の血潮と恵みは、あたかも人間の不従順に対する都合のよい言い訳とされているのです。十字架を信じる限り、罪を続けて犯しても、十分な赦しのもとにいるのだから、思い煩う必要などなく、十字架を仰いで信じなさいと励まします。サタンは、カルバリの十字架、私たちを神様の律法から解放させたのだと信じ込ませています。十字架が、私たちを罪から救い出したのではなく、罪の中にあっても救いがもたらされるかのように信じ込ませています。言葉をかえると、キリストの血潮が私たちを罪から解放したのではなくて、罪を犯す自由をもたらしたように思い込ませているのです。

     再臨を待ち望んでおられますか 第19回

そうするうちに、ヨーロッパへ来てから5年たった時、あまりにも苦労をして、娘は結核にかかって17歳で亡くなりました。それでもアンドリュースは気落ちしないで、心を奮い立たせ、今度は、ドイツ語で、また、イタリア語でも伝道用のチラシを作り、ヨーロッパ全土に福音文書を配布していったのです。

しかし、しばらくして、娘に現われた症状がアンドリュース本人にも現われました。ついに彼は倒れてしまいました。彼の年老いた母親は、息子の最後に付き添うために、アメリカからやってきました。その時、アンドリュースは、骨に皮だけが付いているような状態で、ベッドに寝ていたと言います。どんな姿なのか分かりますか?私は多くの人の臨終に立ち会いました。骸骨に皮だけ付いた姿がどんな姿なのか、分かります。

ところが、そんな状態なのに、アンドリュースは、横になったまま、メッセージを読み上げ、「早く伝えなければならない」と言い続けていました。彼は、1883年54歳で、息を引きとりました。彼が生きている時に語った言葉は、「今でも、福音が伝えられれば救われる魂が大勢滅びていく。働く時間は短く、誰も働くことができない夜が近づいている。日が暮れる前に、早く福音を伝えなければならない!」でした。 彼は死につつある病床で手にペンを取ることができなくなっても、口で最後まで、メッセージを語り続けたのです!

私たちは、自分の財布の心配をしながら、おいしいものを食べながら、余暇を楽しみながら、休暇は旅行しながら、いったい、いつこの福音を伝えるのでしょうか?