SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

霊的な心 デイビット・カン講演 第5回

2017年02月25日 | 日記

思いを見られる神様

 

私には3歳半になる孫がおります。本当に可愛いです。私にとっては世界で一番麗しい少年です。皆さんがどう思っているか私にはどうでもいいのですけれど、しかし、私にとってはこの孫は世界で最も麗しい少年なんです。私のところに来るたびに、「おじいちゃ~ん」と呼んでくれると、私の心は溶けてしまいます。もう心からこの孫を愛しています。私の言わんとしていること、お分かりの方いらっしゃいますよね。もう孫というのは特別の存在なんですよね。

若い時に自分の子供を育てましたが、その時は忙しくて、子育てを楽しむ余裕がありませんでした。でも孫が出来たら、これは特別の経験です。今こうしてお話ししながら孫のことを考えています。世界中を旅行している間に、スカイプで孫と話をする機会があります。テレビ電話みたいに話ができるわけです。顔と顔とを合わせながら・・・。そしたら孫が「おじいちゃ~ん!」。もう素晴らしい経験です。私はここにいますけれども、日本と言う国にいて、アメリカから遠く離れていますが、もう、あっと言う間に思いにおいて、アメリカにいる孫のところに行くことができます。興味深いことではないでしょうか。

どうしてこういうことを今、私は話しているのでしょうか。皆さんに、ある大事なことを伝えたいからなのです。私たちの品性を形成する最も小さな粒子、あるいは要素というのは、思考、思いなのです。私たちの品性形成は思いから始まるのです。何を考えるか、どのように考えるかということは大変重要なことです。天の故郷に帰る時に、私たちが地上から持って行ける唯一のものは私たちの品性ですよね。今現在こうして椅子に座っておられる間に、誰かに対して憎しみを抱くことも出来ます。誰かに対して愛情を抱くことも出来ます。誰かを軽蔑、見下すことも出来ます。ここにいて、遠くにいる誰かをぶん殴って戻ってくることもできます。そういうことが出来るんですよ。どうやって?思いを通してです。

神様は、その、皆さんの思いを、思考をご覧になるお方なのです。私たちの心の中枢部分を見ておられます。それは何ですか。それは私の思い、思考です。その思考パターンを、何を好んでいるか、何を好まないで嫌っているか、何を欲しているか、やりたいか、何を食べたいか、何について話したいか、どのような人と接するか。これ、すべて私たちの品性の一部です。それはすべて思いから始まっているのです。神様は、そのような皆さんの思いをご覧になっています。そして、それに基づいて、私たち人間がどういう人間かということを神様は裁かれるわけです。もうどれほど私たちの思考が、思いが重要であるかということをお分かりいただけたと思います。

詩篇139篇を見てみましょう。詩篇139篇1節2節です。「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます」。神様はすべてをご存知ですね。私たちの思いを読むことがお出来になります。これは本当に特別なことではないでしょうか。神様は遠いところにおられても、私たちの思いをご覧になります。知っておられます。私が、立って歩いている時も私の思いをご覧になります。そして、絶えず、一瞬一瞬私たちの思いを天の記録の書、天のコンピューターに記録されているのです。天のコンピューターに、このようにして私たちの全ての思いが記録されていくんです。


霊的な心 デイビット・カン講演 第4回

2017年02月24日 | 日記

   神の微粒子の発見

 2012年の7月4日、科学者たちがスイスのジュネーブで、このようなことを発表しました。「ついに神の微粒子を見つけた」と言うんですね。その意味を多くの人は理解できませんでしたが、しかし、科学界においては驚くべき発見だったのです。カンタム物理学(量子力学)という分野なんだそうですが、カンタム物理学というのは、この宇宙で小さな要素、粒子を集めて大きな物を形作る、そういったものの研究です。物質という、物体を形作る一番最小の単位がかつては、原子であると思われていました。その原子の核が一番小さいと思われていたのですけども、もっと小さい核が見つかって、それが一番小さい単位だということがわかったというのですね。その微粒子が集まって、集まってこの宇宙の塊、色々な物質を作るというのです。そして、昨年、科学者がさらに小さい、これが世界最小の微粒子であるという、そういったものが発見されて、神の微粒子と言われたわけです。

これが最小なので、それ以上切ってもさらに小さくすることはできないというわけです。神様は、これら神の微粒子を使って何ものかを創造なさっているわけです。それを、ヒッグスゾーンと言います。その記事を読んだ時に興味深く思いました。この世界には、2種類の宇宙がありまして、この大きな広大な宇宙ですね。見えます、巨大な宇宙です。もう一つ小さな宇宙がありまして、小宇宙と言うんですが、これは私たちの肉体のことです。絶えず私たちの脳の中に宇宙が存在しているのです。私たちは思いの中で、宇宙全体を把握することが出来るようになっているんですね。興味深いことではないでしょうか。私たちが考える時、私たちは概念のうちにこの大きな宇宙を、銀河までも取り込むことができるのです。

何億という星を、思いにおいて取り込むことができるのです。月や星や太陽も、大きな天体も、私の思いの中に取り込むことができるのです。驚くべきことではないでしょうか。私たちの思い、この思考というのは神様の奇跡そのものです。神様はどうして私たちを、このような思いを巡らす者にして下さったのでしょうか。

今皆さんはここに座って私の話を聞いておられますね。しかし実際には、皆さんが頭の中でどういうことを思い巡らされているか、私にはわかりません。皆さんの思考、思いがどこにあるかわかりません。ここにいながら、今現在、地球の、世界のどこにでも旅することができます。「ああ、あの美味しい食べ物を、今朝残してしまった。ああ、食べそこなったなあ。今晩うちに帰ったら真っ先にあれを食べよう」。皆さんがそういった食べ物のことを考えているか、考えていないか私にはわかりません。

ここに何人か若い方がおられますが、ある女性は、「私は韓国に住んでいるあのハンサムな男性にまた会いたい」、と思っているかも知れません。どうやって人の思いがわかりますか。皆さんの思考、思いが今どこに飛んでいるか、どうやってわかりますか。火星にまで行っているかもしれません。一瞬にして皆さんは宇宙のどこにでも、思いにおいて行くことが出来るのです。この思考、思いというのは神様の奇跡なのです。


霊的な心 デイビット・カン講演 第3回

2017年02月23日 | 日記

極端な例をあげましたけれども、私たちが話すというのは、私たちの思いが表現されたものなんですね。私も話が好きです。会話するのが好きです。人と会ったら会話を交したいと考えます。ずっと沈黙していたいとは思いません。そうすると、時に家内からこのように言われます。「あなた、あなたもうちょっと黙ったらどうですか。話すのにエネルギーを費やし過ぎますよ。ちょっと自粛したら・・・」。「わかった、わかったもう一言だけ言ったら黙るから」。そしたら、そのあと15分くらい話してしまうとことがあります。私、しゃべるのが大好きなんです。言いたいことがいっぱいあります。なぜなら世界中を旅行して、色んなものを見てきたので、色んな話したいこと、話題があるわけです。

しかし、ある重要なことを悟りました。黙って思い巡らすことが大切なのだということです。そこで私は、深く考えるという訓練を自分で自分に課すようになってきました。『ハバクク書』2章20節に「主はその聖なる宮にいます、全地はそのみ前に沈黙せよ」という聖句があります。どういう意味でしょうか。礼拝する時は、皆ずっと黙っていなくてはいけないということですか?口を開いてはいけないのでしょうか。どういう意味でしょうか。神様がその宮にいますから、全地はみ前に沈黙せよと言う聖句ですね。こういう意味なんです。学生たちは教室に先生たちが入ってくるまでは、もう、おしゃべりをしたり討論をしたり大騒ぎをしている場合がありますね。何かいつも言い合いしているわけですね。「あんた間違っているよ、僕は正しいんだ」。「あ、あの人、間違っている。あっちが正しいけど・・・」。ところが先生がドアを開けて入って来ますと、そして教壇に立ったら、全員がシーンと静まります。誰も一言も発しません。教えられる時が来たからです。

教える時ではなくて、討論する時ではなくて、イエス様の足もとにひざまずいて、私たちは教えられるという姿勢をとる訓練をすべきなのですね。神様のみ言葉によって教えられるということです。 

健康問題をかかえているために、私はかつてのように精力的に、聖書研究することができなくなりました。かつては、常に暇さえあれば読んで研究していました。今はそういうことができなくなっているんですね。そこで以前よりもっと考えるようになりました。私が記憶していること、かつて理解に達したこと、そういったことをまた思い出して噛みしめる、咀嚼するのです。そうしたら私の魂にとって、ものすごく有益な経験となってきました。

ここで単純なことを皆さんに申し上げたいのです。私たち皆が永遠の命にふさわしい者となるように、品性建設を目指していますよね。どうやったそれを成し遂げられるのでしょうか。私たちはどうすればよいのでしょうか。私たちの品性を正しく形成するために何をしなくていけないのでしょうか。


霊的な心 デイビット・カン講演 第2回

2017年02月22日 | 日記

神様の言葉を聞くこと

 

過去2年にわたって、私は色々な健康の問題が出てきました。ご存知のように昨年心臓の大手術を受けました。非常に困難な経験でした。私が生きてこうして皆さんにお話しが出来るというのは、神様の恵み以外の何ものでもないと思います。私の経験は皆さんには分からないかもしれませんが、私に言わせれば、今こうやって座って、このように皆さんに話をしているのは、神様の奇跡なんです。

心臓手術を受ける前には、右目の問題をかかえていました。右目がだんだんぼんやりして、はっきりと物が見えなくなっていました。家内には、私がこのミニストリーの働きにあまりにも打ち込んでしまっているために、自分の体を虐待してボロボロにしたと言われました。「それは不摂生ですよ、あなた」と言われました。それは私の認めるところです。 

しかし、そういった経験を通して、私はもっともっとイエス様のおいでを待ち望む者となりました。出来ることなら、もう一度、20台、30代、40代のそういった肉体を持ちたいのですけれども、しかし私が肉体的にだんだん弱っていった時に、もっともっと、考えを巡らすようになりました。色々なことを冥想するようになりました。以前のように読書に打ち込むのも困難になってしまったので、もっと考える時間を持つようになりました。そしたら、あることを悟るようになったのです。「ああ、私たちの霊的経験というのは、私たちの考え方、冥想の仕方に密接に関係しているのだ」ということが分かってきました。

私たちは、どうやって、どのようにして真理を理解するのでしょう。見ることによってではなく、神様の言葉を聞くことによってなのです。み言葉を冥想し、考え、そして、よく噛みしめることによって理解するのです。

私たちが生きるのは、口から物を食べるその栄養によりますが、のみならず私たちは神様の口から出る一つひとつの言葉によっても生きている者です。では私たちは、どのようにして神様の言葉を食べるのでしょうか、どうやって食べると思いますか?聞かなくてはいけないのです。目で聖書を読むこともありますけれども、それは、つまりみ言葉を聞いていることなのです。ですから、聖書でよくイエス様は言われました。「耳のある者は聞くがよい」と。真理を聞き、噛みしめて、そして消化させなくてはいけません。

多くのクリスチャンにとって、神様のみ言葉の理解というのはきわめて表面的なもので終わってしまっているのです。表面的理解で終わっています。しかし本当の意味で私たちは神様を知らなくてはいけません。神様の思い、神様の意志を私たちは知らなくてはいけないのです。神様のみ心、神様の真理を、私たちはもっともっと思いめぐらさなければいけないのです。神様のみ言葉について考えれば考えるほど、それによって私たちの思想は形づくられていくのです。私たちの感情にも影響を与えます。私たちの思考と感情が一緒になって、私たちの道徳的品性は形作られるのです。

私たちはどうやって品性を建設するのですか。考えることによってです。思いによって、思考によってです。ご存知でしたか?み言葉を聞くだけでなく噛んで、消化するわけですね。咀嚼する・・・。そうすることによって思考パターンができてきます。パターンとは何でしょう。私たちの習慣的な振る舞い、行為です。一定の方向に考えをめぐらし続けるならば、それが私たちの習慣となります。それが品性となっていきます。その考え方、その感じ方・・・。誰かが、皆さんをぶん殴ったとします。皆さんはどうしますか。どのように反応しますか。そのような時どのように考えるか、どのように相手を扱うか、それが思考パターンです。

ある人は非常にせっかちに言葉を出します。また、いつも何か喋っている人がいますね。途切れることなくしゃべって、しゃべりまくる人がいます。ある人はずっと無口で黙っています。何も言いません。そういう人と一日座っていても、二言、三言話すだけで終わってしまいます。


霊的な心 デイビット・カン講演 第1回

2017年02月21日 | 日記

見るものによって変えられる

 

今日のお話のテーマは、非常に重要ですが、多くのクリスチャンがそれに気づいていない事柄について話したいと思います。この主題を理解なさるなら、皆さんのクリスチャン経験の手助けとなることでしょう。

私は、多くのクリスチャンがイエス様との歩みにおいて、しばしば倒れてしまう、そういった経験をしてしまっていると考えています。では、何がそんなにたやすく皆さんを倒れさせるのでしょうか?そして、霊的な状態を低めてしまうのでしょうか?私たちの霊的クリスチャン経験というのは科学そのものなのです。神様は私たちの体である宮を通して働きかけられます。

黙示録によりますと、私たちの額に印を受けるとあります。それはどういう意味でしょうか。なぜ、聖書は額という特定の場所について述べているのでしょうか。『エゼキエル書』9章を見てみますと、エルサレムで行われている様々な背教、堕落について、嘆き悲しむ人たちの額に、ヘブル語でいうと「タウ」というのを押しなさいと書いてあるんですね。この[タウ]と言う文字は、ヘブル語のアルファベットの最後の文字です。その一つの意味は、これら額に[タウ]を押される人々というのは、最後の時代の残りの民、最後まで神様に忠実な者であるということを表しています。そしてこの[タウ]と言う文字ですが、それは後に簡素化されて、実は十字架そっくりの形になったんですね。

この「タウ」という文字について、印を押される経験について、深く掘り下げていく時間はここではないのですけれども、神様は私たちの額を通して、この場所を通って働きかけられます。なぜそうなんでしょうか。額のこの部分に、私たちの理性とか判断力とか、善悪を見極める能力、品性を司る部分がここに位置しているんです。印する経験とは、一瞬ポンと印鑑を押すみたいなものではなくて、これはある一定の過程なのです。真理を信じて受け入れて、聖霊を受け入れて、私たちのうちに働いていただくならば、私たちの品性から聖徒となるのにふさわしくない部分を聖霊が取り除いて下さるのです。そして、宇宙で義人として永遠に生きるのにふさわしい者として、聖霊が私たちの品性を形作って下さるのです。

それはある像を私たちの内に形作るようなものです。神様のみ心、神様の律法に従う、そのような像です。私たちが自らを捧げて、自分自身の額の部分を神様にゆだねる時に、神様が私たちの品性を形作って下さいます。

私たちは見るものによって変えられて行きますよね。皆さんが毎日見るもので品性というもの、人格というものが変わっていきます。これはきわめて重要な点です。私たちが生きている時代は、もう、娯楽にあふれています。この世俗の、俗的なもの、そのようなことばかり考えるように私たちを誘惑します。そうなってしまうと、娯楽とかそういった世俗的なものにとらわれてしまうと、自分で正しい考えを持つことができないほどになってしまいます。世の中にあふれている情報が私たちのうちに入ってきて、大変混乱した状態になっています。インターネットとか映画とかドラマ、音楽とか、様々な広告、新聞、ラジオ、ありとあらゆる情報が私たちに攻撃をしかけてきています。そうなると、考える時間がないほどなんです。静かに落ち着いて考える暇がなくなっているんです。冥想する時間もない。常に何かを見聞きし学んでいて、自分で考える暇が、余裕がなくなってきているんです。そして知らないうちに世の影響に染まっていって、世の形に変えられてしまっているのです。

私たちが霊的な人間にならないように、サタンは常に私たちを汚そうとしています。皆さんの品性を破壊しようと、常にたくらんでいるんですね。世俗的なものに心が捕らわれた時、サタンが勝利することになります。