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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

  恋に落ちた神様 27

2014年06月24日 | 日記

 


  恋に落ちた神様 27

 神様を愛するとは?

私たちは、知らない人を愛することはできませんね。今、道路に出て行って、立っている人を見て、「あなたを愛します」と言ったら、愛が生じるでしょうか。知らない人を愛することはできませんね。皆さんが、天の父なる神様を愛するためには、その方を知らなければなりません。知らない人を愛するといっても、それは長続きしません。

私が一番嫌なことは、人を強制して信じさせることです。そのことが信じられなければ、信じることは出来ないのです。入口の狭いビンがあったとします。そこへ大きな物を入れようとしても、入りません。むりやり入れようとしても入らないのです。信仰や愛も同じで、無理やり信じ込ませたり、愛させたりすることは出来ないのです。自然に愛を知るようになり、分かるようになって愛は芽生えるのです。

サタンは、神様が愛であることを知っているでしょうか?もちろん知っています。サタンは、イエス様が神の子であることを知っているでしょうか?この地上に来られて、十字架で死なれたイエス様が神の子であることを、サタンは知っていますか?当然知っています。どのように知っていたでしょうか。彼はもともと、天でイエス様と一緒にいたので、誰よりもよく知っているんです。私たちは聖書を読んで、信仰を通してイエス様を信じていますが、サタン、ルシファーは、かつてイエス様と一緒に、天にいました。私たちにはぼんやりとしていますが、彼はイエス様をはっきり自分の目で見ていたのです。

   神の火 28

 今こそ聖霊のバプテスマを!

 

ペテロの生涯が変えられたということについて、私たち学んだことがありますよね。使徒ヨハネの変えられた経験も、私たちは知っています。多くの聖徒たちの生涯が、変えられていったことを、私たちは見聞きしているわけです。

私たちもまた、聖霊によって手術を受けなければならないのです。それが聖霊の火のバプテスマです。私たちの思考パターンを、変える必要があります。色んな間違った思いに汚されています。すぐに感情的になるような心を持っています。病んだ心、思いを抱いています。いろんな憎しみ、恨みつらみを持っています。利己心、利己的な目的を持っています。そういったものが、私たちの心に詰まっているのですね。そういったものが変えられる必要があります。

どのようにして変えられるのでしょうか。神様が焼き尽くす火であられます。聖霊を私たちが受け入れる時、ご自身の真理をもって私たちのうちに入ってこられます。すべての汚れを焼き尽くして下さいます。そして私たちを変えて下さるのです。変えられた後、イエス様に似たものとして下さいます。それは、単に私たちの言葉遣いや行動が、親切なものになるというだけのものではありません。もちろんそういったものは伴いますけれども、心の根本の動機が変えられるのです。心の意図を変えてもらう必要があります。思いを、私たちの感情を、真の人生の目的を抱くものとしていただく必要があります。

   *明日より1週間留守をしてブログはお休みとなります。7月3日再開予定です。

 

 


恋に落ちた神様 26

2014年06月23日 | 日記

  

  恋に落ちた神様 26

世界のキリスト教の歴史の中で、AD300年頃、このような出来事がありました。ローマの軍隊の中で、キリスト教信仰を持つようになった兵士がたくさんいました。当時、ローマの兵士たちは、戦いに行く前に、偶像に生贄をささげていました。また、軍隊ですから、敵を殺さなければなりません。クリスチャンの兵士たちは、それが耐えられなくなり、戦うことを拒みました。その結果、不服従の罪によって、多くの兵士たちが殺されていきました。その晩も、40人のクリスチャンの兵士たちが、軍隊の規律を破るということで、処罰されることになりました。その夜の処刑は、厳しい寒さの中、池の氷を割ってその中に立たせておくという方法でした。池の周りには、たき火を用意して、彼らが耐え切れなくなって、信仰を捨てると言って出てくるなら、いつでも助かることが出来るのでした。

40人の兵士たちは、凍った池の中で歌い続けました。「我らは40人のキリストの兵士、主のために死に、主のために生きる!」。だんだん歌声が弱くなり、感覚が麻痺してきて、心臓が引き裂かれるような寒さの中で、とうとう、一人の兵士が、出て行ってしまいました。すると、少し弱くなっていた歌声が、もう一度大きくなりました。「我らは39人のキリストの兵士、主のために死に、主のために生きる!」。

その時、周りで見ていた、ローマ兵の上官が、心の中に熱い感動を覚えました。彼は、一人抜け出たその場所に入って行きました。歌声は、さらに大きくなって聞こえてきました。「我らは40人のキリストの兵士、主のために死に、主のために生きる!」。

やがて、歌声は静まって、40名の兵士は肩を寄せ合い、抱き合ったまま凍って死んでしまいました。皆さん、何が彼らをこのような、迫害や死まで耐えさせたのでしょうか?それは、愛でした。彼らは、キリストの愛によって完成された者でした。

皆さんは、天の父なる神様を愛しておられますか?天のみ国に連れて行って下さるから、滅びを避けられるから、神様を愛していますか。皆さん、私たちは、この世で何か報われるために、そのためにではなくて、ただこの理由、神様が私を愛して下さったから、と言えるでしょうか。死よりも、もっと強い愛を持ってわたしを愛して下さったから、それに応えて皆さんは神様を愛しているのでしょうか。皆さん、イエス様を愛していますか?イエス様を知っていますか?ただ口先で、神様を愛しますと言うのではありません。

     神の火 27

私たち誰もが、肉体的欠陥を抱えていますね。また、私たちの思いのうちに、汚れた部分があります。私たちはイエス・キリストの福音の力によって、心の大手術を受けなくてはならないのです。そして手術を受けた後も、神様の力によって、日に日に、徐々に成長を遂げなくてはならないのです。そうやって罪から脱する方法を学んでいかなければ、習得しなければいけないのです。適切な言葉を語るその方法を、習得していかなくてはなりません。いかに正しい考えを持つか、学ばなければいけません。そうする時に、私たちの生涯は、神様のために大きな力を発揮できるようになるのです。


恋に落ちた神様 25

2014年06月22日 | 日記

   

   恋に落ちた神様 25

もし皆さんの子どもたちが、皆さんの衣を引き裂いて、唾を吐き、刃物を持ってきて皆さんを殺そうとするなら、殺される前に皆さんの心臓は破裂してしまうでしょう。あまりの悲しさで・・・。イエス様は、自分の子供たちから裏切られ、分ってもらえないその苦しみのために、心臓が破裂して亡くなってしまわれました。刃物を持って向かってくる、その子供たちを生かすために・・・。主はこれほどの大きな愛を示されましたが、また、このように警告しておられます。

「そして一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(へブル9:27)。人間が生まれて死ぬのは定まっています。その後には裁きがあるのです。

けれどもイエス様は、そのさばきから救われる道を示して下さいました。イエス様は、あなたに今も、「あなたをこれほど愛して、このように死ぬんだよ。でも、私を信じて、悔い改めるなら、あなたに永遠の命を与えよう」と約束しておられます。

皆さんは、自分の姿を見つめる時、失望するかも知れません。落胆させられることがたびたび起きてきます。絶望する時もあるでしょう。その時は十字架を見つめて下さい。イエス様は、私たちを滅ぼすために来られたではなく、救うために来られたのです!私たちを滅ぼそうとして、怖い目で見ておられるのではありません。

     神の火 26

心臓手術を受けて目覚めた後、あることについて考える時間がありました。心臓手術後、私は4日間眠り続けていたんですね、徐々に眠りから覚めた時、ああ、自分は生きているんだ、と思いました。この肉体の問題を抱えたまま、こういうことも考えました。あの時死んでいたほうが楽だっただろうなと。でも、歩き始めて、また食べることを始めて、そういったリハビリを頑張ってやりました。また再び二本の足で立ち上がるようになるまで、本当に大変な努力をいたしました。一日でパッと歩けるように、神様はして下さいませんでした。だとしたら、本当に楽でいいですよね。もうパッと全部癒されて、そして歩きも走りもする、何も痛まない。もしそうなっていたとしたら、「デビット・カンの命を、神様が本当に素晴らしく救って、癒してくださった。数日のうちに歩いて走っている、彼は神のしもべに違いない」、と人々は言うでしょう。「神様が共におられる、素晴らしい、彼の説教に耳を傾けよう」、こういう筋書きだったらどんなに良いでしょうね。そうはいきませんでした。他の心臓疾患を抱えた患者と同じですね。普通の回復の過程を私が通るのを、神様はお許しになったのです。





恋に落ちた神様 24

2014年06月20日 | 日記

   恋に落ちた神様 24

愛こそ、すべてに勝ち得るのですね。皆さんもそう思いますか?この愛によって、勝ち得ないものは一つもありません。死にも私たちは勝つことが出来るのです。癌がイエス様との愛の仲を引き裂くことが出来ますか。それは一切できないことです。この大いなる愛を悟るならば、私たちの生と死は問題ではなくなります。天の神様は、この私を生かすために十字架で死なれました。イエス様は、十字架の痛みが、あまりにも苦しくて死なれたのではありません。創造者である神様が十字架につけられた時、被造物である人間が、ヘラヘラ笑っていて、神様の愛を分かってくれない、罪の汚れを分かってくれない、何をしているのかさえ分からないでいる、そのあまりの心の痛みで、心臓が破裂して亡くなられたのです。

  神の火 25

 病気から学んだこと

たとえば、心臓の大手術を受けて初めて目覚めた時、私の生涯はこれまでと全く異なったものとなっていました。なぜ自分は生き残ったのか、医者には、もうあなたは望みがない、死ぬでしょうと言われたのです。それでもなぜ生き残ったのか、この治療の過程を通っていた時は、非常に困難な状況でした。その回復段階にあって、指をこうやって上げる力もない時がありました。回復段階にあって、ものすごい痛みも経験しました。実際には望ましくない経験を通ったのですね。何もかも説明できませんけど、非常に困難な経験を通らせてもらいました。今皆さんの前に、こうして座っていて元気そうに見えるかもしれませんが、今では、何をするにも私は妻の助けが必要な状態です。まあ、火傷をしなければ、歩くことは出来たんですけど、通常はこういう状態ではありません。しかし、いずれにしても心臓手術の後、本当に体がガクンと弱りました。

以来、本当に家内にいろんな面で頼ってきました。家内はわたしを愛してくれますから、もう38年、結婚して38年一緒に生きてまいりました。時々こういうことを言ってからかうことがあるんです。「今になって僕を捨てたいとは思わないだろう?」。こういう状態にある私を介護し続けることによって、彼女の真の愛が試されてきたわけです。彼女は真心から私の介護をしてくれました。時には、本当に悪いなあと思うことがあります。二人の子どもを育ててきたのですけれど、今ではもう二人とも大人になっています。二人の子どもを育てた経験はあっても、この体の大きな子どもの世話をするのは、初めての経験だったと思います。


恋に落ちた神様 23

2014年06月19日 | 日記

      

      恋に落ちた神様 23

   愛によって、愛のために

私たちはなぜ存在しているか、分かりましたか?私たちは神様の愛のゆえに存在しています。大きな、限りない神様の愛を受けるために存在しています。私たちに生きる意味を与えるのは神様の愛、それですね。わたしたちの永遠の命のために、イエス様は命を捨てて下さったのですね。

「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をお遣わしになった。ここに愛がある」(Ⅰヨハネ4:9、10)

皆さん、十字架を見つめて、見上げて下さい。十字架を見つめる時、私たちの生きる目的、意味がはっきりとわかります。十字架を見上げる時、私がなぜ存在しているのか、私の人生の意味は何であるのか、ちゃんと悟ることが出来るのです。死よりももっと強い愛を受けていることを、私たちが気づく時、死を恐れない人生を送ることが出来るのです。

「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか、患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。・・・しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちはこれらすべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ8:35、37)。

    神の火 24

それはどのようにして可能なのでしょうか。私たちは、今この邪悪な状態にありながら、それが可能なのでしょうか。しかし、神様はまさにそのことをしようとしておられるのです。イエス様は私たちの模範として、ご自身の生涯を残されました。本当に素晴らしい模範を、私たちが見ることが出来るようにされました。他にも色んな模範があるわけですね。ダニエル、エノク、エリヤ、バプテスマのヨハネ・・・。

ある人たちは、そのような人物は、生まれたのがよかったとか、生まれながら善良だったのだと考えます。しかし彼らもまた、自分の罪と格闘して戦い、そして勝利者となったのです。神様の恵みのうちに、彼らは成長していったのです。

私が今から言うことを、注意深く聞いてください。神様は、皆さんの過去には関心がありません。皆さんが過去にしたことについて、神様は関心を持っておられないのです。皆さんが、今日、また明日何をするかということに、神様は関心を持っておられるのです。私たちは一日、一日と生きていくのです。私たちの真の心の意図は何でしょう。私たちは自分の人生で何を成し遂げようとしているのでしょうか。本当に神様に、全的な信頼を置きたいと思っていますか?今、心からそのような思いを持っているかどうか、イエス様は一人ひとりに関心を持っておられます。   

神様は焼き尽くす火であられます。神様を受け入れる時、そして神様に心に入っていただく時、神様が、聖霊が、焼き尽くす火となられます。私自身も過去において、何度も何度も、聖霊の働きかけに抵抗して来たことがありました。しかしその結果刈り取った、色んな苦い経験から学ばされました。色んな失敗から、試練から学びました。