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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

神様に知られる人  第3回 

2016年09月30日 | 日記

この人たちは、「あなたの名によって行いました」と言っているのですから、一生けん命お祈りもしていたのでしょう。その結果として、神様が奇跡を起こして下さったのだと、本人も回りも思っていたのです。しかしそれは、イエス様の力を利用していただけであって、イエス様の動機、イエス様の心で行っていなかったのです。

お祈りはよく、神様との交わりと言われていますが、彼らの祈りは、一方通行のお願いばかりで、心に語りかける神様のみ声に耳を傾けるものではなかったのではないでしょうか。聖書や摂理を通して語られる、神様のみ声を聞くこともないままいくら祈ったとしても、また、たとえ祈りが聞かれたようなことが起きたとしても、それは実際には悪霊の力によるものであったり、旧約聖書『民数記』のキブロテ・ハッタワの例(11章)にあるように、人間がしきりに求めるので、神様は与えられますが、神様のみ心ではなかったということなのでしょう。

今日一部の教会で行われている、癒しや異言の祈りなども、それがどこから来たものか、よく吟味しなければ、それを行っているから、その人が本物だとか、その教会は神様の教会だとは、必ずしも言えないのです。

 

また、彼らの行動の動機は、純粋なものではありませんでした。自分の行いを誇ったり、称賛してほしいという心や、自分を認めてほしいという思いが、根底に横たわっていたのです。その証拠に、彼らは、自分のやったことを救いの根拠として、持ち出してきています。「これこれのことをやったのですから、救って下さるべきです」とでも言わんばかりです。

もし私たちが、神様から、「あなたは救われませんよ」、と言われた時、「エーッ。どうしてですか、私はきちんと神様の言いつけを守って、礼拝には休まず出席したし、献金もしてきたし、奉仕もしたし、祈祷会にも参加しましたよ!」と、自分のやってきたことが真っ先に思い浮かぶなら、私たちは、いつの間にか十字架の恵みによる救いではなく、自分の行いに頼る信仰になっていたのです。もし万一、終りの時に、イエス様が、「あなたを知らない」と言われたとしても、私たちは、「主よその通りです。今までこの罪深い私を生かして下さったことを感謝します」としか言えないようなものではないでしょうか。もちろんこのように言える低い心を持っている人を、神様が救われないはずはないのですが、根本的に私たちは、救われたら100%の恵みであって、何一つ自己推薦できるようなものはないはずです。ですから、たとえ滅びたとしても、それは当然のことで、それもまた神様の憐れみ、という心でなければならないのではないでしょうか。

そうでなければ、私たちは、いつの間にか自分を見て、「まあまあ良くやっている」、「これなら大丈夫だ」と思って、全てをさせて下さるイエス様の栄光を求めるのではなく、自分の栄光に目を向けてしまいやすいのです。


神様に知られる人  第2回

2016年09月29日 | 日記

どうしてこのようなことになったのでしょうか。実は私の義父が使っていた聖書のこの箇所の欄外には、『品性がキリストに似ていない』と書き込みがしてありました。この人たちは、イエス様を知っていると口では言っていても、本質的にイエス様と同じ品性ではなかったということなのでしょう。自分では一生懸命イエス様のためにと思ってやっていたけれども、心の隠された動機においては、自分のためにやっていた人なのかもしれません。時々、私たちの間でも、相手のためにと思ってやったことが、実は相手にとっては迷惑だったとか、相手が全然望んでいないことをやっていたということがあります。気持ちが通じていない、心が一致していないから、相手が喜ぶことではなく、ただ自分の気持ちを押し付けているだけということがあります。これでは「あなたを知らない」と拒否されても仕方がないかもしれません。

聖書で、「知る」というのは、アダムがエバを「知った」(創世記4:1)という時のように、体験的に知っていることです。知識として知っていることや、表面的に知っているということではなく、深く交わり、お互いによく理解しあっている関係のことですから、そのような交わりがなかったのでしょう。マタイ25章の『賢いおとめと愚かなおとめ』のたとえ話でも、おろかな乙女は、「あなたを知らない」と追い払われてしまいます。彼女たちも、花婿を待つクリスチャンでしたが、聖霊によって変えられた品性を身につけていなかったために、「知らない」と拒否されてしまいます。


神様に知られる人 第1回  山本不二樹

2016年09月28日 | 日記

 神様に知られる人            

             山本不二樹(2014・8・26)

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皆様こんにちは、今日はマタイによる福音書7章21節からのみ言葉を学んでいきたいと思います。

子供が4歳ぐらいの時ですが、テレビのニュース番組を見ていたら「あ、中曽根さんだ」と言って、当時の総理大臣の名前を呼びました。私が、「日本の総理大臣の名前を知っているの?」と言うと、「うん、僕知っているよ」と自慢そうに答えました。日本の総理大臣の名前は、4歳の子供でも知っています。しかし、中曽根さんは、私の子供を知っているかと言うと、全く知りません。こちらは知っているのに、相手は全く知らないのです。実はこれと似たような状況が、聖書に出てきます。マタイ7:21~31。

 「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。

 ここでイエス様から『知らない』と言われてしまう人は、イエス様を知らない人ではなく、むしろよく知っていて、どちらかと言えば熱心なクリスチャンです。この人たちは、「あなたの名によって、預言をし、悪霊を追い出し、力あるわざ、奇跡を行った人」でした。私たちの中で、このようなことを行った人がどれだけいるでしょうか。このような大きな働きをしている、教会の中でも、目だって活躍していた人です。しかもこの人たちは、決して悪霊の名によってではなく、「主の名」を使ってこれらのことをしていたというのです。しかし彼らは、イエス様から、全然知らない、見たこともないと言われてしまうのです。

 自分がずっと好きだと思っていた相手に、「好きです」と告白したら、「あなたのこと全然好きじゃありません」と言われてしまうのです。自分が好きだと思っていたのに、それは一方的な片思いだったのです。大変悲しい話です。

しかもそのように言われてしまうのは、多くの人だと言われています。「主よ、主よ」と言っていた多くの人です。7割、8割ぐらいでしょうか。10人のクリスチャンがいて、その中で本当にイエス様から知られている人は、2、3人なのです。深く考えさせられることではないでしょうか。


助け主聖霊 最終回

2016年09月27日 | 日記

こうした準備の日々は、深く心をさぐる日々でした。弟子たちは霊的な不足を感じ、救霊の働きをするのにふさわしい者となることが出来るように、聖霊が注がれることを祈り求めました。彼らは自分たちのために祝福を求めたのではなく、魂の救いという重荷を負っていました。弟子たちは、福音が世に宣べ伝えられなければならないことを悟って、キリストが約束された力を求めました。彼らのうちに、自己への愛着は、もはや見つけることが出来ませんでした。キリストが託された福音事業に対する重荷だけが彼らの心と魂を満たしていました。

 五旬節の日になって、弟子たちが約束された聖霊の贈り物を、心から嘆願したとき、イエス様は弟子たちの霊的な状態に確信を持つことが出来るようになりました。「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった」(使徒行伝2:1、2)のでした。この驚くべき出来事に、聖霊に満たされた弟子たちは、「ここに愛がある」と叫びました。弟子たちは分け与えられた天の贈り物を捉えました。その後、どのようなことがあったでしょうか?彼らは自分たちが経験した聖霊の働きに得意になったり、それを誇りにしたり、言いふらしたでしょうか?そうではありません。むしろ謙虚さと忍耐と信仰によって、キリストの福音を伝えることに彼らの生涯を燃やし続けたのです。聖霊の驚くべき働きを通して、弟子たちは一日に数千人を悔い改めへと導き、キリスト教会の礎石を築きました。

 今、全天はキリストの福音を代表する人を探しておられます。聖霊の賜物を求める前に、聖霊の実が私たちの生涯に豊かに現れますようにお祈りいたしましょう!

 

 


助け主聖霊 第25回

2016年09月26日 | 日記

4.五旬節直前の経験

 弟子たちはキリストのご命令に従って、エルサレムで天父のお約束の聖霊の降下を待ちました。彼らは「絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」のです(ルカ 24:53)。彼らはまた、イエス様のみ名によって、み父に願いを申し出ようと集まっていました。天には彼らの代表者であられるお方、神様のみ座でとりなしをされるお方がおられるのだということを知っていました。彼らは厳粛な畏敬の念に打たれ「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」 という確証をくり返しながら、こうべをたれて祈りました(ヨハネ 16:23、24)。「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座 し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」という、ゆるぎない論証をもち、彼らは信仰の手をますます高く差しのべたのです(ロー マ 8:34)。

弟子たちは、約束が成就されるのを待っていたあいだ、謙遜な心で本当に悔い改め、また自分たちの不信心を告白しました。彼らは、キリストがなくなられる前にお語りになった言葉を思い出しながら、それらの意味を一層深く理解しました。すでに記憶から消えてしまっていた真理が再び心によみがえってきて、彼らはこれを互いにくり返し合いました。そして、 救い主について誤解していたことを思い、自責の念にかられたのです。主のすばらしいご生涯の場面が行列のように一つひとつ彼らの前を通り過ぎました。

 主の純粋で清らかなご生涯を瞑想しながら、もし、キリストの美しいご品性をあかしする生活をすることができさえすれば、どんな仕事でも難しすぎることはなく、どんな犠牲でも大きすぎることはないと思いました。もし、過去の3年間をもう1度やり直すことが出来るとすれば、 弟子たちはどんなにか違った行動をとることだろうと考えました。

 もし、主に再び会うことが出来さえすれば、どんなにか熱心に、自分たちが主を深く愛していたかを示そうと懸命に努めることでしょう。また、不信の言葉や行動で主を嘆かせたことに、どんなにか真心からのおわびを申し上げるかわかりません。しかし、彼らは、自分たちは赦されていると考えた時に慰められました。そして、主に対する信仰を出来る限り勇敢に世の人々の前で告白し、自分たちの不信心の償いをしようと決心しました。

 弟子たちは人々と接するのにふさわしくなるように、また、日常の交わりの中で罪人をキリストに導くような言葉を語るのにふさわしくなるように、とりわけ熱心に祈りました。意見の不一致や優位を望む心をすべて捨て、クリスチャンの交わりの中で互いに親密になりました。