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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

デイビット・カン講演 サムエルの経験 第3回

2017年04月30日 | 日記

初めにサムエル記上を開いてください、サムエル記上から興味深い所を見ていきたいと思います。初めにサムエル記上3章の1節をご覧ください。お読みします。

「わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった」。

 当時エリという人が大祭司として国を治めていたころ、「主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった」という時代でした。神様の民は、本当の神様の言葉というのを知らなかったのです。大祭司も他の祭司たちもよく分かっていませんでした。彼らは神様の言葉を理解できず、神様の声を聞くことも出来ないでいました。神様のみ言葉の教えというのはもう、目の前にいくらでもあったにもかかわらず、霊的に盲目な状態であったのですね。人をねたむ、貪る、そういった思いを彼らは持っていました。祭司たちも実に荒廃していたのです。特に大祭司エリの息子たち、ホフニとピネハスは腐敗していました。彼らは本当に堕落していて、聖所の中で女性と関係を持つという、そういったことを大胆にもやっていたのですね。神様に献げられたもの、献金とかそういったものも彼らは平気で盗みました。民が捧げ物として持ってくるいけにえの献げ物、動物がいました。それを屠って焼いて、肉にするわけですけれど、彼らはその中で一番良い所を自分のために取って、肉を焼く前に生で彼らは食べていました。まだ肉から血が滴っている状態のまま、それを食べたのですね。彼らの味覚も本当に堕落していました。

現在も多くの人たちが生肉を食べますよね。お魚、刺身だけではなくて、豚肉とか牛肉を生で食べる人たちがいます。そういった人たちを見たことありますか?日本では食べませんか。魚だけでなく豚肉とか牛肉も生で食べますか?何か最近生肉を食べて死亡事故がありましたね。韓国では、非常に豪華な食べ放題のレストランなどに行ったりしますと、そこに大きな皿がありまして、刺身のように生の牛肉が切られておいてあります。皿の上に血が滴っているのが見えます。そういう肉が大好きな人たちがいるのです。その皿は特に人気があって、早く空になります。

サムエルの幼かったころの祭司たちも、同じようなことをしていたのです。もう彼らの知性も鈍くなってしまって、霊的に盲目、目の見えない状態でした。その結果、神様の声が聞こえない状態になっていました。そういう時に、神様は預言者を必要となさるのです。純潔な、空っぽの器を神様は必要となさいます。そういった器を、神様は祭司の中から見つけることは出来ませんでした。レビ人、ラビ、教師たちの中からも見つけることが出来ませんでした。本当にひどい、ひどい状態だったのです。その結果、聖霊が欠乏しているという状態に陥りました。


デイビット・カン講演 12 サムエルの経験 第2回 

2017年04月29日 | 日記

現代のみ言葉の飢饉

 

今朝は皆さんに、サムエルの経験からお話しをしたいと思っております。今朝なぜサムエルの経験から分かっていただきたいかと申しますと、今現在、教会にみ言葉の飢饉が起こっているからなのです。私が今、言おうとしていることがお分かりになりますでしょうか?私たちは神様のみ言葉であふれていますね。すぐにみ言葉を開くことが出来るようになっています。すぐそばに聖書があります。霊感の書もたくさんあります。もうたくさんの本が出ています。先駆者たちが書いた本も残っています。そのように、神様の言葉は私たちのまわりにはあふれています。にもかかわらず今教会は、み言葉の飢饉に苦しんでいるのです。なぜでしょうか?このようなことが、イスラエルの歴史においても繰り返し起きました。イスラエルの人たちも、聖書、神様のみ言葉を持っていました。多くの預言者も現れました。特にモーセの言葉は重要視されていたわけです。当時、サムエルの時代ですが、モーセの言葉が律法として重んじられていたわけです。当時の人たちにとっての預言の霊であったわけですね。それらが神様のみ心の解説をしてくれたわけです。そして神様の戒めの大切な点を解説してくれました。

神様はご自分の民を、真理の民に仕立てようとしておられました。真理が彼らの文化となるように計画しておられました。にもかかわらず、彼らはその神様の期待を大いに裏切ってしまったわけです。その結果、彼らは王様を求めるようになりました。神様を王とするのではなく、人間の王を立てたいと思ったわけです。

神政政治、神様の直接の統治を彼らは欲しくなかったのです。王政国家、王様によって統治される国家を彼らは求めました。つまり、世の中の制度を取り入れたいと、強く思ったわけです。世の中の成功、世の中の繁栄、そういったものに彼らは飢え渇いていました。そのような心の民と神様はどうやって交わることが出来るでしょうか?預言者を通してしか、お出来になりませんでした。ですから、特にモーセの言葉を通してみ心を伝えようとされたのです。

しかしイスラエルの人たちは、それを求めなかったのですね。そういったモーセの言葉、神様からのメッセージを、何と言いますか、もてあましていたわけですね。自分たちの宗教経験においてもっと安易な、自由な立場を得たいと思ったわけです。「神様のみ言葉によってがんじがらめになっている、自分たちは不自由な思いをさせられている」と感じていました。どうしてだと思いますか?なぜなら彼らは、回心という経験にあずかっていなかったからでした。み言葉を自分たちの唯一の生きる道として、それを受け入れていなかったからです。

真の回心の経験は教会でまれにしか見られないのです。つまり、世界中、神様のみ言葉の飢饉に苦しんでいるのです。


デイビット・カン講演・12 サムエルの経験 第1回

2017年04月28日 | 日記

主の訓練を受けて

 今日も皆様お一人おひとりの心に、聖霊の神様がいて下さいますように。聖霊の助けなしにみ言葉を理解することは出来ません。み言葉なしに求霊の働きに携わることは出来ません。私は牧師として何年も働いてまいりました。二十代後半から私は牧師として働いてきまして、伝道者としてたくさんの経験をしてまいりました。色んな伝道セミナー、講演会にも参加してきました。神様に仕えるという働きをすればするほど、はっきりとしてくることがあります。それは、イエス様なしには何事も出来ないということです。当然頭では知っていました。しかし今では、本当に、本当の意味でこのことを理解していると思っています。色んなことに関して、さまざまな訓練を受けて来たのですが、あることについて、特に深く学ばされたことがあります。いつも、常に、神様のみ心がなされるということです。私の思い、私の計画ではなくて、神様の計画が成されていくということですね。本当に強い意志で、自分の方法、自分の計画を押し通そうとするなら、神様はたまにそれを赦されることがあります。しかし常にそういうこと、自分の意思を押し通そうとすると失敗に終わるわけですね。

神様はそうしたことを通して教訓を与えて下さいます。そういう経験を通して、さらに謙虚になるということを学んでまいりました。皆様、真の、本当の信仰とは何でしょう。神様のみ前にへりくだるとはどういうことでしょうか。今、高慢になろうと思っても出来なくなるんですね。なぜなら、へりくだるための経験をさせてもらっているからです。自分自身に栄光を帰することが出来なくなるのです。自分の手柄にすることが出来なくなります。それが不可能になります。全てが神様のみ業だということが分かってきます。常に自分の生涯について、神様のみ心が成っていくということを認めるようになるわけです。そのことを本当の意味で理解するならば、もう高慢になることは、誇り高ぶることは出来なくなるのです。私がやった俺がやったとか。自分の計画がその通りになったとか、自分の努力が実ったとか、そういった思いにひたることが出来なくなるのです。不可能になります。過去にいろんな失敗とか、つまずいた経験を十分させてもらうならば、主の創造の力がいつも私たちには必要だということが分かってきます。

そうすると、毎朝、神様に自分自身を捧げるようになるわけです。「神様今日も、私の心と私の業全てをあなたにお献げします。どうぞあなたのみ業のためにわたしを用いてください」と言うことが出来るようになります。私たちにとって、イエス様が全てのすべてとなります。私たちのなす業、全てにおいてです。全てがもうイエス様のものとなるわけです。救霊の働きに携わることにおいても、イエス様が全てとなります。


心を燃やす聖書の預言 最終回 ソン・ケムン

2017年04月27日 | 日記

私にも母がおり、皆さんにもいらっしゃることでしょう。この写真はもう20年程前のものです。皆さんのお母さんもそうでしょうが、私の母もいつも冷めたご飯を食べ、夜も寝ずに働いて、自分は食事をしなくても、子供にはいい服を着せ、いい食べ物を与え、子供たちのためにはどんな苦しいこともいとわない人でした。子供たちのために耐え忍ぶ母・・・。親にとって子供より尊いものはありません。  

 ところで、皆さんにとって、神様はどのような方でしょうか? 私たちを生み、育ててくださった父であり、母です。私たちの本当の両親になります。そして、神様とって、私たちより尊いものは、この宇宙のどこにもありません。

ですからイエス様は、愛する子どもたちのために、裂かれて亡くなられたのです。 

「女がその乳のみ子を忘れて  その腹の子を あわれまないようなことがあろうか たとい彼らが忘れるようなことがあっても わたしは あなたを忘れることはない」(イザヤ49:15)とおっしゃっています。

 たとえ両親が忘れたとしても、私はあなたを忘れることはない!

イエス様は十字架で亡くなられる最後の時まで、私たちの手をにぎろうとされました。 しかしその差し伸べられた救いのみ手に、人々は釘を刺しました。神様が生んでくださった人間が釘を刺したのです。

自分の息子たちがあざ笑いながら、いばらの冠を負わせ、釘を打って刃物で刺したとしても、そんな彼らの手を放されませんでした。 

左手で神様の衣の裾をつかみ、右手で罪の深い穴に落ちていく人間を握られました。 

つばを吐かれても、その手を離されませんでした。天と地をつなぎとめるために、心臓が破裂するまで苦しみ亡くなられました。

このような親の愛に応じないなら、恩知らずで、人でなしです。皆さん、神様は私たちをそれほど愛しておられるのです。

なぜこの世の中には、多くの痛みと涙と苦しみがあるのでしょうか?

 そのたった一つの解決策、それは愛です。  

そのようなイエス様と共に歩まれる私たちであることを、切に望みます。   (完)


心を燃やす聖書の預言 第19回 ソン・ケムン

2017年04月26日 | 日記

白い雪が降り積もったある冬の日、カンウォンドの深い山の中へ、2人の人が訪れました。年配のアメリカ人と、韓国人の青年でした。雪の中をかきわけてしばらく谷間をたどり、ついにあるお墓の前に立ちました。年配の人が青年に言いました。「ここがお前のお母さんの眠る場所だ」。そして27年前のことを語り始めました。 

 

朝鮮戦争の時、激しい戦闘が続く中、ある米兵が後退しながら深い谷間に身を潜めていたところ、突然変な声が聞こえてきました。それは赤ちゃんの泣き声のようでした。あたりを探すと、泣き声は雪の中から聞こえてきました。助けようと雪をかくと、彼は驚きました。若い女の人が、赤ちゃんを抱いたまま死んでいたのです。しかもその女性は、雪の中で服を一枚もつけずに雪の中に埋もれていたのです。 

 戦闘から避難していた母親は、深い谷間に閉じ込められ動くことができなくなり、

息子を助けるために自分が着ていた服を全部着せて、子供を抱きしめながら凍っていたのです。その姿に心を打たれた兵士は、丁寧に母親を葬り、母の胸で泣いていた赤ん坊を息子として育てることにしました。「その兵士が・・・私で、泣いていたその赤ん坊が・・・お前なんだ!」

 長い年月が経って、子どもが大きくなり青年となったので、アメリカ人の父親は埋葬した青年の母の墓を訪ねてきたのでした。その話を聞いた青年は、降り積もる墓の前にひざまずきました。青年の頬から熱い涙が流れ落ち、膝の下の雪を溶かし始めました。 

しばらくして青年は立ち上がり、自分が着ていた服を脱ぎ始めました。ついに裸になった青年は、墓に積もった雪を丁寧に払い、自分の服をまるで母に着せるように、そっと墓を覆いました。そして こらえきれずに泣き崩れました。「お母さん! お母さん! その日、どんなに寒かったでしょう。僕を救うために、その愛で包んでくれたのですね。お母さん! なんて偉大なのでしょう。誇らしく、いとしいです! せめて夢の中だけでも・・・、 一度だけでも会えたら・・・」。

これは実際にあった話です。