平成24年11月24日に行われた 佐賀城シンポジウム「佐賀城天守を考える」を聴講させて頂きました。
特に前半の基調報告では、とても興味深い報告の数々を聞くことが出来ました。
実はこの日は朝4時起きで家を出て、始発の福岡行きの飛行機に飛び乗り、博多から特急で佐賀に駆け付けるという強行軍だったのですが、疲れも忘れてしまう程の充実した内容でした。
以下、要旨をご紹介します。
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「発掘調査から見た佐賀城天守-佐賀城本丸の遺構-」
(講師:松本隆昌氏・佐賀市教育委員会文化振興課主査)
佐賀城本丸の発掘調査は、本丸跡にあった赤松小学校が平成5年に移転したことが契機になりました。当時、本丸跡には鉄筋コンクリート造りの県立歴史資料館の建設が計画されており、その工事に先立って試掘したところ、予想に反して本丸御殿の礎石が次々と検出され、現場からは驚きの声が上がりました。そこで平成5年から6年にかけて佐賀市主体で本格的な調査が行われ、本丸御殿の遺構が良好な状態で確認されました。なお、これらは天保期の本丸御殿の遺構ですが、一部ではその約50cm下層から創建期の本丸御殿の礎石も検出されています。
今回の天守台発掘調査でも遺構が良好な状態で確認され、以下のことが分かりました。
(1) 巨大な天守を再認識できた。
(2) 土台は石を敷き詰めて大きな礎石を配列。慶長期の礎石が比較的良好な状態で保存されていた。
(3) 礎石の配列から1階部分の部屋割りが推定できる。
(4) 享保の大火を物語る火災痕跡のある多くの礎石・敷石・遺物の大量出土→眼で見る大火の物証(これまでは文献資料・火傷痕のある一部の石垣のみで確認)。
(5) 武器の出土→天守の利用方法。これまで文献から天守に武器が置かれていたことは推定されていたが、物証できた。
(6) 瓦以外に釘や鎹(かすがい)、蝶番(ちょうつがい)、用具掛けなど建築に関する遺物が出土し、建物の様相の一部が判明した。
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「絵図から読み解く佐賀城の謎」
(講師:高瀬哲郎氏・石垣技術研究機構代表/藤口悦子氏・徴古館主任学芸員)
財団法人鍋島報效会には佐賀城の絵図が多数所蔵され、時代ごとの城の構造の変化を知ることが出来ます。この講演では、絵図に描かれた佐賀城の構造を詳しく見て、その意味と時代背景を読み解いてゆきました。
築城の計画図である「慶長御積絵図」(けいちょうおつもりえず)には、本丸・二の丸は総石垣造り、三の丸・西の丸の前面は石垣・土塁と水堀で厳重に防禦され、その外側の重臣屋敷街の外周を廻る土塁上には4棟の隅櫓が建ち、西門・北門・東門は全て枡形門に描かれています。
これらの普請が部分的にしか実現しなかったのは、元和元年(1615)に幕府が出した武家諸法度の新規築城禁止を受けて中止したためと考えられます。佐賀城は厳密には未完成の城でした。
しかし、長崎街道に接する北側には、城下町を隔てて東西に十間堀を開削し、さらに堀を廻らせた城郭構えの寺院2ヶ所と出城を配置して防衛線を構築していました。
豊後・岡藩の密偵が佐賀城下に潜入した際の報告書にも、佐賀城には容易に入ることが出来ないという意味の事が書かれています。未完成でも守りの堅い城だったのです。
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「佐賀城天守-古式で最新型であった全国最大級の天守-」
(講師:三浦正幸氏・広島大学大学院教授)
佐賀城天守台の発掘調査によって、天守の内部構造は書院造り(礎石の配列から判明)、窓は突上戸(多数の蝶番=ちょうつがい=が出土)だったことが明らかになりました。
ともに古式に則った構造で、格式の高い天守を志向したと考えられます。
一方、天守の外観は、屋根には破風を設けない四重の層塔式天守(「寛永御城并小路町図」)という最新の意匠を凝らしていました。
また、「元茂公御年譜」には、佐賀城天守は黒田如水から提供された小倉城天守の図面に基づいて建てられたと記されていることから、小倉城天守と同じく最上階の5階が4階より大きく張り出した斬新な唐造りだった可能性も考えられます。
※ 先に天守台の発掘調査の項で触れましたが、佐賀城天守の礎石は最大で一辺1.8m、厚さ0.7mにも及ぶ巨大なものです。他の城の天守では、この三分の一くらいのサイズの礎石が使われており、類例のない大きさです。
また、礎石の範囲から、天守一階は天守台上一杯に建ち、15間×13.5間と分かりました。
一階の広さでは熊本城(13×11間)・姫路城(13×10間)を凌ぎ、名古屋城(17×15間)に準じる規模です。
巨大な礎石は、この上に建つ天守がいかに壮大であったかを示しています。
特に前半の基調報告では、とても興味深い報告の数々を聞くことが出来ました。
実はこの日は朝4時起きで家を出て、始発の福岡行きの飛行機に飛び乗り、博多から特急で佐賀に駆け付けるという強行軍だったのですが、疲れも忘れてしまう程の充実した内容でした。
以下、要旨をご紹介します。
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「発掘調査から見た佐賀城天守-佐賀城本丸の遺構-」
(講師:松本隆昌氏・佐賀市教育委員会文化振興課主査)
佐賀城本丸の発掘調査は、本丸跡にあった赤松小学校が平成5年に移転したことが契機になりました。当時、本丸跡には鉄筋コンクリート造りの県立歴史資料館の建設が計画されており、その工事に先立って試掘したところ、予想に反して本丸御殿の礎石が次々と検出され、現場からは驚きの声が上がりました。そこで平成5年から6年にかけて佐賀市主体で本格的な調査が行われ、本丸御殿の遺構が良好な状態で確認されました。なお、これらは天保期の本丸御殿の遺構ですが、一部ではその約50cm下層から創建期の本丸御殿の礎石も検出されています。
今回の天守台発掘調査でも遺構が良好な状態で確認され、以下のことが分かりました。
(1) 巨大な天守を再認識できた。
(2) 土台は石を敷き詰めて大きな礎石を配列。慶長期の礎石が比較的良好な状態で保存されていた。
(3) 礎石の配列から1階部分の部屋割りが推定できる。
(4) 享保の大火を物語る火災痕跡のある多くの礎石・敷石・遺物の大量出土→眼で見る大火の物証(これまでは文献資料・火傷痕のある一部の石垣のみで確認)。
(5) 武器の出土→天守の利用方法。これまで文献から天守に武器が置かれていたことは推定されていたが、物証できた。
(6) 瓦以外に釘や鎹(かすがい)、蝶番(ちょうつがい)、用具掛けなど建築に関する遺物が出土し、建物の様相の一部が判明した。
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「絵図から読み解く佐賀城の謎」
(講師:高瀬哲郎氏・石垣技術研究機構代表/藤口悦子氏・徴古館主任学芸員)
財団法人鍋島報效会には佐賀城の絵図が多数所蔵され、時代ごとの城の構造の変化を知ることが出来ます。この講演では、絵図に描かれた佐賀城の構造を詳しく見て、その意味と時代背景を読み解いてゆきました。
築城の計画図である「慶長御積絵図」(けいちょうおつもりえず)には、本丸・二の丸は総石垣造り、三の丸・西の丸の前面は石垣・土塁と水堀で厳重に防禦され、その外側の重臣屋敷街の外周を廻る土塁上には4棟の隅櫓が建ち、西門・北門・東門は全て枡形門に描かれています。
これらの普請が部分的にしか実現しなかったのは、元和元年(1615)に幕府が出した武家諸法度の新規築城禁止を受けて中止したためと考えられます。佐賀城は厳密には未完成の城でした。
しかし、長崎街道に接する北側には、城下町を隔てて東西に十間堀を開削し、さらに堀を廻らせた城郭構えの寺院2ヶ所と出城を配置して防衛線を構築していました。
豊後・岡藩の密偵が佐賀城下に潜入した際の報告書にも、佐賀城には容易に入ることが出来ないという意味の事が書かれています。未完成でも守りの堅い城だったのです。
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「佐賀城天守-古式で最新型であった全国最大級の天守-」
(講師:三浦正幸氏・広島大学大学院教授)
佐賀城天守台の発掘調査によって、天守の内部構造は書院造り(礎石の配列から判明)、窓は突上戸(多数の蝶番=ちょうつがい=が出土)だったことが明らかになりました。
ともに古式に則った構造で、格式の高い天守を志向したと考えられます。
一方、天守の外観は、屋根には破風を設けない四重の層塔式天守(「寛永御城并小路町図」)という最新の意匠を凝らしていました。
また、「元茂公御年譜」には、佐賀城天守は黒田如水から提供された小倉城天守の図面に基づいて建てられたと記されていることから、小倉城天守と同じく最上階の5階が4階より大きく張り出した斬新な唐造りだった可能性も考えられます。
※ 先に天守台の発掘調査の項で触れましたが、佐賀城天守の礎石は最大で一辺1.8m、厚さ0.7mにも及ぶ巨大なものです。他の城の天守では、この三分の一くらいのサイズの礎石が使われており、類例のない大きさです。
また、礎石の範囲から、天守一階は天守台上一杯に建ち、15間×13.5間と分かりました。
一階の広さでは熊本城(13×11間)・姫路城(13×10間)を凌ぎ、名古屋城(17×15間)に準じる規模です。
巨大な礎石は、この上に建つ天守がいかに壮大であったかを示しています。