佐賀城 ② - 築城400年記念事業で天守台を発掘調査 -

2012-12-03 22:24:23 | 旅行記
享保11年(1726)3月4日、佐賀城東北方の武家屋敷地で火災が発生しました。
悪いことに、その日は「東北の風、以てのほか烈しく」という状況で、強風に煽られた炎は、広大な四十間堀を越えて城内に飛び火します。
その結果、天守・本丸御殿をはじめ、本丸・二の丸・三の丸の建物は、ほぼ全焼してしまいました。


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【寛永3年(1626)の絵図 立派な天守が描かれる】

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【元文5年(1740)の絵図 天守が失われている】


以後、佐賀城の天守は再建されることなく、天守台のみを今に伝えています。


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天守台は、石垣の高さ5間(約9.8m)、台上の広さ15間×13.5間(約29.5×約26.6m)という巨大なものです。


ところで、平成23年(2011)は、佐賀城内曲輪がほぼ完成し鍋島勝茂が本丸御殿に移った慶長16年(1611)から400年目の年でした。
佐賀市ではこれを築城400年と位置付け、同市教育委員会によって3年計画での天守台の発掘と文献の調査が開始されました。
発掘調査は、平成24年10月から本格的に始まり、他の城に類を見ないような数々の発見がありました。
以下は、11月24日に行われた現地説明会及び佐賀城シンポジウムの概要です。


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また、礎石の範囲から、天守一階は天守台上一杯に建ち、15間×13.5間と分かりました。
一階の広さでは熊本城(13×11間)・姫路城(13×10間)を凌ぎ、名古屋城(17×15間)に準じる規模です。
巨大な礎石は、この上に建つ天守がいかに壮大であったかを示しています。
また、礎石の配列から天守一階の部屋割りが推定できました。1.5間幅の入側(廊下)や2.5間幅の部屋など、半間という寸法設定が多用されているのが特徴です。これは、床の間や違い棚を配置した書院造であった影響と考えられます。
信長の安土城、秀吉の大坂城までは、天守の内部は書院造でした。しかしそれ以降の多くの天守は、櫓が巨大化したような内部構造となり、実際に倉庫として使われるようになります。そんな中で、佐賀城は正統派の書院造の天守と位置づけられるそうです。