佐賀城 ④ -佐賀城シンポジウム 「佐賀城天守を考える」-

2012-12-15 10:44:32 | 旅行記
平成24年11月24日に行われた 佐賀城シンポジウム「佐賀城天守を考える」を聴講させて頂きました。
特に前半の基調報告では、とても興味深い報告の数々を聞くことが出来ました。
実はこの日は朝4時起きで家を出て、始発の福岡行きの飛行機に飛び乗り、博多から特急で佐賀に駆け付けるという強行軍だったのですが、疲れも忘れてしまう程の充実した内容でした。

以下、要旨をご紹介します。


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「発掘調査から見た佐賀城天守-佐賀城本丸の遺構-」
  (講師:松本隆昌氏・佐賀市教育委員会文化振興課主査)

佐賀城本丸の発掘調査は、本丸跡にあった赤松小学校が平成5年に移転したことが契機になりました。当時、本丸跡には鉄筋コンクリート造りの県立歴史資料館の建設が計画されており、その工事に先立って試掘したところ、予想に反して本丸御殿の礎石が次々と検出され、現場からは驚きの声が上がりました。そこで平成5年から6年にかけて佐賀市主体で本格的な調査が行われ、本丸御殿の遺構が良好な状態で確認されました。なお、これらは天保期の本丸御殿の遺構ですが、一部ではその約50cm下層から創建期の本丸御殿の礎石も検出されています。

今回の天守台発掘調査でも遺構が良好な状態で確認され、以下のことが分かりました。

(1) 巨大な天守を再認識できた。
(2) 土台は石を敷き詰めて大きな礎石を配列。慶長期の礎石が比較的良好な状態で保存されていた。
(3) 礎石の配列から1階部分の部屋割りが推定できる。
(4) 享保の大火を物語る火災痕跡のある多くの礎石・敷石・遺物の大量出土→眼で見る大火の物証(これまでは文献資料・火傷痕のある一部の石垣のみで確認)。
(5) 武器の出土→天守の利用方法。これまで文献から天守に武器が置かれていたことは推定されていたが、物証できた。
(6) 瓦以外に釘や鎹(かすがい)、蝶番(ちょうつがい)、用具掛けなど建築に関する遺物が出土し、建物の様相の一部が判明した。


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「絵図から読み解く佐賀城の謎」
  (講師:高瀬哲郎氏・石垣技術研究機構代表/藤口悦子氏・徴古館主任学芸員)

財団法人鍋島報效会には佐賀城の絵図が多数所蔵され、時代ごとの城の構造の変化を知ることが出来ます。この講演では、絵図に描かれた佐賀城の構造を詳しく見て、その意味と時代背景を読み解いてゆきました。
築城の計画図である「慶長御積絵図」(けいちょうおつもりえず)には、本丸・二の丸は総石垣造り、三の丸・西の丸の前面は石垣・土塁と水堀で厳重に防禦され、その外側の重臣屋敷街の外周を廻る土塁上には4棟の隅櫓が建ち、西門・北門・東門は全て枡形門に描かれています。
これらの普請が部分的にしか実現しなかったのは、元和元年(1615)に幕府が出した武家諸法度の新規築城禁止を受けて中止したためと考えられます。佐賀城は厳密には未完成の城でした。
しかし、長崎街道に接する北側には、城下町を隔てて東西に十間堀を開削し、さらに堀を廻らせた城郭構えの寺院2ヶ所と出城を配置して防衛線を構築していました。
豊後・岡藩の密偵が佐賀城下に潜入した際の報告書にも、佐賀城には容易に入ることが出来ないという意味の事が書かれています。未完成でも守りの堅い城だったのです。

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「佐賀城天守-古式で最新型であった全国最大級の天守-」
(講師:三浦正幸氏・広島大学大学院教授)

佐賀城天守台の発掘調査によって、天守の内部構造は書院造り(礎石の配列から判明)、窓は突上戸(多数の蝶番=ちょうつがい=が出土)だったことが明らかになりました。
ともに古式に則った構造で、格式の高い天守を志向したと考えられます。
一方、天守の外観は、屋根には破風を設けない四重の層塔式天守(「寛永御城并小路町図」)という最新の意匠を凝らしていました。
また、「元茂公御年譜」には、佐賀城天守は黒田如水から提供された小倉城天守の図面に基づいて建てられたと記されていることから、小倉城天守と同じく最上階の5階が4階より大きく張り出した斬新な唐造りだった可能性も考えられます。

※ 先に天守台の発掘調査の項で触れましたが、佐賀城天守の礎石は最大で一辺1.8m、厚さ0.7mにも及ぶ巨大なものです。他の城の天守では、この三分の一くらいのサイズの礎石が使われており、類例のない大きさです。
また、礎石の範囲から、天守一階は天守台上一杯に建ち、15間×13.5間と分かりました。
一階の広さでは熊本城(13×11間)・姫路城(13×10間)を凌ぎ、名古屋城(17×15間)に準じる規模です。
巨大な礎石は、この上に建つ天守がいかに壮大であったかを示しています。



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佐賀城 ③ - 築城400年記念事業で天守台を発掘調査・其の二 -

2012-12-05 00:11:06 | 旅行記
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礎石群は、火災の高熱で赤黒く焼け爛れており、亀裂の入ったものもあります。

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また、高熱で赤く変色した瓦や、



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高熱で化学変化を起して敷土や壁土と一塊になった瓦も見られ、火災の凄まじさを物語っています。

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焼け跡の整理の際に遺棄されたと見られる小札(こざね)や佩楯(はいだて)などの甲冑の部品、槍の石突(いしづき)などの武具が出土しました。


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甲冑は天守に納められていた歴代藩主のものである可能性が考えられます。

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さらに、釘や鎹(かすがい)、蝶番(ちょうつがい)、用具掛けなど建築に関する遺物も出土し、天守の様相の一部も判明しました。

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特に大量に発見された蝶番(ちょうつがい)から、天守の窓が突上戸(つきあげど)であったことが判明しました。


佐賀城 ② - 築城400年記念事業で天守台を発掘調査 -

2012-12-03 22:24:23 | 旅行記
享保11年(1726)3月4日、佐賀城東北方の武家屋敷地で火災が発生しました。
悪いことに、その日は「東北の風、以てのほか烈しく」という状況で、強風に煽られた炎は、広大な四十間堀を越えて城内に飛び火します。
その結果、天守・本丸御殿をはじめ、本丸・二の丸・三の丸の建物は、ほぼ全焼してしまいました。


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【寛永3年(1626)の絵図 立派な天守が描かれる】

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【元文5年(1740)の絵図 天守が失われている】


以後、佐賀城の天守は再建されることなく、天守台のみを今に伝えています。


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天守台は、石垣の高さ5間(約9.8m)、台上の広さ15間×13.5間(約29.5×約26.6m)という巨大なものです。


ところで、平成23年(2011)は、佐賀城内曲輪がほぼ完成し鍋島勝茂が本丸御殿に移った慶長16年(1611)から400年目の年でした。
佐賀市ではこれを築城400年と位置付け、同市教育委員会によって3年計画での天守台の発掘と文献の調査が開始されました。
発掘調査は、平成24年10月から本格的に始まり、他の城に類を見ないような数々の発見がありました。
以下は、11月24日に行われた現地説明会及び佐賀城シンポジウムの概要です。


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また、礎石の範囲から、天守一階は天守台上一杯に建ち、15間×13.5間と分かりました。
一階の広さでは熊本城(13×11間)・姫路城(13×10間)を凌ぎ、名古屋城(17×15間)に準じる規模です。
巨大な礎石は、この上に建つ天守がいかに壮大であったかを示しています。
また、礎石の配列から天守一階の部屋割りが推定できました。1.5間幅の入側(廊下)や2.5間幅の部屋など、半間という寸法設定が多用されているのが特徴です。これは、床の間や違い棚を配置した書院造であった影響と考えられます。
信長の安土城、秀吉の大坂城までは、天守の内部は書院造でした。しかしそれ以降の多くの天守は、櫓が巨大化したような内部構造となり、実際に倉庫として使われるようになります。そんな中で、佐賀城は正統派の書院造の天守と位置づけられるそうです。


佐賀城 - 「のぼうの城」もビックリ、 逆・水攻めの城!? ー

2012-12-01 22:15:56 | 歴史
佐賀城 (佐賀県佐賀市)



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佐賀城は、佐賀藩35万7000石・鍋島氏歴代の居城です。



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元々この地には、鎌倉時代以来、一帯を支配してきた龍造寺氏の居城・村中城が在りました。
佐賀平野の小豪族に過ぎなかった龍造寺氏は、戦国時代に至って急速に勢力を拡大してゆきます。
戦国時代後期の当主・龍造寺隆信は、豊後の大友氏、薩摩の島津氏と九州での勢力を三分するまでに成長し、
「五州二島の太守」
と仰がれました。

しかし天正12年(1584)、隆信は島原半島の沖田畷で有馬氏・島津氏の連合軍に敗れて戦死。龍造寺氏の勢力圏は音をたてるように崩壊し始めます。
そこで隆信の従兄弟にあたる鍋島直茂の手腕によって体制の立て直しがすすめられ、本拠の佐賀平野を中心とする領国が維持されました。



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天正15年(1587)、隆信の嫡子・龍造寺政家は豊臣秀吉より肥前7郡を安堵されます。
天正18年(1590)、政家は5000石余の隠居領を与えられて退き、鍋島直茂が豊臣政権下での大名になりました。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、直茂の嫡子・勝茂は西軍に属したものの、戦後に徳川家康に詫びを入れて許され、かろうじて領国を安堵されます。



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慶長7年(1602)、直茂は新たな築城に着手します。
かつての村中城を敷地内に取り込み、東西900×南北850メートルの巨大な平城が計画されました。これが佐賀城です。

城普請は、段階的に行われてゆきます。

 慶長8年(1603)正月、本丸御殿台所が竣工。続いて本丸総普請。

 同12年(1607)、西の丸三階櫓建設と外曲輪の普請。

 同13年(1608)、本丸から三の丸までを囲む四十間堀の普請。

 同14年(1609)、天守の建設。

そして、慶長16年(1611)に内曲輪はほぼ完成し、勝茂は本丸御殿に移っています。


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その後、慶長19年(1614)より外郭の普請に着手しましたが、元和元年(1615)に幕府が出した武家諸法度の新規築城禁止を受け、未着工だった部分の石垣普請などは中止され、土手を築いて竹木を植えるにとどめました。
佐賀城は、言わば未完成の名城なのです。



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ところで佐賀城には、万一敵の攻撃を受け、いよいよ危うくなった場合、起死回生の秘計が用意されていたとする伝承があります。
堀の普請を一任された鍋島氏の重臣・成富兵庫の設計により、いざという時に八田江・佐賀江の排水を止めて、多布施川の水を取り入れると、佐賀城の本丸を残して二の丸・三の丸まで城下町もろとも水没する仕掛けになっていたというのです。

「佐賀城は本丸だけが孤立しても、ここぞとばかりに洪水を起して、城を十重二十重に包囲する敵の大軍を一挙に水没させる」
果たして、こんな奇想天外な戦術が実行できるものなのか???
あくまでもお話の世界の事と言ってしまえばそれまでですが、もしかすると鍋島の殿様が流したデスインフォメーション(敵方を牽制、攪乱するための偽情報)かも?
・・・と、考えるのは勘繰りすぎでしょうか。