岸岳城 ② -土地の人々の思いは、伝説に語り継がれて-

2012-12-18 23:23:42 | うんちく・小ネタ
岸岳城 きしだけじょう (佐賀県唐津市)


岸岳城は、数多くの伝説を持つお城です。

今回は、そうした伝説の中から主なものを紹介してみましょう。


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まず、城が築かれた山・岸岳の名前の由来には、こんな伝説があります。

「昔々、この山には山賊どもが住み、里の人々への乱暴狼藉を極めておった。里人はこの山を鬼が住む山と言って恐れ、いつしか鬼子岳(きしだけ)と呼ぶようになったそうな・・・」

さらに別の伝説によると、

「この山賊(鬼)どもの悪事に業を煮やした朝廷は、大江山の酒呑童子退治で有名な渡辺綱(わたなべの つな)の長男・源久(みなもとの ひさし)を大将に討伐軍を差し向けた。そして、見事に山賊どもを討ち果たした源久は、褒美として松浦郡を領地として与えられた」

となっています。

この源久の次男が源持(みなもとの たもつ)です。
源持は、松浦郡の内から波多郷を分与され、波多氏を名乗り、岸岳城を築いたとされます。
ここから話は、岸岳城の歴史へとつながってゆきます。

そして歳月は流れて四百余年、持(たもつ)の17代目の子孫・波多親(はた ちかし)は、戦国時代を生き抜き、豊臣秀吉の政権の下で領国を安堵されます。
しかし、文禄2年(1593)、朝鮮出兵からの帰国の船上で突然に領地の没収と常陸国・筑波山麓への配流を命じられます。
親(ちかし)は筑波山麓で没し、波多氏は滅亡してしまいます。

突然の領地没収。

一体、何があったのでしょう。

伝説は、そこに意外な理由があったことを語り伝えています。

「波多親(はた ちかし)の妻は、名を秀の前(ひでのまえ)といい、たいへんな美人でした。悪いことに、その評判が岸岳城からほど近い名護屋城に滞在中の豊臣秀吉の耳に入ってしまいます。
秀吉は、親(ちかし)が朝鮮半島へ出陣した留守を狙い、秀の前を名護屋城に呼び付けました。秀の前はやむなく名護屋城で秀吉の前に出ますが、もしもの時は自害をしようと覚悟を決め、懐に短刀を忍ばせていました。
そのことが秀吉の怒りを買ってしまい、波多氏は領地を没収されてしまいました・・・。」

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こうした数々の伝説は、波多氏が滅亡後も土地の人々から追慕され続けた証だと見て良いでしょう。

波多氏の後、その遺領には寺沢氏が入封して新たに唐津城を築きます。
寺沢氏が改易された後、唐津藩主は、大久保氏・大給松平氏・土井氏・水野氏・小笠原氏と代わってゆきます。
しかし、土地の人々にとっては、我らが郷土の殿様は四百余年にわたって続いた波多氏であって、寺沢氏以降の殿様は皆、よそ者という感覚だったのかも知れません。


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