桜満開!津山城を歩く。  ~国持大名のプライドと、亡き父と兄たちへの思いで築いた大城郭~

2014-04-11 00:01:24 | まち歩き
思いがけないところで、振替休暇が舞い込んで来ました。
ならばこの機会に!と思い立ち、車を走らせて津山城の桜を見てきました。

桜の名所になっているお城は数多ありますが、ここ津山城(鶴山公園)は
「日本さくら名所100選」にも入選しているだけあり、予想をはるかに超えた
美しさでした。



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津山城  つやまじょう (岡山県津山市)


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津山城は、森忠政(もり ただまさ)が築いたお城です。

森忠政と聞いても、あまりピンとこない方も多いかも知れません。
忠政は、織田信長配下の猛将で、姉川合戦でも活躍した森可成(もり よしなり)の六男です。
また、信長の小姓として有名な森蘭丸(史実では「乱丸」と表記)は、忠政の兄(三兄)です。

忠政は、末っ子の六男なので、本来ならば大名になれる立場では無かったのかも知れません。
ところが、森家が相次ぐ悲運に見舞われ、忠政もその渦中に巻き込まれてゆきます。
長兄・可隆(よしたか)と父・可成は、浅井氏・朝倉氏との戦いで戦死。
信長に小姓として仕えていた三兄・蘭丸、四兄・坊丸、五兄・力丸は、天正10年(1582)の本能寺の変で戦死。
そして、家督を継いでいた次兄・長可(ながよし)も、天正12年の小牧長久手合戦で戦死してしまいます。

こうして、六人兄弟の中で一人生き残った忠政は、幼くして家督を継ぎました。
そして、元服後に秀吉政権下で大名に取り立てられ、美濃国の金山城主となりました。
さらに、秀吉が没した慶長3年(1598)、忠政は信濃国へ国替となり、松代城主となりました。

慶長5年の関ヶ原合戦では、忠政は徳川家康の東軍に属しました。
その戦功で慶長8年、信濃松代13万7500石から美作国18万6500石へ、加増のうえ国替となりました。
そして、慶長9年から津山城の築城を開始、
足かけ13年を要し、元和2年(1616)に完成しました。

当時、18万6500石というと、石高としては中堅クラスの大名です。
しかし津山城は、そのレベルをはるかに超越したスケールの大城郭でした。
城が立地する鶴山には、幾重にも高石垣が廻らされ、曲輪群を構成しています。
その石垣の上に、五層天守をはじめ、30棟を数える櫓が建ち並ぶ威容は、中国地方でも屈指のものでした。
忠政は、なぜ津山城をこれほど壮大に築いたのでしょうか?

おそらく、「国持大名」(くにもちだいみょう)としての自負心でしょう。
大名の中でも、一ヶ国を丸ごと領有する者を「国持大名」といいます。
これは、大名として最高ランクの格式と位置付けられていました。
忠政は、美作一国を丸ごと領有する「国持大名」となり、格式では肥後の加藤清正(熊本城主・58万石)、
播磨の池田輝政(姫路城主・52万石)と並んだのです。
そのプライドが、これほどの大城郭を築く動機になったのでしょう。
また、志半ばで戦場に散っていった父親や兄たちへの思いも籠っていたのかも知れません。




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桜花爛漫、津山城を訪ねて


 〈撮影 : 平成26年(2014)4月9日〉


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吉井川の対岸から見た津山城。

ひな壇状に、幾重にも石垣が廻らされています。


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三の丸の石垣と桜。


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表中門(おもてなかもん)の跡。

石段を登り詰めたら二の丸に至ります。
広々とした石段は、まるで宮殿の入り口のようです。


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備中櫓(びっちゅうやぐら)

天守に次いで、津山城のシンボル的な建物でした。
明治初年、他の建物とともに破却されましたが、平成17年(2005)に忠実に復元されました。

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本丸石垣と桜。


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天守台の上から見た備中櫓。


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天守曲輪から、城下町西方を見る。

まるで、桜の雲海に浮かんでいる心地です。


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本丸の北東部、粟積櫓(あわづみやぐら)跡から見た、月見櫓跡の高石垣。

ここは城外に向かって突出する立地上、石垣を特に高く築き上げて防御力を高めています。


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天守曲輪の北西部付近の石垣。


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再び、備中櫓を見上げる。


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